酷く続いた五月雨の中の小休止。爽やかな風が流れながらも、あたしの眠気は留まるところを知らない。眠気がいつになく襲う理由は、パパのせいだけじゃないってことは分かってる。そのことを思い出せば背筋から這い上がる何者かが、あたしを襲うからだ。弦一郎が……そういう気分になっているってこと。あの時は驚きと膝の痛みや悩ましい部の問題でどう自分の中で処理していいのか対処に困りぼんやりとしていたけれど……、思い出せば思い出すほど指先までじんわりと熱がこもる。頬が熱くなる。そうやって穏やかな眠りの妨げになってしまってるのだ。でもそんなことを考えてる暇もなく季節は巡り、弦一郎の16回目のお誕生日がやってくる。彼氏彼女の関係になって、初めてのお誕生日プレゼントだし何をあげればいいのか四月の中旬から考えあぐねていたのだ。でも弦一郎に趣味や嗜好、一挙手一投足までも想いを巡らせればつい最近に節くれだった手があたしを求めていることに意識が行ってしまう。あたしの息遣いまでも奪われてしまいそうな、そんな強引さに幾度となく連れ攫われてしまいそうな気分になる。それだけ好きってちゃんと思われてる証しなんだろうけど……。それにしても恥ずかしいし、きっとはしたないと思われるからこんな思い絶対弦一郎には知られたくない。弦一郎の熱い息がうなじを掠めていた事実を毎晩湯船で思い返してしまうことなんて、絶対に弦一郎に意識されたくない。そんなことが弦一郎に伝わってしまったら……あたし生きていけない……!!
そんな気持ちはとりあえず横に置いといて、弦一郎のお誕生日プレゼントへのセレクションは気合いの入ったものになった。イタチの毛の小筆(大筆は高校生が買える値段じゃなかった)、それだけじゃインパクトに欠けるのでいつでも使えるだろうSの刺繍が入ったグレーのハンカチにうさいぬのギフトカードに綴った日頃の感謝の思い。正直うさいぬの良さはあたしの美的感覚ではよく分かってない代物なんだけど、弦一郎が好きな物という認識はちゃんとあるのでカードに使ってみた。でも正直言ってプレゼント渡す機会っていつ?!あたしのことはマネージャーとしてみんなが集まって祝ってくれるけど、個々人のお祝いって……中三の時のメンバーではみんな集まって一緒に祝ってあげたりしたんだけど……。初めて彼女として祝うあたしはどうやって渡せばいいの?!
あたしがこんな風に最近百面相していたせいかせっちゃんにはお見通しといった風に昼時のカフェテリアで「真田と何かあったの?」といつもの穏やかな物腰で指を組ませて容易くは崩れやしないだろう笑顔を目の前に突きつけてきた。
「ちが、なんもないよ!」
「無駄な抵抗だね」
「警察みたいなこと言わないでよ」
「フフ、まあ部活に精を出してくれるのは大助かりだけどね。少しは休んだほうがいいんじゃない」
「県大会が控えてる今そんなことしてる暇ないもん」
「そんなに根詰めなくたって優勝は逃げないのに」
「……今日の予定、16時半に月刊プロテニスの井上さんと芝さんの来訪があります。三強の特集なんだから、練習早めに切り上げなきゃいけないの分かってる?」
「その後は、真田へプレゼントを贈る彼女の盛大なセレモニーでもあるのかな?」
せっちゃんは意地悪い口撃の手を緩めない。あたしで遊ぶのやめろって、みんなに何度言えば分かるの?!確かに弦一郎は超がつくほど真面目でいじり甲斐があるかもしれないけどさ、あたしのこといじったって何も面白くないよ!どんなタイミングで渡せてもいいように机の下、膝の上に紙袋を忍ばせているのもせっちゃんには全て透けて見えているようだ。ムッと口を尖らせていると「悪かったよ」と朗らかに笑って許しを請う幼馴染にあたしは絆されてばかりだ。
「今年のプレゼントは何なの?」
「……小筆とハンカチとうさいぬのカード」
「真田も幸せ者だなぁ、趣味をよく理解してくれてる彼女を持って」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からないせっちゃんの言葉の大概は褒めていると受け取った方が都合いいので、あたしは調子に乗って「フフン、そうでしょ」と得意気に笑みを浮かべた。自分から仕掛けた言葉のくせに「はいはい」といなすせっちゃんはずるい。そして今日の鮭のムニエルはなかなかだね、だなんて話題をどんどんずらしていくのだ。この幼馴染にあたしの乙女心の機微なんて瑣末事なのだ。ま、それが楽なんだけども。あたしは頭の中で今日のインタビューのために必要な点をかき集め、この前丸井が連れて行ってくれた回転寿司は良かったという食いっけを隠そうともしないコメントを残すせっちゃんに口の端を緩めずにはいられなかった。
