知らなくてもいいこと
「いいよな~、センパイは」
ただ単に便所はどこにあるかというルート一つ聞くのでさえ、頭の中のぼんやりと曖昧にしまわれている言葉を引き出さなきゃいけない苦痛。思い浮かべられる言葉達どれを探しても探しても見当たらない焦り。苛立ちのあまり、不自由だと感じた俺はあくび混じりの声でそうぼやいた。独り言を言ったつもりだったのに、それは自分が思ったよりも大きく響いてしまい、二酸化炭素をたんまりと含んだ気怠げな言葉達がとある先輩の耳に届いてしまった。
「の何を羨ましがっている」
「大方の予想はつくでしょ、柳先輩」
柳先輩の隣のソファーに重力に逆らうことなく、どかっと俺は腰掛けた。どうやら海外のソファーは高反発みたいで、バウンドする感じが気に入っている。泊まる部屋のベッドでもトランポリンみたいにジャンプして堪能してきたもんな。眉をほんのわずかにピクリと動かした涼し気な柳先輩の手は忙しない。どうやら何かの書類に朱を入れているようだった。ファイルのカバーのせいで絶妙に俺の角度からは何の書類なのかは確認できない。そんなことより、柳先輩だって今は通訳の代わりをしていることだし、俺の気持ちなんてきっと分かるわけない。が、俺はそんなこともお構いなく言葉を続けた。
「こーいう時英語がペラペラ~って、なーんも考えずに出てくりゃいいなーって思うんスよ。簡単ですって顔して俺に英語教えてくれるセンパイはそうなんでしょ」
「ほう」
柳先輩は丁寧にファイリングされた書類を閉じ、首が埋もれてしまうくらい背もたれに深く背を預けている俺に少し冷ややかな感情がこめたような視線を落とした。こういう時は大抵、お前の努力が足りないなど苦手意識を払拭するために単語だけでも覚えていけといった実用的なアドバイスがされるだけなのだ。しかし、今回の柳先輩の様子は少し違った。普段はあくびをしたくなるようなタメになる指摘から始める先輩が、どこから出したのか古びた分厚い紙辞書をずいと俺の目の前に突きつけた。げ、この人普段からこんなもん持ち歩いてるのかよ。
「最近はもっぱら電子端末を使えば言葉は調べられる時代になった上に俺も利用するようになったが……と先に補足しておこう」
明らかにドン引きしている俺の態度を見て、淡々と柳先輩は続けた。俺の性格を分かっているからか、俺の反応に心外だとは言いはしない。けれど特に声のトーンも変えず、単調で落ち着いた柳先輩の瞳がいつもより微かに開いていた。
「これは中学生用の和英辞典だ。きっと大方9割以上……細かく言えば97パーセント、これらの単語らはの頭の中に入っているだろう」
「……マジすか」
「簡単な目安で言えば英検三級程度だ。単語数で言うと約1000単語。しかし、この辞書だけでは海外の現地校で過ごすには無理がある。およそこの10倍は彼女の頭の中に入っていることだろう」
「い、1万……スか」
「おおよそだがな」
何それバケモン?!俺は思わず大声で叫んでしまった。手渡された辞書は重く掌にのしかかる。これ、俺も持っている学校指定のヤツだ。多分俺のはピカピカで机の中に眠ったままになってるんだろう……この辞書。パラパラめくると仰々しい太く大きい字のアルファベットの羅列。なんだー、こんなに大きい字で書かれたヤツなのかと安易に胸を撫で下ろしたが、よく考え直してみた。これを10冊覚えるとなると……と少し目眩がしてくる。辞書内の文字が紙から飛び出し、踊りだすように俺の頭の中で回りだす。大体なんて読めばいいかさっぱり分からない単語も多い。こうやって思考停止しないのがいいのにと思ってるのに、勉強家でデータオタクの柳先輩にはやっぱり理解できねーんだろうな。
「これと同じ物を10冊ではないぞ。難易度を更に上げた言葉達だ。俺とてその領域に行くには自動翻訳機や辞書が必要となってくる。しかし、この程度ならの頭には入っている。それがどういうことか分かるか?」
「そんなもん俺が分かるわけないじゃないですか。小さい頃にアッチに住んでたら、みんなスルスル~って覚えられるんでしょ」
「ほう」
今日の会話の二度目の『ほう』だ。よっぽど俺の言っていることに興味があるらしいのか、瞳孔がちらついて見える。コエーって。テニスの話や乾さんの話以外ではあまり見せないこの表情、試合以外で見るとやけに落ち着かなくなるんだよなぁ。
「一朝一夕ではさすがに誰だろうと無理だ。されど、臨界期仮説なるものがレネバーグという言語学者から提唱されている。抵抗なく母語のように言語を習得するには年齢の上限があるという仮説だ。だがしかしそれも仮説の域を出ない」
「仮説……スか」
「そうだ。ハッキリと証明は出来ていない。実験例はいくつかあるがな。加えて、他の研究者による学説ではテレビの会話を聞き続けているような一方的な会話のみを聞いて育った場合、言語を操るにあたって充分な言語野への刺激にはならないとされている」
ああ、こういうところがこの人のまどろっこしいところだ。大体のことは結論から説明してくれるのに、たまにこうやって謎を紐解くような話し方をする時がある。だからって何が言いてーんだよ。センパイは頑張って英語覚えた、そういうことじゃねーの?
