それでいて、乙女は笑む・後編


どうしよう……?!あたしったらなんてことしちゃったの。世界大会を控える弦一郎とせっちゃんにあんな態度取っちゃって、しかもホテルのロビーで騒ぎにもなっちゃって。
なんて言えばいいか全然わかんなくて、頭が真っ白になって……。きっと自分の中には怒ってる気持ちもあったんだろうしそれを抑えられなかったのは……みんなに伝わっちゃってたとは思うけど。
"彼氏にひどいことしちゃった"とべそかいてるあたしにホストマザーとその娘さんは事情に立ち入ることもなく優しく慰めてくれた。
"誰にでもそういうことはあるのよ、後でごめんなさいして仲直り出来ればいいのよ"
って。でも頬を濡らし流れ出る涙は止まらなくて、遂にはティッシュでチーンと鼻鳴らすまでかんで。こんな時にほんのちょっぴり思うけど、英語で話してる方がずっと気が楽。喜怒哀楽が激しくったってみんなそこまで気にしないもの。思い切り泣き終えたところであたしはパニック満載だった挨拶にお詫びをし、頭を切り替えて自己紹介や今回のオーストラリアの滞在の目的なども話した。


しかし、辿り着いた邸宅にあたしの頭は再び真っ白になるところだった。敷地が……思った以上に広い。いや、あたしだって昔は割と広い家に住んでいたけれど。流石に私道を所有はしてなかったな……?……さすが榊グループからの紹介というだけあるといえばいいのだろうか。あたしの労働力を差し引いた格安の留学費用を親は言われるがままに出しただけなので、どういう仕組みのツテかは全然よく分かってないんだけど。
"私道だからバイクぐらいなら走れるし、も今度試してみなさいよ~"とにこやかにホストマザーは言う。バイク?!14歳で?!頭の中を尾崎豊の曲が駆け抜けていってしまうような話(バイクは盗んでないけど)に驚きは隠せなかった。まあこれくらいアメリカでもオーストラリアでも普通のことか。ハイティーンになった今だと、幼かった頃とは文化圏が近い異国に対しても違う印象を持つなぁ。
真っ白な壁の平屋のお家にお邪魔すると、あたしが思ったよりも広々とした空間が広がっていた。家の雰囲気は昔あたしがシカゴに住んでいた家とそこまで変わらない気がするけど、それよりも何部屋かは多いみたい。わあ、キッチンは木製のカウンター式でコンパクトでとっても動きやすいのね。コンロもオーブンも大きい!今度日本食作らせて頂く際に使わせてもらおっかな~と次第にあたしの思考は新しい環境に逸れていき、ルームツアーに胸が踊った。
お風呂なんてジャグジーつきで、壁は大理石。バスタブはよくテレビなんかで見るような、大きくて丸くて広いのなの!干ばつが酷いことで有名なオーストラリアだけれど、ここでは影響がないからって好きなだけお風呂に浸かっていいって。ホストマザーがそういうからには、そういうことなんだもんね。言葉に隠れた意味の探り合いなんてしなくていいことにあたしはホッと胸を撫で下ろした。ここの家にはあたし以外にもノルウェー人とドイツ人の子が合流することになっているとも聞き、先程やらかしてしまったことを忘れてしまうほど楽しみな予定で胸いっぱいになった。同い年の娘さんや小さい弟くんもいて、腕相撲したりしていればいつの間にか仲良くもなった。
ホストマザーは疲れているあたしを思い遣って、夕食を共にし談笑を交えた後一番にお風呂を勧めてくれた。あたしはええいままよと甘えることにし、有り難く一番お風呂を頂戴することにした。


