いっぱいいっぱい
あれから数日。新学期も始まり、あたしは真田とやっと両思いになってちょうハッピー!だし、気分も一新したいところ。新学期早々の全校集会で、テニス部元レギュラー含めそのマネージャーことあたし、はただいま壇上にあがっております。負けたとはいえ、我々男子テニス部は全国大会準優勝。選手が表彰されるのは当然だけども。あたし、選手じゃないんだけどな。
「だっては3年間、たった一人で俺達を支えてくれたじゃないか」
とせっちゃんが言ったところ、すんなりとあたしは壇上行き。壮行会ではマネージャーも表に出るのだけれど、表彰式にマネージャーが出るなんて前代未聞。でも学校側は3年間も全国で名を轟かせた我が立海大テニス部のいうことはなんなりと、という状態で。真田とあたしと柳生は同じクラスなので、表彰を終えた後一緒にクラスの列のしんがりまで戻った。あたしはいまだに壇上で感じた妙な居心地に顔を顰めていた。
「もっと堂々としていたらどうだ、」
「だってあたし、なんもしてないし」
「精市がわざわざ許可を取ってまでお前を壇上に上がらせたんだ。それだけの価値があると思っていい」
「そうですよさん。あなたがいらっしゃったから、私達ここまで来れたんですから」
柳生が後押しするように言えば、そうだね、とあたしは素直に頷いた。別に、彼らと壇上に上がることはいいのだ。けれど事実として立海大テニス部は、人気者なのだ。どうしても突き刺さる視線を感じずにはいられない。普段は部活に集中していたりなんだかんだで慣れているけれど、壇上にあがり厳かな雰囲気で注目を集める状況ではまた違う。スピーチコンテストとは違って、妙にキンチョーしてしまった。まぁ、今更どうでもいいんだけどね。どっちかっていうと学年にあたしを知らない人が少ないわけではないことは自覚してるし。ヒソヒソ噂されるのが決して気持ちいいことじゃないのは確かだけど。
その日は全校集会のあと、L.H.R.だけあって、先生はこれからの予定たちを大まかに話していた。そっか、もうすぐ行事だらけになるんだ。もうすぐで学園祭、あたしたちは何をするんだろ。あたしはぽーっとそんなことを考えていると、隣の真田にしかめっ面で小突かれた。
「おい、。話を聞いているのか」
「え?あ、うん。学園祭の出し物についてでしょ」
「その話はとっくに終わった。今は体育祭の種目について決めている。しゃっきりせんか!」
本当だ。いつの間にか200m走とクラス対抗リレーの欄に名前があたしの名前が書かれている。しかし、この男は今や彼氏だというのに遠慮なくあたしを叱る。しかも、カップルなりたてのほやほやで。でも真田はどこかあたしと話すとき、前よりもっとやわらかい笑みを浮かべて話すし、今だって叱ってるにしてはどことなく優しい声色だ。惚れた欲目かもしんないけど。「はぁーい」とあたしは気の抜けた返事で返せば、真田も「わかったのならいい」と返す。ああ、なんだか、幸せだなぁ。……って前とほとんど状況変わってないか。
「そういえば今年のテニス部、学園祭どうするんだろ?」
「3年は基本、クラスの出し物を中心にやればいいのではないか」
「だって、せっちゃんちょーやる気満々だったよ。それに、去年先輩達も結構テニス部の出し物にメインで参加してたしいいんじゃない?せっちゃんはまた演劇やりたいんだって」
「……演劇か。去年もやったな」
すると真田は険しそうに眉根を寄せる。そういえば去年はサボった毛利先輩の代役を真田がやったんだっけ。とりあえず、今年のクラスでの出し物は執事・メイド喫茶で決定ということだ。ありきたりだけど。ああ、でも真田の執事姿かっこいいんだろうなぁ……。ヤバ、ちょっと、あたし今大変な顔してない?!でも真田の執事姿……。写真部に頼んで写真とってもらおっと。
「なにやるのかな、演目。今年もせっちゃんが脚本とか書くのかな?せっちゃんが主役で桃太郎とか面白そうだけど」
「精市に桃太郎か?」
「えー、だってせっちゃん、餌で子分たちを従えて鬼退治するってとこぴったりだよ。猿は赤也、キジは仁王、犬は……真田かな?」
「なっ、俺が犬だと?!」
「なんなら鬼でもいいけど。柳生はおばあさんで、柳がおじいさんでブン太はなんだろ?真田が鬼の場合はブン太が犬かな」
「人を鬼呼ばわりするとはなんだ」
「だって、ぴったりなんだもの」
あたしが意地悪なニュアンスを含めてそう言えば、真田は何か言い返しかけようとしたが今が授業中だと思いだしたのか固く口を結んだので思いとどめたようだ。いずれにしても、顔のにやけを出さないように話すのはこんなに難しいことだったとは。真田の顔を見ただけで、あの日のこと思い出しちゃうんだもん。数日経ってるというのに、まだ真田の胸の感触が頬に残っている。好きな人に抱きしめてもらえるって、あんなに幸せなことだったんだ。そんなことを考えてたせいか、無意識に真田の胸のあたりをじっと見つめていた。