井上さんと芝さんの方へ弦一郎と蓮二が向かっていくのが部室から見えた。今回は高校生に上がったばかりの三強の特集を組んでくれるとのこと。何かと以前から注目されてるし、あたし達の代はそれだけ強いってことかな。帽子を被らなくなった弦一郎の横顔がやけに大人びて見えて、ここのところいつも以上にドギマギしてしまう。あたしの身長は全国平均より少し下回る程度でこれ以上伸びる希望も薄く、あとに残されたのはカップ数がひとつあがり邪魔に膨らんだ胸くらいだ。重いし肩は凝るし、制服着てると着ぶくれして嫌になっちゃう。全然弦一郎やみんなの成長に追いついていけない。弦一郎なんて今日が16歳のお誕生日なんだよ?その上色んな面でみんなの伸び具合に置いてけぼりをくらっている。
そんなことはさておき。さっきちゃんと井上さんと芝さんには挨拶したことだし、どうしても彼氏へ意識がいってしまうのを悟られない為にせっちゃんの真後ろに隠れてインタビューを見届けることにした。だってどんどん男の子から男の人になっていく自分の彼氏にときめきを隠せない。お二方に出すお茶のペットボトルを抱えたまま最後に部室を出ていったせっちゃんの背を追いかけ、その背にピタリと貼っ付くとあたしの目論見を看過するまでもなく、背後でコソコソしてるあたしをそのまま放っておいた。蓮二はさり気なくあたしに視線を落とした後、知らんぷりをしたまま芝さんと井上さんの対応をあたしの代わりにしてくれていた。至近距離にいるはずの弦一郎と井上さん達はあたしに気がついてないみたい。ふん、所詮立海の集団の中にいればあたしはチビよ、だなんて男女の体格差のやるせなさにケチをつけながらも耳を澄ます。
「お久しぶりです、井上さん、芝さん」
「やあやあ、幸村くん。相変わらずのようだね」
「三強再び君臨ってところね!」
「当然の結果です」
「流石だね。全国区の立海大附属高校で再びレギュラーを入学早々勝ちとるとは!世界大会にまで行って一回り大きくなった気もするな」
「そういえば幸村くん、私達真田くんの彼女について聞きたくって!」
「コラ、芝!」
「えーいいじゃないですか、先輩!他校でも噂になってるし。先輩だって興味あるんじゃないですかぁ?」
「そりゃ、まあ……、興味ないことはないが……」
「しかしそれはテニスに関係ないことではありませんか」
「ねえ幸村くん。真田くんこんな調子で答えてくれないのよ~」
芝さんは興味津々に、けれど相変わらずの弦一郎の石頭具合に困ったように笑った。蓮二は特に動ずることもなくせっちゃんに目配せをする。するとせっちゃんはクスリと不敵な笑みを浮かべて、弦一郎を横目で見た。
「いいじゃないか、真田。減るもんじゃあるまいし」
「しかし幸村……」
「少しくらい答えてあげなよ。お前の話だって部活に打ち込みつつ恋する学生達の参考にもなることだろうし」
「そっ!参考、参考!王者立海大の真田くんが言うなら説得力が増すでしょ?!お願い、真田くん。少しでいいから!」
「……分かりました」
弦一郎は額を抑えながら渋々了承すると、せっちゃんは満足そうに頷きどんな答えが出るのか興味津々といった風に目を瞬かせた。すると芝さんは目をキラキラ輝かせて井上さんの方に振り向く。こういう話、芝さん大好きそうだもんね……。あたしは胸を高鳴らせ、息を殺し気配を完全に消しつつペットボトルの陰から弦一郎を覗いていた。照れているのか、腕を組みながらほんのり染まった頬を指で掻いている。
「やった~!先輩!!これはスクープですよ、スクープ!」
「あ、ああ、芝……。とりあえず、昨年の夏の全国大会後からお付き合いしているとは前々から聞いていたんだよ」
「誰がそのようなことを……?」
「あら、跡部くんからこの前聞いたわよ」
「U-17合宿で千石が騒いだ後から界隈では周知の事実になったのだぞ、弦一郎」
「む、そんなこともあったか……。しかし奴に人の恋路に口を挟まれる筋合いなどないわ」
「まあまあ、真田くん」
「そうだ、質問よ質問。彼女はどんな子?可愛い子?」
「芝、それじゃあ真田くんが答えにくいだろう」
「正直言うと井上さんも芝さんも知ってる子ですよ」
「幸村!」
あたしは弦一郎と同じくらい大きく声を上げたかった。せっちゃん、何言ってくれんのよ、も~!!!!
