顔晴ると君が云うから
今年の年間雨量は既に平均を超えているらしい。そりゃそうだ、弦一郎の誕生日に稀の快晴を見せるもこうもまた雨続き。湿気がすごくってやんなっちゃう。雨は嫌いじゃない。大雨の後に雲間から光が差した時の水溜りに空が映るのが好きだ。でもこの時期の雨の何が嫌かって夏場の気温との相乗効果でムシムシと湿った空気で洗濯物がろくに乾きやしないことと、部活だと室内練習場の取り合いになること!そしてその交渉はマネがするのが多いってことだ。そりゃ学校の中でも一番といってもいい成績を残してる我が部とはいえ、こうも他の部とスケジュール管理の話し合いになるとはね……。あたしの話し方のキツさなんかもあるんだろうけど、他部のマネにはあたし優位に話がどんどん進められていくことに少しビクついている気配さえある。でも仕事だもん、交渉相手に舐められちゃいかんでしょう。
まだまだ新人の教育も時間のかかることだし、あたしと連携を取りつつうまく相手をやり込めてくれる蓮二や一応なんとかしてくれる先輩を送り出すことも最近は多いけど……。当の手のかかる新人・緒環さんの仁王追っかけ度が日に日に増しているような気がしないでもない。表立って騒いで追っかけるのなら弦一郎だって気づくものだろうに、忍者のように忍び寄る彼女のアピールは弦一郎では分からない程度なのだ。なんだか……仁王の言う通り、つけ回してるって感じ。仁王と出くわす時に緒環さんの姿を見ないことの方が少ないし、あたしがいれば仁王は緒環さんをあたしに任せてしっぽを巻いて逃げるかあたしに用事があるだとかそんな風な曖昧な態度で回避し、緒環さんがそれに舌打ちをするのが決まりとなってきていた。
……正直、舌打ちは本当に苦手だから辞めてほしいんだけどな。
それに業を煮やしたあたしがいい加減ハッキリしろ、と仁王に文句を言ったところ「俺がつんけんした態度取っとると、構ってもらってると勘違いする質」と、これはもうにっちもさっちもいかず有り難くもない新情報まで出てきてしまった。痴情のもつれ……とかの段階では全然ないけど、これはもう早めに芽を摘むべきなのでは?!とあたしも散々頭を悩ませている。挙句の果てには弦一郎の前でさえ「うーん」と声を出して唸ってしまう事態。そして「どうした?」と尋ねるワケも知らぬ、我が彼氏。ううん、いいの。弦一郎は知らなくてもいいの。なぜなら知られると面倒だから。あたしは十分に緒環さんが仁王の周辺をうろちょろしていることや、度々遅刻してくる朝練にて開き直りの態度や諸々を蓮二と話し合う。部室を閉め切って緊急ミーティング、もう今月でこの件については二度目。もううんざりだ。
「先輩も緒環さんの指導はあたしに放り投げてる感じがしまーす」
「そうだな……。お前が三年間一緒にいるからと思われてはいるのだろうが……惰性だな」
「やっぱりそう思う?もうなんか、面倒くさいからお前がやれって感じがすごいんだよね~……」
「、ちょっと」
蓮二が手招きをするので椅子から立ち上がる。立ちくらみなのか、体が浮いたような感覚にもつれた足を支えるよう机に手をかけた。すると蓮二のひんやりとした甲の薄い掌が額に当てられていた。いきなりのことで驚いたけれど、「平熱か」との言葉で熱を測られていたと分かった。
「ここのところ顔色が良くない日があるな。しかし、それでも大丈夫だとお前は言う」
「だってほんとに大丈夫なんだって。今は生理前だしいつものことなんだから」
「そうか……」
ありゃ、蓮二も突っ込みづらいこと言ってしまったかな?いやそんなことはないか。蓮二は中学の頃からあたしの生理が重い時のピンチヒッターもしてくれてたし。眉を下げ心配の色が拭えない蓮二の顔に、「そんなに心配しなくても平気だって」と明るくかわした。しかし、自分の体調が下り坂気味なのは否めなかった。空気中の水分量が多すぎるからなの?いやそれはないんだろうけど、最近やたらと立ちくらみや浮腫がひどい。生理前だから仕方ないと思いつつ靴下やジャージのゴムの跡が思いっきりついてるふくらはぎとお腹を見ると少し引く。太ったからかな!?と思えど体重は減少傾向。せめてものあがきでふくらはぎのストレッチをお風呂上がってからしたいのに帰宅は21時。お風呂では一日の反省会を行うことだし、やっぱり夜には絶対入りたいってことでパパが帰る後の時間を確保すれば23時過ぎ。寝るのは1時。起きるのはこれでもかとギリギリ伸ばして6時過ぎ。心なしか肋骨のあたりもキリキリ痛むし、耳鳴りも増えた気がする。気の所為なんだろうけどね。それはさておいても、ママのパパに対する不満が加速して、忙しない朝支度の玄関前までその声があたしを追い立て心も体も休まらない。
