それでいて、乙女は笑む・前編
U-17本戦が始まる前、日本応援チームは無事豪華客船にて到着したようでからは報告のメッセージが早速来ていた。その時の俺は安易に気心の知れた、そして健気に俺たちを待っていてくれた幼馴染兼マネージャーと会えることを素直に喜んでいたのだ。
しかしこの状況は一体どうしたことだろう。事の発端は、勝負事で俺と真田に勝ったことに嬉々として赤也がに三船監督がビーチにて提案した対決の成り行きを何も考えずに伝えてしまったからだった。俺達が滞在するホテルにて、たった今目の前で繰り広げられている無様な彼の姿。見事なフォームとでもいえばいいのだろうか。肘は鋭角を描き、節くれ立った無骨な手指によって作られた綺麗な三角形。言い換えてしまえば、それはとてつもなく滑稽な姿でもあった。とどのつまり、真田はを前にして土下座をしていた。この様子の彼だとその勢いのまま腹でも切り出しかねない。切腹の介錯?世界大会がすぐ目前まで迫っているというのに、まっぴらごめんだ。
U-17合宿に行く前以来の久しぶりの再会だというのに、少し痩せたは計り知れない思いを隠した瞳で真田を見下ろしていた。想像していた喜ばしい感動的な再会の雰囲気は、ない。だというのに、は泣きも喚きもしない。突飛な行動を取った真田に対して普段のように慌てる素振りさえも見せないが、どちらかというと少し困惑しているようにさえも見えた。いつもなら朗らかに笑う彼女からは想像もできないほど、何の表情も読み取れやしない。イップスと呼ばれる現象を傍からみたような気持ちというにも似た途方のなさ。それも身近の、しかもテニスの試合とは関係ない身内の少女から感じることとなるとは誰が予測できたことだろうか。幸か不幸か、彼女の抱く感情の矛先が俺に向いているわけではないので、そう考えられるほどの猶予がまだ少し俺には取り残されていた。しかし、がその理不尽に対し傍観者のような頓着のなさの片鱗を俺にも向けているということもまた紛れのない事実であった。なぜなら「せっちゃんはその時何してたの?」と怒鳴るわけでもなく、薄ら笑いを浮かべながら静かに淡々と俺に状況を尋ねたから。その時の俺だってどうにもできなかったんだよ、あれはそういう趣旨の勝負だったんだ。伝えたい言葉が喉から出かけるもうまくいかず、言葉が喉でつかえ、くぐもった声と僅かな吐息だけ漏れ出た。普段のといえば感情豊かで、怒ることがあったとしても小さな癇癪玉を幾ばくか破裂させる程度だった。そして更に時間を置けば、ちゃんと感情を明確に言葉で表現しどうしてその怒りにまで至ったのかを論理立てて説明することが出来る。しかし、今のは怒っているのか悲しんでいるのかさえも読み取れない様で、ゆっくりとした瞬きでティーカップの中身を覗き込んでいた。
それに当時の状況を軽く説明したところで、「ふうん」と頷き気だるささえ感じる返事しかよこさないじゃないか。しかし、何故なのか皆の対応より真田の仰々しい謝罪へ注目していた。の様子が、変だってことに気づかないのか?もしかして、穏やかに彼女が話を聞いてるとでも思っているのか?一番長くと心を寄せ合った仲だからなのか、俺は初めて彼女の本心に触れることすら叶わないと感じるほど、ガラス玉みたいに生気が失われかけた瞳に映る暗い影に押し潰されそうで胸が苦しくなった。
ほんの少し床からを見遣る真田は神妙な目つきで「俺を殴ってくれ」と女子に求めるべきではないだろう許しの請い方にも彼女は目を逸らし「もういいから、顔を上げて」と落ち着いた声のトーンは崩すことなく、猫脚の小さな椅子に深く腰掛け脚を組み、ソーサーを左手に携えウェルカムドリンクのアールグレイティーを優雅に、取るに足らない些末な出来事とでもいうように不遜とも取れる態度で啜っていた。ホテルのラウンジという公共の場だというのに、これでもかと丸まった情けない真田の背はそれ以降微動だにせず。ちらほらといた日本人選手達もそれを目の当たりにしてどよめいている。この絵面はここのホテルを利用している土下座という日本文化を知らない外国人達の興味本位な視線を集めだしていた。真田の謝罪などなかったことのように堂々と紅茶を嗜んでいる少女のより顔ひとつ分以上背の高い大の大人のような真田が深く謝っている様は流石に異様だったのか、それとも女性がこんな風に男性相手に怒りを示すことがそこまで珍しくない光景なのか、まばらにいる聴衆達も男女の仲で厄介事が起きているのだと察知すると自然と遠ざかっていった。
「あたしのことはいいからさ」彼女は桜色に塗られた左手の爪を見つめながら、呟いた。彼女の性格からするに、久しぶりに会う彼氏のためにオシャレには余念を欠かさずにいたのであろう。そしてそれに気づきもしない、その彼氏。はそれを気づくことなど、期待はしていないのだろうけれど。……この場合、期待していないのが問題なのかもしれない。