「いいじゃないか別に、隠してるわけじゃないんだし。公明正大で清らかなお付き合い、だろう?」
「それで、一体誰なの?」
「それは最後のお楽しみに取っておきましょうか」
「もーう幸村くんったら焦らすのが好きね!」
「ハハハ。では質問を続けて下さい」
せっちゃん、絶対楽しんでやってるでしょ。時折、余所見してると見せかけて首を傾げて背後にいるあたしの様子も確認している。ペットボトルとペットボトルの隙間から頬を膨らまして文句言いたげに見える顔をどうせ楽しんでるんだ。きっとそうだ。
「えーっとじゃあ真田くんが答えにくいならお二人に聞くけど、どんな子なのかしら?」
「そうですね……、真っ直ぐで思いやりのある優しい変わり者とでも言えばいいですかね」
「独自の世界観があるといえばいいのではないか、精市」
「まあ、言い方を変えればそうなるのかな」
「あら、幸村くん。少し手厳しいのね……」
「健気な様が愛らしいとは思いますが」
「そう!」
芝さんが嬉しそうに声を上げた瞬間、他の人に分からない程度に蓮二はあたしに一瞥をくれ微かに唇で弧を描いた。……どうせ彼なりのフォローという名のお世辞なんだろうけど。
「可愛いというよりも美人の類なんではないでしょうか。ね、真田?」
「む……そ、そうだな」
「なんだか幸村くん、いつもに比べて積極的に答えてくれるのね。では、真田くんにとってその子は一体どんな存在?」
「ほら、真田」
「……俺達を支えてくれた、俺のかけがえのない理解者です。いつでも笑顔で励ましてくれました。とても大事に思っています」
「……」
井上さんと芝さんは弦一郎が真摯に言葉を紡ぐのを唖然として聞いていたようで口をあんぐりと開けていた。と同時にあたしは右手に持っていたペットボトルを落としてしまい、せっちゃんが驚くほどの反射神経を発揮し利き手とは反対の手ですかさずキャッチした。
「?!」
「あ、ええっと、あたしはお茶を……あの……」
何てことを聞いてしまったの、あたし。せっちゃんはペットボトルを井上さんに手渡しながら、血が昇って首から額にかけて真っ赤になってるであろうあたしに全てお見通し、といった風に微笑んだ。あたしはしどろもどろになりながら滑り落ちそうになるペットボトルを芝さんに渡すと、芝さんはあたしの手を掴んで力強く握りしめた。
「やっぱり、ちゃんなのね!真田くんの彼女!」
「え、あ、は、ハイ……」
「そうだと思ったのよ!特徴にも当てはまるし、真田くんと仲良い女の子ってちゃんしか思い当たらなくって」
「なんだ、目星はついてたのか」
「あ、あの……恐縮です」
「照れちゃって~、それにしてもスッゴイこと聞いちゃった!ちゃんは真田くんにとって本当に大切な人なのね」
大人のお姉さんから向けられる温かい眼差し。ひえ~、なにこの言いようもない込み上げてくる恥ずかしさ。顔から火が出て死んでいまいそう。当然、弦一郎の顔を見ることなんて出来ない。両手で顔を覆いたい衝動を芝さんは許してくれなかった。
「幸村くんの幼馴染で真田くんの彼女のマネージャーなんてすごいわね!」
「お、恐れ入ります……」
「ちゃん、緊張しないでいつも通りでいいのよ?何だか自分のことのように嬉しくなっちゃったわ~」
そう、あたしだって嬉しい。嬉しすぎて涙が出ちゃいそう。というか目の表面積が涙でコーティングされるくらいには出かかっている。勇気を振り絞って、弦一郎の方を見ると弦一郎も面食らったように瞳を大きく開いてあたし以上に茹でダコになっていた。もう、耳たぶまでまっかっか。
「やればできるじゃないか、真田。特集にのことも書いてもらったらどうだい?」
「馬鹿を言え、を見せ物にする気など毛頭ないわ!」
「いやいや、あの……」
あたしを置いてかないでと思いつつも、弦一郎が言う言葉ひとつひとつが全てあたしの心にクリーンヒット。乙女の心はときめきどどころか爆発寸前。手で口を抑えてニヤける顔を隠すしかない。弦一郎のそういうところが好きなんだけど、どうしてこうやってたまーにとんでもないどストライクな言葉を恥ずかしげもなく言えちゃうの?!目頭を抑えたり、両手で息が荒くなる鼻と口を覆うのでもうあたしは大忙しになるじゃない!!