「では言語を適切に習得するには何が必要か?それは会話だ。学習には相互作用が不可欠……ということはコミュニケーションが必要だ」
「ハイハイ、俺だって知ってますよ。コミュニケーションって言葉は」
「くさくさするな、しっかりと聞け」
背筋をしゃんと伸ばそうともしない、俺の腹に乗る辞典。あんまり脂肪がないからかどんどん内蔵が圧迫されていく。こんな重い思いするなら俺はいらねーなって思っちゃうけどな。身軽な体で、したいテニスをしてアンタ達を超えてーんだし。けど俺の態度は気に入らないとばかりに先輩の薄い唇は言葉を連ね、それらは次々と耳に飛び込んでくる。
「それを小学校での4年間、全教科を英語でやらねばならんと聞いたらお前はどう思う?」
「そりゃー……地獄っスね」
「ちなみにジャッカルもそうしてきたんだぞ。の英語力がジャッカルの日本語力を少々上回る程度か」
「あっ……」
そういえば、言語面でジャッカル先輩が四苦八苦しているのを俺は見たことがない。俺が入学した頃は何の問題もなく日本語を話していたから。なんか、国語のテストは苦手だとは言ってたから得意じゃないんだなーくらいには知ってっけど。……となると、センパイはジャッカル先輩が日本語を喋れるくらいの英語スキルがあるってことなのか。……あの人、あんなに流暢に英語喋れんのか?!
「これでの言語能力については理解できたか?」
「いや、それは流石に分かりましたけど……でもそれはやっぱアッチに住んでたからじゃないスか。ジャッカル先輩だって日本に来たから日本語話せるようになったんだし」
「住んでいるだけで、か」
柳先輩は物言いたげな目で再び俺の腹に上に収まる古びた革の表紙を見やる。この重みを10冊分……、幼少期に。しかも英語で国語、算数、理科、社会、体育、家庭科、音楽、美術。
「俺ぜってー帰国子女になりたくねェ、無理」
「ほう?先ほどは羨ましがっていたようだが」
「んなもん、先輩の話聞いてたら前言撤回するしかないっしょ。俺には無理ッス」
「もそう思っていたらしいぞ。家庭教師を二人つけても、英語は大嫌いと渡米してから数ヶ月は頑として話さなかったらしい」
「……え?!」
センパイのことだ、とっとと友達を作って楽しく異国語でたくさんお喋りをしているんだと勝手に思っていた。数ヶ月……日本語を話さないヤツが俺のクラスにいたらどうだろう。フツー、居づらいんじゃねえのか。
「幸いにも友人はたくさんいたらしい。子どもによくある、ジェスチャーなどを交えた非言語コミュニケーションによってな」
「ああ……確かに言葉がなくてもガキん時は外で遊べますしね。センパイならそこは関係なさそうだし。んでも、結局今のああいうセンパイになった……んスよね?」
「ああ、そうだ。現地校で過ごすには現地の言葉を話すのは不可欠だったのだろう。渋々ではあるが、適応していったのであろうな。しかし、はお前に英語を教えることが出来る。多くの帰国子女は感覚やセンスの面で多国語のニュアンスをつかんでいくだろう。だがは文法の仕組みや細かいニュアンスをお前に教えられる程度にはそれらを言語化できるな。それは紛れもなく才能と努力だ」
確かに、日本語教えてって外国人にせがまれて文法を細かく教えるって難しいかもしんねー。俺は国語得意だから、少しはなんとかなるかもしれねーけど……。でもセンパイが楽々と俺に教えてるようにはいかないような気はする。俺は天を仰ぎながら、ここの現地人に日本語教えてくれって言われたらどうしよう、だなんて起きもしねえ妄想を繰り広げ出してしまっていた。『こんにちは・イズ・ハロー』、それだけが脳内でようやく浮かんできた言葉だった。だがそれも、次の柳先輩の話ですぐに吹っ飛んでしまうことになる。
「お前は知らないだろうが、が入部したての頃は日本の慣習が分からず部では問題児に近い行動も起こしていたぞ。ほんの数ヶ月だがな」
「問題児?!」
声がひっくり返った。マネの仕事で柳先輩以外に口を出させない、あのセンパイが?!喉が変にうねったようで咽こんでしまい、前のめりになって咳き込んでいると柳先輩がいつの間にか水を確保してきた。俺は礼を言う前にそれを一気に飲み干し、喉から腹まで通る潤いに満たされていった。無作法をたしなめるような目つきで先輩は俺を見下ろしていたので、決まりが悪く小さく頭を下げた。