ぼんやりまだらに白む雲達のせいかな、だるい感覚は取れないし部活以外でのことでまるっきしやる気どころか胸の中で何かを急く焦りが止まらない。授業中はノートを取るので精一杯。自慢じゃないけど、いつもなら授業をしっかり受けてテスト前に一夜漬けで勉強すれば平均点は保たれていたのに、今や授業をしっかり聞くどころか先生の言葉が左耳から右耳へ通り過ぎていく。英語の単元が増えたこともあり、文系の成績は大助かりで合計点はなんとかなったけど中間考査の理数系科目は赤点スレスレだった。
「緒環の件だが、マネージャー募集を新たにかけるのが……抜本的な解決策ではあるが」
「一、二週間トライアルで数人コートに立ち入らせるのがどれだけリスキーなのかは蓮二も分かってるでしょ」
次は県大会だから、そんなことしてる余裕はないってわけ。緒環さんを解雇するかしないかはあたしと蓮二で散々交わされてきた議論だった。あたしの中では雑用のその更に下請けレベルでちょこまか働かせることを想定していたので、今その状況は十分にクリアしている。しかし蓮二は不穏因子を取除くために辞めさせたいという意志は曲げなかった。しかし、実際には緒環さんをそう簡単に退部させるわけにもいかなかった。何故ならば緒環さんが蓮二のレポートに書いてあったような決定的なトラブルを起こしたわけでもないから。辞めさせるならそれ相応の理由がいる。普段からあたしも「部活中は仕事に専念してくれると助かるな」とやんわりと注意しているのだけど、今度は厳重注意をするかしないか、その話を今日あたし達はしているのである。
「先輩だってあたしを目の上のたんこぶに思ってるって感じがぷんぷんするもん。息苦しくてやんなっちゃう」
「緒環のことで手を組めるといいのだが」
「この前『先輩とあたし二人で飴と鞭の役割を使い分けて指導するのはどうですか?』って尋ねたら『さんの方がマネ業の先輩だから私から学ぶよりいいんじゃない』ってお断りされました」
「先輩もにライバル心を燃やしていないでチームとして動いてもらうことに専念してくれるといいんだが……協調性がないのがウチのマネージャー達の困ったところだな」
その言葉そっくりそのまま返してやろうか~???とあたしはピリピリしているので、蓮二の言葉に触発されてしまう。そりゃあたしだって多分先輩の鼻につく行動をしているんでしょうよ。でも普通にしてるだけなのに、好かれていない寂しさに加え先輩の大人気のなさへの苛立ちったらありゃしない。……なんだかあたしも最近はイライラしちゃってやな感じ。幸い今まで女子の友達にも指摘されたことないから、そこまであからさまにイライラしてるってことは伝わってないのかもしれないけど蓮二にはイライラしてることバレちゃってるかもしれないなぁ……。一番嫌なのは自分の虫の居所悪さで、他の人の気分をも害しちゃうことだもん。はぁ~、もっと気をつけなきゃ。蓮二が用意した緒環さんの資料を指と目で追いかけながら、何も頭に入ってきてませんというのがバレたのか蓮二は労るように口の端を上げた。
「しばらくは自分のことに集中しろ、数Aのレポートも残っているんだろう」
「ああ……うん。弦一郎にはあまり言わないでよね」
「今年ばかりはクラスが離れていて幸運だったな」
皮肉めいたフォローの言葉を優しげに言う蓮二に、あたしは素直に感謝した。そう、こんな姿は弦一郎には見せられない。弦一郎は器用じゃないから、この問題には関わらせない方がいいというあたしの判断だ。じゃあ蓮二には相談しても構わないって?それは仕方のないことだった。あたしと蓮二は中一からマネージャー業でのパートナーのようなところがあった。だからあたしもこうやってなんだかんだ蓮二を頼ってしまう。
しかし今みたいに蓮二によりかかる形になりすぎてはいけない。だから蓮二にはこれ以上迷惑をかけないようにしないと。それにせっちゃんだっている。せっちゃんにはいつも通り愚痴を聞いてもらっており、せっちゃんはあたしの話を聞くのが仕事です、みたいな顔してる時がある。きっと困った妹が増えたなだとかそんな風に昔から思われてるのだろう。
でもああだこうだ口で文句言ってても情けない姿をみんなには見せてらんないよ!っと毎朝バシャバシャと顔を洗いながら気合い入れ直すのが最近の日課。そう、あたしが笑顔で仕事に励んでることがみんなを支える鉄則でもあると信じているからだった。
最近が笑うことが少なくなった。厳密にいえば、