「ちゃんが彼女さんなら真田くんも安心してテニスに集中できるわね」
「え、えへ……?」
「もー、照れちゃってかわいい!で、ちゃんもっとお話がーー」
「すみませんが芝さん、と話があるので席を外させてもらえますか」
「あっ、ええ、いいわよ。じゃあちゃんまた後でお話を」
「はい、それでは失礼いたします」
「じゃあ後で、真田くん」
「失礼します」
あたしはスタスタと部室へと歩いていく弦一郎にとぼとぼと着いていく。ぬ、盗み聞きしてたこと怒ってないかな。いやきっと怒ってはないとは思うんだけどえらいことを聞いてしまった。部員は全員コートに出ており誰もいない部室に入り、弦一郎は慎重に扉を閉めた。無言で弦一郎が見下ろしてくるので余計に頬の火照りが収まることを知らない。
「」
「は、はいっ」
「先程の言葉の通りだ」
「え、あ、うん。あ、あの……すごく嬉しいよ……!……えっと、あ!」
弦一郎がそれ以上何を言いたかったのかあたしは分からなかったけど、ちょうど使われてない部室のロッカーに隠して置いておいた紙袋の存在を思い出したのだった。最近は帰宅時間もマネージャーと部員では揃うことも多くなく、なかなか二人きりで帰ることが難しかったのだ。この隙だ!あたしがロッカーを勢いよく開けて紙袋を出すのを弦一郎は怪訝な顔で見ていた。
「朝も言ったけど、改めてお誕生日おめでとう」
「あ、ああ……そういえばそうだったか」
「え、プレゼントもらえないと思ってたの?」
「……先程のやり取りで頭から抜け落ちたのだ」
あたしは素直な弦一郎におかしくなってしまい、クスクス笑い声をあげ弦一郎はあたしから紙袋を受け取った。「今開けていいのか?」という言葉に快く頷き、きっとあたしは満面の笑みを広げていたと思う。
「これは……上等な筆だ。それにハンカチとカードも……ありがとう。大事に使わせてもらう」
「ううん、あたしの方こそ嬉しかった。そんなに……大事に思ってくれてたなんて……。なんか、あたしの方がプレゼントもらっちゃった気分」
「俺は……お前からはもらってばかりだ。今も昔も……これからも、お前を大切にしたい」
「うん……」
弦一郎の声がわずかに掠れる。普段に比べて静かにそれでいてしっかりと意志を伝える彼の言葉は、ちゃんとあたしの耳元に届いた。あたしは弦一郎の大きい手を取り、愛おしく手の甲を擦った。でも、あたし弦一郎にそんなに物あげてたっけ?弦一郎の真心がこもった言葉を他所にあたしはそんなことを考えつつ、思いっきりハグして浮かされる熱に浸りきりたいと想いつつもインタビューを抜け出してしまったことはしっかりと忘れきれずにいた。こういう時、自分の現実主義的な思考が恨めしく思えてくる。でもインタビューを抜け出してそろそろ5分は超えちゃうし、もう戻らなくっちゃ!
「そろそろ戻ろ?」
「ああ」
弦一郎は喜びを頬に浮かべていたのをあたしが手を離すと名残惜しそうにその手を見つめていた。あたしだって少し寂しいんだからねと思いゆったりと笑うと、ジャージの襟を正し表情を引き締めようとしている弦一郎を振り返りながらもドアノブに手をかけた。「今日は一緒に帰ろうね」と声をかけると、弦一郎は甘く目を細めた。
最近一番貰って嬉しかった贈り物は?という問いにあたしからの誕プレと弦一郎が馬鹿正直に答えた記事を見るのは、その紙面をスクラップしようとしたもっと後のこと。
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