でもいざ、無数の細かい泡を浮かべるジャグジーのお風呂の中でひとりになってみれば、やっぱり悲しかったし胸が苦しかった。ぽつんと一人になった瞬間、とてつもない大きな不安に襲われる。……弦一郎はどう思ってるんだろう。その不安がどうしてもあたしを支配してしまう。
そういえば、大事な関東大会の前に思わず告白しちゃった時もあったっけ。あれはせっちゃんがあたしをかついで、それに乗っかってしまった形にだったんだけども。あの時はあたし達が負けるなんて夢にも思わなかったから。……弦一郎が負けることがあるなんて、せっちゃんや手塚並みの選手だけだと思い込んでいた。そういう甘えが確かにあの時はあった。
それでもせっちゃんも弦一郎も日常の雑然とした事柄に、コート上で心揺さぶられることなどない。それを長年見てきたあたしはちゃんと分かっている、はず。今日のことはあたしにとっては些細なことと片付けるのは難しそうだけど、これから試合に臨む弦一郎には取るに足らないことであってほしい。でも、それだけじゃ嫌だと思ってしまうあたしはどれだけ欲張りなの?あたしは湯船に身を委ね、身を纏う泡たちと共に溶けてしまいたいと思った。己の未熟さや上手く取り繕えずこんなに大袈裟に傷ついてしまう自分なんて大嫌いだ。


今のあたしは、完全に一人きり。なんて贅沢なひとりの時間なのだろう。異国の地で、最大限にもてなしてもらって。大の大人が三人くらい入れちゃいそうな大理石に囲まれた湯船に浸かって。だけど、嗚咽が止まらない。同じ温かい水同士なんだもの、乳白色の品の良いお湯と塩っ辛い涙なんて混ざって誰にも分かんなくなっちゃえばいいんだ。人間の約60%だって水なんだもん。だから世界でひとりぽっち、泣いてるってことはあたしでさえなかったことにしちゃえばいいんだ。自分の中の毒素よ、滝のように迸るエネルギーと共に流れ出てしまえ。


しかし一体全体、ヤキモチ妬くのってどういうメカニズムなんだろう?雄がハーレムを作って効率的に繁殖させる雌ゴリラの話は分かるけど、人間の場合ってどういうことなの?一夫多妻制の国だってあることだし。あたしも一夫多妻制の女の人達くらいおおらかになれたらいいのに。……一夫多妻制自体は嫌だけど。
大体、人間なんて誰のものにもなれない。それなのに何でみんな、あたしが誰かの所有物みたいに言うの。船でも散々だったけど、虫の居所が悪かった時に跡部にも言われて余計癪に障った。あたしは確かに弦一郎の彼女だし、弦一郎やあたし達を長年見てくれてた人達にそう言ってもらえるのは嬉しいけれど。
そうよ、なのにこの扱いは何?!そりゃ何だってするわよ、弦一郎やせっちゃんが勝ちたいと願うなら。じゃあなんでこんなに胸がムカムカしてくるの。どうして嫌だって思ってしまうの。あたしはそんなに心の狭い人間だったの?醜い自分なんてもう見たくない。
でもこの痛みはあたしのだけのもので。せっちゃんの辛さはせっちゃんだけのもので。弦一郎が達成したいものは弦一郎だけのもので。でも、テニスの試合で勝ちたいっていうのはみんなの夢で。あれ、何を考えていたかよく分からなくなってしまった。そして今更になって、土下座だけじゃ何が悪いと思ってるのか分かんなくない?今回のは理由が分かってるから浮気とはカウントしないけど、浮気する男ってそんな感じなの?と怒りらしき感情が沸々と湧いてきた。
次々と現れては消える思いが湯船の中でかき回されるお湯のように渦巻いている。情けない声でしゃくりあげる。広い湯船の中で滑らないよう気をつけ、といえどもふらつきながらシャワーブースへ足を運んだ。泣きすぎて頭がガンガンする。シャワーブースはガラス張りで、誰が見るというわけでもないにしろこの湯けむりがなければあたしは裸のままショーケースに入れられた気分になっていたことだろう。
誰も、誰もこんなあたしを見ないで。とうとう自分の腕さえもハッキリと見えないくらいには熱いお湯からは蒸気が昇っていた。


