最大瞬間風速50m/s
「おーい!」
爽やかな潮風が優しく頬を叩く。船は順調に航海しており、雲量も少なく今は快晴に近い。当分このまま穏やかな海を進んでいくことになるだろう。デッキでは大はしゃぎの日本選抜応援チーム、俺は先ほどマムシのヤローとまた口論を繰り広げ水泳なんてやめだやめだと興をそがれ、タオルでガシガシと乱雑に頭と体を拭き手早くジャージに着替えた。ああ、今思い出してもむかっ腹が立つ。俺はロッカールームにてタオルを使い軽く素振りをした。未だに落ち着かないこの苛立ちを今の晴れやかな空のように気分転換するために、はちみつレモンスカッシュでも飲みに行くか~と自販機へ向かう最中、俺の意に反して脳天気な声が呼び止めた。
「オモシロくん、立海のマネージャーちゃん見なかった?」
「……まーた女子探してんスか、千石さん」
「この前彼女のプリ見せてもらっちゃったしねぇ。で、知ってる?」
「ああ、あの人か。そういえばさっきアイスクリーム売り場を通り過ぎていくのは見ましたけど……」
「お、手がかりはっけーん!せっかくだから案内してよ」
いやいやせっかくってなんスか。あの立海マネの人をナンパしにいくって?いや、あの人が真田さんのカノジョだって騒いでたの千石さんじゃないですか。俺がそう言うも、千石さん鼻唄なんか歌っちゃってやけに上機嫌だ。確かに船上に女子が少ないから手当たり次第行くのかもしんねーけど。まあまあと結局俺は強引に押し切られて、女性に声をかけまくる悪癖がある千石さんの後をすごすごとついていくハメになった。ま、俺もあの色恋事とは縁遠そうなイカツイ真田さんの彼女ってどんな存在なのかは俺だってちーっとは興味もあるけどよ。人のモノに手を出しちゃいけねえよな、いけねえよ。真田さんのカノジョと何かあって、イザコザが起きないように千石さんを見張ろうとだけ太陽がジリジリと肌を焼く中ぼんやりと頭に浮かべていた。
しかし千石さんは難攻不落な女子ほど燃えるじゃない、などとのたまう。いや、何度も言いますけど人のカノジョっスからね?!勿論落とす気はないけど、連絡先交換したりお喋りしたいだけだよ~とこの期に及んで戯言を並べる千石さんに俺は半ば呆れつつも、やはり立海のテニス部マネージャーを務め尚真田さんのカノジョの座に収まる人がどんな人か気になってしまうのは否めなかった。
しかしいくら探せども、それらしき人はおらずメインデッキで目立つところにはいないようだ。豪華客船なんだからこんな風に人探しをするのはかなり効率が悪いかもしれない。一応彼女の通訳呼び出し用の連絡先は知ってはいるのでそれを使ったらどうッスかと提案したところ、「それはロマンチックじゃない」と謎の理論で即座に却下された。まあ一緒にいるのがラッキー千石さんつーことでこんな探し方でも見つかる気はしているが。案の定、俺らの探し人は陽があまり当たらない柱の影でビーチチェアに浅く椅子に座っており、何やら電子端末機器に前のめりになり一人熱心に何かを読み込んでいた。音楽を聞いているのかイヤホンもしているせいで、俺たち二人が現れたことにさえ気づいていないようだった。眉を顰め、集中している姿からはやはり貫禄のあるイメージは拭えない。どれだけ近づいても俺らの気配に気づきはしないので、痺れを切らした千石さんがとんとんと優しく彼女の肩を叩いた。
「ウワァーーーッ?!」
「あ、驚かせちゃった?ごめんね」
一瞬何が起きたのか分からなかったようで、彼女は大きな悲鳴を上げ電子端末機器を落とすほどオーバーリアクションで驚いた。真田さんの声に負けず劣らずの大声だったので、俺の心臓さえも飛び上がってしまうほどだった。しかしすぐに電子端末機器を拾い上げ画面が割れていないかチェックをしてから俺らに視線を移した。大きな猫のような目でぱちくりと瞬きを繰り返し少し呆けたような顔をしているその人の威圧感のイメージなどはとうに消え失せてしまっていた。
「いえいえ、あたしこそごめんね。音楽聞きながら作業してると全然周りの音聞こえなくなっちゃうんだよね~」
「こちらこそ驚かせてごめんよ」
「アハハ、こちらこそ驚かせちゃったね。千石くんに桃城くんだよね。あたしに何か用かしら?手伝えることある?」
古い型であろう大きめサイズの音楽プレーヤーを止め、イヤホンを外し律儀にケースに入れてテキパキとポケットにしまった。何だか思ってたよりも普通の人だな。そして、第一印象に比べ随分丁寧な物腰でにこやかだ。俺たちの名前もしっかり覚えてるらしい。
