Can't Reach You, Yet


、おるかの」
「は、はい!今呼んできます」


いかん、いかん。これは困ったことになった。俺は頭を抱えながらのクラスへ訪れた。そしてそこらへんにいたのクラスメイトに彼女を呼ぶように頼んだ。気怠げに戸口にもたれかかっている暇もなく、はすぐに俺の下へ駆けつけた。


「仁王、どしたの?」
「おお、。おまんに聞いてもらいたいことがあっての」
「なになに、仁王からそんなこと言い出すなんて珍しいこともあるのね。で、なになに?」
「それがの、困ったことになってのう……」
「うんうん、お姉さんに全部話してみ?」


は頼られると途端に偉ぶった姉貴ヅラをし耳を傾けた。ま、そこがいいところなんじゃがの。大袈裟に頷きながら仁王立ちで張り切った様子で聞くに、俺は今の状況を分かりやすく説明した。話を進めるうちにの顔はどんどん険しくなり、彼女の考え込む時の癖で頬を左手に当て首を傾げた。


「緒環さんが……?」
「ああ」
「仁王の……こと好き、と?」
「ダニ」
「あ、それであんたに見学申込書渡してきたとか?!ありえなくはないけど……。仁王は見た目よりずっと喋りやすいって気づいちゃったんだろね……モテる男は罪だねぇ」
「……嬉しいとは思っとらん」
「じゃあ、それは……やっぱり困ったね……」


こうも言葉を濁す彼女もあまり見られないことだった。健気に心配そうな目つきでは俺を見上げる。同情されたいわけではないので、手を払ってその表情を疎ましく思うことをアピールした。


「でもまだ何も起きてないんでしょ?」
「それがの……。なんかストーカーされとる気分なんじゃ」
「ストーカー?!」
「いや、おまんが想像するほど陰湿なもんでもなか。ただちぃとな、自分にひっつきすぎなんじゃなかろうて」
「えっ、そんな物理的に?!そんな姿コートでも見たことないけど」
「例えば……移動教室の際好きな席に座ろうとするじゃろ、そん時に緒環が必ず前か後ろにおるんじゃ」
「えっ……」
「休み時間にも何度も見かけたりしての……。偶然かもしれんが」
「えっ、それはむしろすごいね?!」


神出鬼没の仁王の後を追いかけるなんてすごい、と呟き感心した顔では目を見開いた。こいつの感情豊かさは見ていて飽きんが、今は感心するとこではない。


「加えてだが」
「うん」
「ほんまに気のせいかもしれんが、最近女子が俺に寄りつかん」
「……ん?」
「あいつがおるとこで俺の傍に女子がいた試しがないぜよ」
「え、どういうこと?}」
「まあ、ここ3週間程度のことじゃき、ほんまに気のせいかもしれんがの。何かおまんが知っとることあったら教えてくれ」
「うーん、あんたにはどうやら近づきづらい雰囲気あるって聞くけど……。それでも女子が全然いないって、本当にゼロってこと?」
「ゼロじゃ。流石にそれは一度もなか。少し気味が悪いナリ」
「……」


深刻な顔では腕を組んだ。どうやら何か思い当たる節があるらしい。最近部活熱心さに拍車がかかっているとは思ったが、何かの悩みのタネに繋がっていたらしい。同時に気を抜いた時にウトウトしていることが多い彼女の心労に負担をかけてしまった己の行動にいささか悔いていた。


「今のところそこまで困っとらん。ただただ不気味なだけじゃ」
「でもなんかひっかかるね。仁王のクラスの子に様子を聞いてみるわ」
「プリッ、助かるぜよ」
「いえいえ。これもまたマネージャーの務めよ。あんた達は安心してテニスなさい」
「ほう、ウチのマネージャーは心強いのう」


一人で何もかも背負う癖のあるに話すのは人選を誤ったか。しかし、気兼ねなくこの件について話しが出来るのも部では彼女しかいないというのも事実だった。緒環の監督についてはの担当でもあるしな。俺も変な女一人に翻弄されてないでに頼りすぎないようにせんと、な。


「仁王もここにいたのか」
「おお、真田。なんじゃ、に用かの」
「あ、弦一郎」
「なんだ、お前もに用事か?」
「もう俺のは終ったき、お熱い二人でゆっくり話すとええ」
「なっ、仁王っっ!!」
「何を言う!?」
「いつもご苦労さんなこって、ピヨッ」


皇帝とは揃って顔を真っ赤にし大声で照れしくさって。あーこいつらをからかうのはやっぱりやめられん。似たものカップルとでも言えばいいのか、本当にこの二人は単純じゃのう。部員がこいつらをイジる対象にするのもおかしくない。俺はひとつに束ねた髪を翻してさっさとその場から退散した。こいつら二人をからかうのはいいが、ちと場がうるさくなるのが面倒だ。


急に窓を叩きつける雨を見つめる。春の天気は変わりやすい。殊更、今年は不安定だと感じるのは部での不穏な出来事のせいだろうか。グラウンドの土は水溜りが広がりいつもより濃く、曇天がすっぽりと太陽に覆いかぶさっていた。じゃぶ、と運動靴が水たまりに沈むのを俺は思い浮かべる。泥水は、じわじわと靴を侵食していくだろう。


俺の勘が当たらんとええが。緒環は特筆することもない、普通のヤツにも見えるんじゃがのう。俺はふう、とため息をつき後ろを振り返る。仕事モード全開なのか、と真田は部について話している様子で甘い雰囲気の欠片もなくいつになく真剣に話し込んでいる。こんなに鬱々とした日なのに、あいつらはひどく健全だ。いや、むしろ不健全なんじゃないのか?どちらにせよ、俺には預かり知れぬことだ。