同じ罪を俺と同程度共有してると言ってもいいであろう柳は普段どおり落ち着いた様でおり、ソファーひとつ分と華美な花が生けられた大きな花瓶で隔てられ離れたところでこの悲惨な絵面を観察している。彼だけがの憂いを帯びた睫毛の一本一本を逃さず観ているようだった。
だが真田が目に見えて萎縮しているところは、今後の立海のためにも、そして日本代表チームのためにもこれ以上その他大勢に晒すわけにはいかなかった。を宥めるための手段を取るため、俺は彼女に気づかれないよう浅く呼吸をした。それに俺さえもがこの事態に動揺していることをに悟られぬよう慎重に言葉を選び、今の彼女から感じられる微々たる波長を意識して発話した。
「真田、日本代表選手の俺たちがこれでは示しがつかなくなってしまう」
「そうそう、この話は今度にしよ?」
は、何よりも俺たちの邪魔になるようなことはしたくない。その点を明確に突けば、は気丈に振る舞い、或いは投げやりとも捉えられるように話題を切り替える俺に賛同してくれた。薄い唇はなだらかな弧を描き、温かくとも冷たくとも取れる眼差しではロビーをぐるりと見渡し、電子端末機器のディスプレイを確認しそれをポケットにしまうと何も言わずに立ち上がった。この広いホテルにはしゃぐ様子もない。しかし、よくよく考えれば幼い頃に海外へと渡り、旅行の先々で上等なホテルへ滞在し、クリスマスには毎年燦然と光り輝くツリーの前で彼女の姿が撮影されたカードが送られてきたのだ。日本にいるよりも、西欧の雰囲気が感じられる音楽や言語、色彩に溢れるこの場の方が肌馴染みがいいと言われてしまえば疑う余地もない。そんなことは手に取るように分かるのに、真田の奇天烈な土下座がの心に響いたのか響かなかったのか。俺は知る由もない。会話は間違いなく交わしているのに、心などこちらに寄せるつもりのない対応するの全貌も何も、輪郭でさえも掴めないのだから。
それでも俺は目の端で捉えた気がした。
はすぐ背を向けてしまったので確証はないがーー。かつて見せたことのない悲愁を映したような湖のような瞳に滲む、小さな光り輝く雫を。
ただ、そこにたまたま運悪く派手好きな跡部が通りすがりカーペットの痕を顔に残して殊勝な面立ちで立ち上がった真田とを交互に見比べ、今のをわざと触発するような言葉を放った。
「ハッ、立海のマネージャーか。真田の彼女とは聞いてたが、こんなに威勢のいい女だとはな。皇帝という異名もナンセンスじゃねーのか?」
「これはこれは氷帝の元部長さん、人のことを所有格で呼ばないでくださる?」
今にその喉をかききってでもみせようか、と突如攻撃的な意思を孕んだの慇懃無礼な言い様に何が面白いのか跡部は大声を上げて笑った。いや、分かっている。彼がそういう女子に興味を持つ特異な人間だということは。だけれど、率直に言っては跡部が好きではない。しかし好きではないにしろ、ここまで自ら相手に噛み付くほど鋭い物言いをするを見るのも初めてで、正直戸惑いは隠せなかった。覚えているのは全国大会前に部の窓口であるマネージャーへ礼を欠き、何の手続きもなく我が校に訪れ身勝手に真田と試合し始めた跡部にはは長らく文句を並べるほどご立腹だったということだ。
……こんな時に、最悪の対面だ。
更にの心をかき乱してしまうことには間違いない。これには流石の俺でも頭を抱えてしまった。せっかく遠路はるばる来てもらったのに自分の大切な人にこういう思いをさせてしまうのは心苦しい。しかし赤也の暴走になんなく対応が出来るからなのか、我らが参謀は涼し気な顔をでを引き止め、尋ねた。
「メルボルンの治安は良いとは言えない。大人の監視下もない状況でどこへ行くんだ」
「それが、氷帝の顧問の先生に語学留学も兼ねて来たいってお願いしたら、みんなの滞在中の通訳と引き換えに短期のホームステイの手配をしてくれたの。お迎えが来たから、もう行くね。……試合には来るから、心配しないでね」
悄然と立ちすくむ真田には力なく笑いかけ、俺には「大丈夫」とだけ囁きそのまま思い切り顔を背け早歩きでロビーを去っていってしまった。あっという間の出来事だった。赤也は「センパイ、心広いんスね~」と少し的外れに自分の失態を隠蔽するかのようにおどけてみせたのに対して、仁王が無言で赤也の背を乱暴に叩いた。ジャッカルは冷や汗を浮かべながら「すげー怒ると思ったんだけどな」と摩訶不思議といった風に外野からの感想を述べた。
ただ俺にはロビーに差し込む朱い陽射しに照らされた陽気な人々の行き交う中に、彼女の残像が朧げに浮かんで見えるだけだった。
(210224)