「キミのこと、気になってたんだよ。合宿で真田くんの彼女だーって話題になってさ。一躍時の人って感じ?」
「え、合宿でそんなことになってたの?!」
「ああ、この人が主に騒いでたンスよ」
「そう……。あぁ、確かに。弦一郎から千石くんが同室だったっていうのはなんとなーく聞いてたわね」
不意打ち。女子から真田さんの下の名前がこんなにもあっさりと聞けるとは思っていなかった。今この人真田さんの下の名前を言ったんだよな?と聞いた情報を脳で処理するのに時間がかかり、思考にタイムラグが発生するぐらいには驚いていた。俺と千石さんはお互いに戸惑いを隠せず目を合わせてしまった。なるほど。漠然とした真田さんの恋人像は、親しくあの人の下の名前を呼ぶ実在の人物を目の当たりにしてようやく見えてきた。これでやっとハッキリ分かった。この人は紛れもなく真田さんの彼女だってこと。
「いや~、その節はご迷惑をおかけしました。真田くん9時に寝て4時に起きちゃうからケッコー大変だったんだよね」
「え、千石さんそん時どうしてたんスか?」
「21時に消灯させられてたから、たまにロビーかなんかで時間つぶしてたよ。ほら、愛は会えない時間にも育まれるだろう?でもスケジュールの都合上女の子に通話するのはだいたい夜になっちゃうし」
「あらあら、そんなことになってたの。確かにあたしもせっちゃんとだけはケッコー通話できてたけど弦一郎とは2、3回くらいしか話せてないし……。なんだか申し訳ないなぁ。余所でも結構な暴君でほんとーにごめんね」
『せっちゃん』とは一体立海のメンバーの内の誰だろう?と思ったが、ニックネームからして……幸村さんかな。それにどうやらこの立海のマネは結構な常識人ときた。そして積極的にグイグイ話していく千石さんにも物怖じせず、チームのサポート役の姿勢を崩さないこの人はやはり真面目なのだと感じる。それにかなりの気遣い屋のようだ。何を思ったのか、電子端末機器を椅子に置き直した彼女は急に俺に手を差し出した。
「改めまして、あたしは立海のです。よろしくね。千石くん、桃城くん」
「ああ、よろしくっス。通訳出来るなんて、ウチの越前みたいに帰国子女とか?それともハーフかなんかなんスか?」
俺は彼女の柔らかくて小さい手を握り返し握手した。すぐに笑顔で千石さんとも握手をする。千石さんはコリもせず鼻の下を伸ばしている。まじまじとさんを見ると、顔立ちもどこかしら異国情緒がある。凛々しい眉に目鼻立ちがはっきりしている。そしてテニス部のマネージャーかと疑ってしまうくらいにはピンク色に火照る白い肌。加えて、話す相手から微塵も目を離さず会話をする芯の強そうな彼女にはどこか日本人らしからぬオーラと懐かしさを感じた。
「そう、君のところのルーキーくんとおんなじ国の帰国子女。外国の血は混ざってないよ」
「そーなんスね。なんかあんまり日本人っぽくない雰囲気だからてっきり」
「え、そう?もう帰国して4年近く経つんだけどなー。あ、別に海外行ってたこと隠してるわけじゃないからいいんだけどね」
「確かにプリ見て思ったけど、女優さんかなってくらい華やかな顔立ちだねえ」
おいおい、千石さんそれは流石にお世辞の言い過ぎなのでは。俺はそんなお世辞見え見えだろうと変な顔で苦笑いを堪えるとさんは「それはないわー」と朗らかに笑った。そういうのに対して不快な思いをするタイプじゃねーみたいだな。気難しそうなイメージだったけど、喋ってみると全然違う。
「で、何のご用事?」
「用事もなにも、キミとお見知りおきになりたくて来たんだよ」
「ああ、そう。千石くんは女の子が好きなんだったっけ」
「ハッキリ言ってくれるねー……って、俺のことよく知ってくれてるんだね。光栄だよ」
「それくらいはね。まだあんまりみんなのことちゃんと覚えられてないけど。丁度今、今回応援に行く生徒たちの名前やプロフィールを照合していたところなの」
「えっ、こんな時まで仕事ッスか?!もっとこの豪華客船を楽しみましょうよ!!」
椅子に置かれた電子端末機器を指している彼女に俺は思わず本音で大声を出してしまっていた。しかし三連覇を遂げようとしていた立海のマネともなると、そこまでしないと追いついていけないのかもしれない。さんは俺の叫びに再びゆっくり瞬きを繰り返し、ふふっと笑いを零したと思えば続けてケタケタと笑い声を上げた。今の何が笑う場面だったんだ?