今日の部活は室内練習場で行われるか。俺は酷く荒れたざわめく葉を見届けながら教室に戻るために踵を返す。この様子だと今年の夏は、多く台風が来そうだ。








* * *









部活にて顔を合わせ開口一番に「今日のことは気にしてないし……続きは今度ね」と件について同日、目を逸らしながら耳と頬をほんのり赤く染めた彼女が言ってくれたのがせめてもの救いだった。そしてすぐに話題を逸らし、レギュラーメンバー以外の練習メニューについて真面目に話し込んでいた。

よしんばが気にしていないとて……たるんでいるにも程がある!!ましてや廊下などで……。誰も通らなかったからまだいいものの、あんなことは……。あんなことはまだ許されんぞ。

本能が抑え込めんとは、鍛錬を積んでいる身からすればほとほと呆れる。いくらスキンシップがコミュニケーションを育むとはいえ……。まだまだ俺は精進が足りんようだ。そう痛感すると同時に、を目にすると最近はあらぬことを考えてしまう自分を否定することは出来なかった。テニス、居合道、剣道や勉学に勤しんでいない空白の時間、彼女のことで頭がいっぱいだった。俺を誘う香りに濡れた瞳、艶めかしい顔に柔らかい唇、滑らかな肌に丸みを帯びた腰つき……、それらに酔いしれまたもや邪念に支配されてしまう。嵐のように彼女を欲する気持ちが押し寄せてくる。心だけでは飽き足らず、体までも己の物に出来ないかなど不埒で破廉恥の思いが顔を覗かせる。
そんな情けない己に憤慨し心を無にするため、風呂に浸かりながらも瞑想する。普段ならば深呼吸をし体の芯に集中すれば心を無に帰すことなど容易いのだが、ここ最近一向に調子が悪い。あの日頬を擦り寄せた彼女の豊かな髪の心地よさがありありと蘇る。甘美で俺を惑わせる、の匂い。もう忘れることは出来ない。いいや……忘れたくはないのだ。

かといって己を制すことが出来んとはまた話が違ってきてしまう。喝を入れようと早朝稽古に素振りの量を増やしたのだが、集中力が切れた瞬間や通学の際にふと思い出してしまう。どうにもできない、抗えない強い欲求が己を引きずり込んでいく。

はあの日から仕事に余計専念しているように見え、我々は一緒に帰宅する際手を繋ぐ気配さえない。確かに今は新しいマネージャーが入り、その教育に集中しなければいけない期間だ。仕事熱心な彼女の話をこちらも懸命に聞き、いつも以上に部に関連することについて話すことが多くなり他愛のないお喋りは減った。それが故か、交際をする前の状態に戻ったような雰囲気さえもある。しかしの気持ちが立ち消えるなどとは露にも思ったことはない。相変わらず、俺にたくさんの微笑みをくれる。しかし俺だけの笑みではない。花のように綻ぶ彼女の笑顔は俺だけの物ではない。それは幸村にも、部員にも、そして蓮二にも……押しなべて皆に向けられたものなのだ。今や、俺にとってその微笑みは身体の至るところを麻痺させる毒でもあるというのに。息苦しくて理性が、理性が働かなくなるのだ。
そうだ、あの時、あのままがあの時声を上げなければ……一体どうなっていたのであろうかーー。

なんたる失態だ!真田弦一郎、恋に身をやつすなど不届き千万だぞ!!我々には時期尚早だ!


俺は風呂から上がり蛇口をひねって桶に冷水をため、勢い良く尭水をする。一気に凍るような冷たさが全身に駆け巡る。辺りが白くなり、心はほんの一時無に帰る。深呼吸をし、気持ちを落ち着けたが全身を駆け巡る血が騒いでいる。水にまみれているのに、情欲は渇いたまま。胸元に激しく突き上げるへの恋しさ。一体全体どうしたんだ、俺は。あの先の俺は一体何をしでかそうとしていたというのだ!俺は檜の椅子に座り込みうな垂れる。に比べ無骨で堅い己の手のひらを見つめ、そして再び甘やかな思いに耽る。


が俺の家へ来訪した日に耳に纏わりつくように残った口付けの間に漏れる声、そしてその先へ進もうとする生々しい想像が頭からついて離れない。の裸体が、目の前に浮かぶように……。いかん、これ以上は駄目だ!と己に言い聞かせようが、その幻影は思考に張り付き振り払えぬ。そしてそれが脳裏によぎるたびに自分の体も否が応でも反応してしまう。「今度ね」という彼女の言葉から、その先も……は拒むつもりはない、ということか?時折感じることがある。……はいつも俺を柔らかく包み込んでくれる、と。お転婆娘の中に月明かりのように温かく、海のように底知れぬ懐の深さが天鵞絨に包まれたように覆い隠されている。だから俺がいかなる道へ進もうともは……。

しかし今そんなことを考えてどうする。真摯にの部活動に取り組む姿を見習い地区大会に専念すべきだ。それに、俺は……を大事にしたい。そして未来永劫変わることのない自身の強い想いがにある。たくさんの幸福を彼女から感じている。俺の人生にかけがえのない、たった一人の女子なのだ。そうだ、俺の先走る思いに今のを付き合わせるなど言語道断。今はそんなくだらん思いなど、あってはならぬ。


……をこの手で幸せにしてやりたい。開いていた拳を固く握りしめた。そうだ、それが答えだ。煩悶することなど何もない。単純明快で、確たる意志だ。飢えた獣のように肩で息をする鏡に映った己に、そう言い聞かせた。


(210515修正済み)
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