青ざめた顔を見る回数も少なくなく、流石にその時は真田も気にしてはいるようだが……。「生理は大変なんだよ~」と恥じらいもなく、俺に告げてくるので実際に体調もあまり良くないのだろう。実際に彼女がトイレに駆け込んでいる姿が幾度も見受けられたから。俺の妹然り、女性は俺にとって想像もつかない大変さを抱えているのだと、保健体育で得た知識以上のことを知り得ないので慮ることしか出来ない。俺は幼馴染の体調不良を他人事とは思えず、気づけば図書館にある医学の分類の書棚にいた。あって困らないであろう知識だ、苦しんでいる女性の体の仕組みに目を向けてみようと足を運んだ矢先またしても同じ考えの者が俺よりも先に目当ての本を開いて流し読みをしている姿が目に入る。
「来たか」
「来ると思ったのかい?」
「戯れはよせ」
「フフ、いつになく深刻だね」
声を落としつつ、微笑むと柳はそのまま俺に本を渡してきた。生殖活動から月経について事細かく書いてある。柳らしく、いくつか並べてある生殖活動や人間の性についての入門書や漫画の中から医学的に突き詰めたものを選んだようだ。
「非常にデリケートな問題だ」
「は気にしないと思うけどね」
「……精市が入院した頃に同じような症状が何度もあったんだ」
「俺が入院してから……か」
ということは、だ。俺はあまりその頃のの学校生活を知らない。中二の冬から中三の夏にかけて会うのはいつも夕方の病室だったし、彼女が部活を休むことはとても稀であった。そんな様子は俺にほとんど見せなかったのだ。
「デリケートなのは、の月経の症状というよりは……彼女自身にかかっている負担の方か」
静かに頷く柳の目はうっすら開かれ、鋭い光を放っていた。煌々と辺り一面を照らす蛍光灯さえも遮る高い書棚の影の中で立っていようとも分かる。が安閑とした口調で大丈夫、という言葉を唱えることなんてこれまでいくらでもあった。
「次の周期までには時間がある、対策を講じてみよう」
「……周期まで把握していたのかい」
「自身が毎回告げてくれるのでな、苦労はしなかったぞ」
幼馴染の恥じらいのない毅然とした態度に何の疑問も覚えず答える柳の実直さに思わず笑いが込み上げてきてしまう。本当に面白いほどには部の人間という区分の者々に平たく接する。その中でも"幼馴染"、"親しい友人"、"部の人間"と三つも役どころを貰えたのは光栄なことといえば柳への皮肉となるのだろう。そのどこでもない場所に位置する人間が彼女の『特別』だった。……そして真田だけが、そこに当てはまる。しかしその『特別』な人間だけがこの会話を聞こうともその意図を理解することも叶わないのだ。
「俺はもう読んだ。基礎的なことしか書いていない。個人差もあるだろうし、こればかりは医者にかからないと分からない」
「気づいているのは俺とお前と……」
「弦一郎とジャッカル以外、だな」
そうか、と呟く。にかかる負担をまるきり知らないわけではない。きっと、自身に無理がたたっている事実を真田に知られるのを既の所まで逃れようとしているのだ。我が幼馴染ながら臆病で不器用だと思わざるをえない。
雨垂れの硝子越し、凪いだ風の中でしとしとと降り続ける雨音。暗く大きな雲が空全体に伸し掛かり、陰鬱な湿気のせいか古びた本の埃っぽさが強まっていた。この本にきっと答えはないのだろう。しかし知識を得るのが無駄足というわけではない。
忙殺されていると時たま電話等で話し、その会話の中でよく聞く言葉はというと、弦一郎、パパ、ママ……そして緒環の名だ。……新しいマネージャーは、あからさまに俺を恐れているのがよく分かる。挨拶をすれば蚊の鳴くような声で返事が来るだけだ。部活中も出来る限り俺には関わろうとしてこない。が満面の笑みで俺に近づいてくるものだから、その必要もないことを分かっているのだろう。そもそも俺も彼女自身に興味はなかった。のように、同じ戦う同志なのだとも思えずにいた。何故なら彼女にその気が毛頭ないからでもある。しかし、そんな無味乾燥な者がの脅威となってしまうのであれば……。
俺に出来ることは、の業務に支障をきたさないよう、緒環の動向を見ているしかあるまい。柳の個人的な緒環への嫌悪感に加担する気もさらさらない。チェスの盤を動かすのは俺ではなく、柳だから。しかしこんな時に汗水流しテニスまっしぐらなもう一方の幼馴染を羨ましくも恨めしくも思う。それはが望んだ形ではある。だが、俺がをお前に託した意味などきっと伝わりもしていないのだろう。それがあいつの長所であり、最大の欠点でもあるのだから。
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