「あはは、そうね。でも一人でいるのも結構好きなの。それに長旅だと枕が変わってよく眠れないし。ここにいればみんなのこともよく見ながら休めるからいいでしょ?」
「お、枕が変わると眠れないタイプ?」
「そうなのー。おかげさまで昨日から夜中に漫画読んだり動画ばっか見ちゃう」
気さくな態度にどんとん親しみが湧いてきた。あのビッグ・スリーと常に共にいただろうから、堅苦しくてアンドロイドみたいに働く人なのかと思いきや。人は見かけで判断しちゃいけねえな、いけねえよ。
「で、どうやって真田くんとお付き合いする経緯に至ったの?」
「え、それ聞きにきたの~?」
「いや、だって気になるじゃない。ねえオモシロくん」
「ハハ、まぁ……」
正直興味ないと言えば嘘になるので、適当に肯定しとく。すると彼女は熱くなったのであろう頬に手のひらを当て「恋バナは得意じゃないんだよねぇ……」と視線を逸らし困った顔をしていた。明らかにこれは恋する乙女の顔だ。未だに二人の間でどういうやりとりがされているかは全然見えてこないが、照れ笑いする彼女から真田さんへの想いをひしひしと感じる。
「それより桃城くん、さっき海堂くんと喧嘩してたでしょ」
「ああ、それはアイツがーー」
「喧嘩するほど仲良しさんなんだね」
「いや、あんなマムシヤローと俺のどこが!!」
再び、大声を思わず張り上げてしまっていた。先程のくだらない言い合いが見られていたとは、少し恥ずかしい。千石さんは話を逸らしたさんに不服なのか、それとも俺ばかりいじられて気に入らないのかは分からないが面白くないという顔をしていた。さんはムキになる俺に朗らかに笑い声を上げた。一つ上の先輩だからじゃないだろうけど、なんかこの人の方が上手だ。そんな気がした。
「千石くんは占いが好きなんだよね」
「そうなんだよ~。さんは?」
「あたしはねー、雑誌の占いコーナーとか見るよ。良いこと書いてあれば信じるくらいだけど」
「俺は占星術好きなんだよね。花占いも最近するよ」
「あたしも占星術好き~!花占いは面白そうだけどせっちゃんが良い顔しなさそうだなー」
「あの……"せっちゃん"って、幸村さんのことッスか?」
「そうなの、せっちゃんはあたしの幼馴染なの~」
なるほど、だからかと納得する。幸村さんとの幼馴染で真田さんの彼女、なんだかすごい環境にいる人だな。それでこののほほんとした態度。あんまり覚えていないと言いながらも、さり気なく俺たちのデータを会話にしのばせている。参謀と呼ばれる頭脳が立海にはいるけれど、その補佐をさんがしているのであろうことは容易に想像が出来た。全国大会やU-17合宿を経て色んな猛者とテニスをし想像を絶する人達を見てきたはずだが、この人もなかなかのようだ。
「じゃあ幸村さんの影響でマネージャーを?」
「そんな感じ。ウチには参謀もいるし、あたしは雑用に近いんだけどねー」
「え、そうなんスか?」
「そうそう~!練習試合の申し込みとか、テニス用具の管理みたいな細々としたことはあたしがしてて、あとは蓮二が大まかに回してるよ」
「そんな裏話聞いちゃっていいんスかね?」
「ウチのブレーンは蓮二だから、運営の仕方くらい話したっていいんじゃない?あんまり試合に関係ないし~」
謙遜してるというよりなんだか他人事みたいに自分のことを話す人だなぁ。先程の真面目な印象と打って変わって、かなりアバウトに仕事をしてるんじゃないかと思ってしまうような口ぶりだ。まあ、俺はそっちの方が話しやすいしいいか。確かに、さんの言う通りあんま試合には関係ねーしな。
「それで、真田くんから君に告白したってワケ?」
「ちょっとちょっと。まだその話するの?!」
「嫌かな?」
「ん~……嫌なわけじゃないけど……。どっちからかぁ~。あれはあたし……いや同時……。うーん?」
「さんから?!積極的なんだね!」