思い切り熱いシャワーを浴びると、何だか頭が余計にぼーっとしてきた。のぼせているのか。無意識に曇ガラスに指が文字をなぞっていた。何も考えずに書いてしまった言葉に、ああ、あたしはなんて愚かなのと愕然としてしまう。どうしてこんな時まで好きな人の名前を曇ったガラスに書いてしまうの。
しょうがないじゃん、好きな人達の名前を書くのが密かな趣味なんだもん。殊更、彼氏ならそうでしょ?!綺麗に書けてるって褒められたいじゃない。それの何が悪いのよ。ヤキモチ妬いて何が悪いの、だって再会してからちゃんと会話すらしてないんだよ?!あたし、悪くなくない?!最早、誰に逆ギレしてるのだろうかという状態にまで思考がヒートアップしていた。



もう、めちゃめちゃだ。自分への嫌悪感と無理のある正当性が波のように交互にやってきてはあたしを押し寄せる。えづきながら思い返す、じゃあ結局彼にどうしてほしかったのだと。
原点に帰ってしまえば、強制的に参加しなければいけなかったとはいえそんなどうでもいい勝負にはハッキリと不参加の意を唱えてもらいたかった。でもそれはもう過去のこと。じゃあ、次にどうしてもらいたかったのか。謝ってもらいたかった。でも、弦一郎はちゃんと謝っていた。……なんだかすごい形で。
じゃああの時、潔く土下座した弦一郎に対して湧き上がったこの気持ちは?それでも悲しくて辛くて、何も言えなかったのは……どうして。


ーーどうして、あたしのこと考えてくれなかったの?


多分、そう言いたかったんだと思う。でも言えなかった。弦一郎の行動原理はすぐに理解は出来たんだよね、『軟派』になるには弦一郎が普段思い描いている『硬派』と真逆のことをすればいいって。やり方間違ってんだよ、アホがー!って、それくらいの言葉で簡単に済ませられれば良かったのに……どうしても納得がいかなかった。
それでもあんな風に土下座させちゃって本当に申し訳なかったな……と落ち込んでしまうあたしもいて。もしかして、弦一郎の面目丸つぶれ?もしそうだったとしたら……、弦一郎に嫌われちゃったらどうしよう。あたしのこと、嫌いになったりしないかな。よくよく考えたら、あたしに奥ゆかしさなんて一切ないし、弦一郎の好きなタイプの女の子じゃないかもしれないし。それに、今でさえ着信すら来てないし。
あたしはおもむろにジップロックに入れといた自身の電子端末を確認すると、思い込みは杞憂だったことに気付かされた。弦一郎からの着信が一件来ていたからだ。その上留守電が入っている。そしてせっちゃんと蓮二からはテキストメッセージが送られていた。……マナーモードにしてルームツアーやホストファミリーと話すのに夢中で何も気づいてなかった。慌ててシャワーブースから出て、急いで髪を乾かしパジャマに着替え自室へと急ぎ、ベッドで正座をし留守電に耳をすませた。


『……お前の時間に都合がつかんのなら、また後で話そう』


なんですかね、これ。いや、これが彼の今の精一杯っていうのは分かっている。分かってはいるんだけど……。いや、もうあたしだってうだうだ言いたくないし。テニスとあたし、どっちが大事?なんてバカな質問する気もないし、むしろそんなの思ってすらいないし。そんな風に思ったり可愛く聞けちゃえばもっと楽なのかもしれないけどさ。いくらあたしでも、弦一郎が何に対して悪いかちゃんと理解してるのか分かんないよ。


せっちゃんの方からメッセージを確認すれば数時間前に、大丈夫?との一言が。だから、大丈夫って言ったじゃん。聞こえなかったの?!それに不安とその他の名付けられない感情が入り混じった交響曲を奏でているあたしの気持ちを聞けるようなご身分じゃないでしょうが。