「話を続けよう。まず『先輩と後輩ってなに?』からだ。ですます程度の丁寧語は一年程剣道道場に通っていたおかげでなんとか使えるようだったが、それよりも一つしか年が違わない者を何故敬わねばならぬのかが理解が出来なかったようだ。小学生だけが通う道場では最高学年だったろうしな。それに習い事のように部活を自由に休んではならないということにも納得がいかずにいた。全国大会優勝を目指す日本の部活事情を全く知らなかったようでな、俺と精市で部活制度の仕組みや日本の慣習の説明をし、理解させるまでに数ヶ月かけた。俺と弦一郎とは一年の頃同じクラスだった上に、主に俺が彼女をサポートしていたのでよく覚えている。お前が想像出来る通りに対して弦一郎は叱るばかりで、あの二人は出会った当初からしょっちゅう口喧嘩をしていた。ああ、それは今もあまり変わらないな。しかし既に以外に我が部にはマネージャーをやる者がいなかったし、ジャッカルの言語面でのサポートを任され、初めての県大会を実際に経験してからは変わった」
俺はごくりと唾を飲み、喉仏を鳴らした。じゃあ、センパイは毛利先輩みたいだったってことか?いや、流石にあんなサボり魔ってほどじゃねーだろうけど……。俺は既に身を乗り出し、柳先輩を見上げて話を聞いていた。分厚い辞書の背表紙を親指に力を入れ握りしめていた。
「精市が何故彼女を部に迎え入れたのか、当時の俺と弦一郎は理解に苦しんだ。しかし、チームの一員であることを自覚してからのの変わりようは凄まじかったぞ。図書館に通い詰め、敬語にテニスのルールの参考書、応急手当の仕方の本等を片手に猛勉強していた。……数学の勉強はしなかったようだがな。病欠以外での遅刻と欠席もほとんどない。弦一郎の『日本とは』といった講義じみた持論にも素直に耳を傾けていたぞ。精市は彼女の特性をよく分かっていたようだ。初めこそ、俺と弦一郎や多くの部員にとって印象が良くなかった彼女だが……。の行動力には皆舌を巻いていたぞ。初めの態度の悪さはの中で同時に存在する二本の支柱である文化たちの齟齬への抵抗感や戸惑いの為だった。帰国して2年目だったのだ、今思えば致し方ない。正常な反応だ」
ふ、と含みのある笑みを零す柳先輩は満足したかのようにそこでピタリと話を止めた。俺は目を丸くして、説明された言葉たちをワンテンポ遅れながらも咀嚼していく。しかし何を思い立ったのか、柳先輩はファイルを俺によこして、再び口を開いた。
「はこれを他人に知られるのが嫌なわけではないぞ。勿論、彼女はあの頃の自身の未熟さを恥ずかしく思っているようだから、俺たちもこの話を口にはしない。そして、それはお前にとって要らない情報と判断したが故、お前に話さなかった。がお前にこの話をしなかったのはプライドのせいというより、我々の道を立ち塞ぎたくないからということだ」
「先輩、そんな心理分析までしてたんスか?」
「本人から当時の心境を後々になってから聞いた。有り難いことに、俺のデータ収集の為なら大体のことには応じてくれるのでな」
あっぱれだ。明け透けにここまで柳先輩に自分の話をデータとして語ることのできるセンパイに俺は素直にそう思った。俺は渡されたファイルを開いて、何の書類なのかを確認した。それはセンパイが細かく丁寧にまとめた新マネージャー候補のプロフィールや指導スケジュール、タスク管理のデータだった。電子機器が苦手な副部長用に紙に印刷してまとめたものである。マネージャー候補のコメント欄には『エースの赤也をサポートするのに適切』というセンパイらしい温かい言葉が目に飛び込んできた。なんつー人だよ、あの人は。あーあ、センパイがいなくなるの嫌だなぁ。俺は7月の終わりの夏に感じた寂寥感を再び思い出した。ここの夏よりもじめじめした、それでいて尚悔しさや新たな扉への胸の高鳴りを覚えた、特別な夏である。しかし、今目の前に待ち受けるのは世界。部のおおまかな運営は、ひとまず信頼のできるセンパイに任せよう。うん、こんな風に背を預けられる人が俺たちを待っているのは悪くない。だから、この話はこれで終わりだ。
(210120)