すると茹でダコみたいに顔を真っ赤にして「違う違う違う!……いや違くないんだけど」と大慌てで両手を振っていた。どうやらどうしてもこの手の話は苦手らしい。最初はどんなスーパーマネージャーなのかと思いきや、しっかりと恋する乙女でもあるみたいだ。こんなに話しやすい人なら、いつでも通訳を頼んでも大丈夫そうだな。
「じゃあ俺みたいなのはタイプじゃない?」
「んー……」
「まあ、真田くんを彼氏にするくらいだから俺とは全然違うだろうね」
加えて正直者。否定こそはしなかったが、明らかに渋い顔をして腕を組んで返答に困っていた。千石さん、自ら自分の首絞めに行かなくたっていいんじゃねえか?俺は自ら玉砕した千石さんに大笑いした。それにさんは申し訳無さそうに手を頬に当て困った顔で笑っている。かなり感情豊かな人だ。
「じゃあ、せめて個人的な連絡先は教えてもらってもいいかい?」
「いいよー。桃城くんもいる?」
「じゃあ、お願いします」
幸村さんと幼馴染で、真田さんのカノジョなら通訳以外でも何かと今後世話になるかもしれねーしな。一応もらっとくか。IDを教えてもらうと、俺の画面にポンッと彼女のアカウントだと思われるアイコンが表示された。……自分の顔の写真じゃないのな。フルネームじゃないし、英語だし。アイコンは……なんだ、これ?よくわからない、なんだか西洋の古そうな絵だ。そういえば、幸村さんもフランスの絵画とかそういうのが好きなんだっけか。俺はそういうことはよく知らないが、やっぱりこういうのを見ると彼ら独自の共通する世界観があるように感じる。
「でもでも、千石くんは向こうに着いたら良い女の子にでも出逢えるんじゃない?」
「いやー、外国の女性もいいけどねえ」
「じゃあ声かけたい人が見つかったら通訳してあげる。それでどう?」
「うーん……じゃあ、もしそういう機会があれば」
「ま、千石くんには日本人の女の子の方が似合いそうだけどね~。あ、もしかして外国人の方が良いとかあったりする?」
「いや、そういうのは別にないんだけど……」
「じゃあそういう人が見つかったら、言ってね!あたしも見つかったら言うし!」
今度は千石さんが冷や汗かいてタジタジになる番だった。目を輝かせながら一人で会話をどんどん進めていってしまうさんの押しに千石さんは明らかに困っていた。俺はその対応にどうしたもんかと眺めているとさんが制服のポケットから別の電子端末を取り出し、話題を切り上げた。
「あ、なんか浦山からメッセージ来た。なになに、壇くんが是非あたしの話を聞きたいですって。なんか今日はそういうの多いわねー」
「き、君に興味ある人が多いんじゃない?」
「ただのマネなんだけどなぁ。まあ、二人共何か困ったこととかあったら言ってね。何かしら手伝いは出来るとは思うし。じゃ、よろしく!」
「うん、よろしく」
「こちらこそ、よろしくっス」
俺が軽く会釈すると、彼女は嵐のように去って行ってしまった。すっかり彼女のペースに持っていかれてしまった千石さんは珍しく「うーん……あのテンションに着いていける自信、ないな……」と戸惑った様子で弱気に呟いた。上辺では笑顔で対応していた千石さんだけど苦手なタイプと見た。最後にはさんが良さげな女子がいたら千石さんに紹介するという謎の方向へ話が向かっていたしな。でも笑顔を絶やさない気さくな人ということも、ちょっと変わり者なんだということも今回の会話でよーく分かった。今のところ、ここまでハッキリきっぱり意見を言う人を俺は越前しか知らない。ますますどういう経緯で真田さんと付き合うに至ったのかは謎が深まったが、真田さんと付き合うからにはと言えるほどのパワーがあるのは理解できた。はちみつレモンスカッシュを飲んだ後のような体を巡る清涼感。そうか、彼女は嵐というよりも突風か。しかしここは積乱雲など見当たることのない空の下。俺にとってはまた話してみたい、そう思えるような興味深い出会いだった。
(210210)