『人のこと心配してる暇があるなら、試合に集中してください。』あたしの本心の一部でもあるメッセージを送ったきり、せっちゃんからは返事がなかった。そして蓮二へはなが~い愚痴のメッセージを打っている間にその日の疲労度がMAXに達したのか、ホストファミリーにおやすみの挨拶も言わずにいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。











* * *










目まぐるしく日々は過ぎ、とうとう今日はオーストラリア戦。あれから、まだせっちゃんとさえもまともに話せていない。柳生もジャッコーもあの時の話はしないし、あたしもしたくないし。それでいいよね?じゃあもう怒ってないかって?……それは自分でもわかんない。
前回はギリシャ戦での赤也の戦いをハラハラして見届けた。それにしてもここはやはりオーストラリア。アリーナがめちゃくちゃ大きい。あたしがまず世界大会をテレビでしかちゃんとしか見たことないのと、アメリカにいた頃一度しか野球観戦にいかなかったのもあって規模が違うのに息を呑んでしまった。そして今日が二度目。中学生の全国大会なんて目じゃない。二度目でさえここには大勢のお客さんが世界からやってきていることに圧巻の思いを抱く。そしてあたしもその中の一人。


今日のオーダーはせっちゃんと弦一郎のダブルスっていうとっても珍しいD2。せっちゃんから弦一郎とのダブルスを組んだ時の話を昔に聞いてことがあるくらいなので、それ以来……なんじゃないのかな。
試合会場にも、応援するあたし達の間にも緊張の糸が張り詰める。しかも今回は相手チームにとってのホーム、日本チームからすればアウェー。異様な熱気が会場を包んでいる。いくら声の通りがいいあたしの声援なんて大衆の中に埋もれてしまう。そしてあたしが見たことのないように、せっちゃんと弦一郎は戸惑いを隠せないように立ちすくんでいた。ゲームが始まるも、弦一郎のサービスエースはダブルフォルトで失点。全然弦一郎らしくもない。でも、この割れるような歓声の中で異常な勢いに呑まれない方が難しい。本当に、こんなミスをする弦一郎を目にするのは初めてのことだった。せっちゃんが何も言わずに弦一郎を見つめていると、何を思ったのか、弦一郎は攻めのフォームのまま腰を低くし次の瞬間になんとーー


その響き渡る声で、堂々と国歌を歌い出した!


これには会場も静まり返る。あたしもその姿に目を見張る。しかし、弦一郎が厳かに、そして自らを奮い立たせるように日本の国歌を歌い終え場が沈んだ直後


"JAPAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAN!!!!!!!!"


と、あたしは我をも忘れて拳を振り上げ叫んでいた。そう、それも弦一郎と同じくらい場内に響き渡る声で。しかも、こっちに来るまで剣道道場にまた再び通っていたから、多分以前より磨きのかかった喧しさで。あたしの隣に座っていたジャッカルは単純に目を丸くし、あの彼氏にしてこの彼女有りとでも言いたげな柳生は呆れたのか感心したのか複雑そうな笑顔であたしの勇姿に小さな拍手を贈っていた。"日本人の女の子は元気だな"なんて声も周りから聞こえてきて、あたしは自分のしたことにどんどん恥ずかしくなってしまい、この場からいなくなりたいと強い気持ちに駆られたけれど。コートに再び視線を送ると、せっちゃんと弦一郎は明らかにあたしを見ていた。あたしは右腕を高らかに掲げ、グッドラックと手でサインを送る。
そして彼らは……微笑んでいた。


……なんだ、コート外の観客席からの声もちゃんと聞こえるんじゃん。


この勝負に勝てる見込み有り。
この前のネガティブな感情はどこへやら、あたしは満足気に笑みを浮かべたのだった。



(210228)