「どうした?」
「ううん、演劇楽しみだな~って!」
あたしの様子のおかしさに気づくこともなく、そうだなと真田は頷いた。あ、でも真田が主役っていうのもいいかも、うん。だとしたら何かな?時代劇風に、水戸黄門とか楽しそうだ。水戸黄門は真田で、助さん格さんは……うーん、適役がいない。悪代官がせっちゃんなのは、面白そうだけど何だかな~。暴れん坊将軍の方が真田っぽいかな。いかんいかん、あたしは時代劇のことよく知らないんだった。L.H.R終わったら、時代劇はどうかってせっちゃんに提案しに行こう、そうしよう。きっと他の人が良い題材を知っていることだろうし。またもや話を聞かないで自分の世界へと旅立っていたあたしに真田は少しだけ不機嫌そうに「話を聞かんか」とだけ呟いた。なんだか愛しさのあまりその頬を無性につねってやりたくなったことは内緒だ。
そして間もなくいつもより長い先生の話が終わり、あたしたちはやっと解放された。その時気づいたのだけれど、真田に小突かれた時の拍子で、赤いマーカーを人差し指に擦ってしまい血がついたみたいに真っ赤になっていたのでぎょっとした。これ油性インクだから洗っても取れないかもな……。学園祭の出し物のために部室に呼び出されたため海林館に向かっていると、道中で他クラスの子達に捕まってしまった。あたしには仲が決定的に悪い人がいるわけではないんだけど、噂と恋バナ好きの子たちの話がよく分からないため彼女たちには少し苦手意識を持っていたのだった。
「、真田くんと付き合ってるってホント?」
あたしは目を剥いてしまった。なんで、そんな噂がもう……?!っていうか、誰なの、そんなこと吹聴したのは?!って一瞬頭が真っ白になったけど、あたしにはすぐに思い当たる人物がいた。あたしが気まずそうに「えっと……」と圧倒されて風でいると、彼女らがそんなあたしをじれったく思ったのか続けてしゃべりだした。
「C組の子から聞いたんだよー。幸村がそう言ってるって」
「あ、ああ~……。えーっと……うん、本当だよ」
「え、マジなの?」
「……う、うん」
すると彼女たちはお互いの顔を見合せて、本当だったんだ、と好奇心旺盛にニヤニヤしだした。だからなんなの?とあたしは聞き返すと女子はクスクスとまた笑い声をあげる。あたしは訝しげに眉をひそめた。
「ううん、別に。でもあの真田に彼女にできるなんて想像できなかったわ~」
「そ、そうかな?」
「めっちゃ意外じゃん。そもそも真田って恋愛とかに興味ないかと思ってたわぁ」
「それは真田にもにも失礼じゃん?」
「でもなら真田のカノジョって納得じゃん?真田となんか仲良さげだったしさ~」
「え~!アタシはと幸村くんが付き合ってるのかと思ってた~!」
と好き勝手におべんちゃらを続けていた。あたしはそれらにどう反応すればいいか分からず、多分珍しくむっつり黙り込んでしまっていた。彼女たちの噂好きは知れたものだから、すぐさま全校に広まることだろう。
「、顔超真っ赤だよ」
「ちが、こ、これは」
「照れてる照れてる~」
「あ、あたし用事あるから!」
と口早に言って足元に置いていた鞄をひっつかんで、早々とその場を去ろうとした。けれどやっぱりそのまま去るのはあまり感じ良くないので、熱る頬をなでつけながら「バイバイ」と言えば彼女たちも陽気に手を振ってくれた。あーあ、この後あたしはみんなの話題のネタにされるんだろうな……。真田は色んな意味で有名だし、遅かれ早かれ知られることだとは思っていたことだけど……。そんな憂鬱さを抱えながらあたしは教室から逃げるように部室へと向かう。この話が全校に知れ渡ったときは何人のテニス部ファンが話しかけてくることだろうか。あたしは無意識にドアをノックすることも忘れ、部室へと素早く入った。
「、遅かったじゃないか。真田たちと来ると思っていたよ」
あたしは何の悪気もなさそうな声の主を恨めしそうに睨んだ。せっちゃんは悠々と花の扱いについての本を読んでいたようだ。現役の赤也たちの姿はすでになく、その場には先にクラスからここへ来た柳と真田と柳生しかいなかった。
「せっちゃん、C組の女子に話した?」
「話したって、何を?」
「その……」
あたしは真田の顔をチラ、と窺ったけど、彼は普段通り何もなかったように堂々と腕を組んで座っている。せっちゃんは相変わらずにこにこと笑みを絶やさないけど、すっとぼけているだけに違いない。「その、なんだい?」と確信めいた質問をあたしに投げかけているあたり、絶対そうだ。柳と柳生はあたしが何の話をしているのか分かっているらしいが、真田だけは表情からしてきっと分かってない。だってそういう人だもの。
「わかるでしょ!」
「流石に、俺達の仲でもわからないな。、はっきり言ってくれないか?」
「精市、いい加減にしてやったらどうだ」
「柳、甘やかしてはいけないよ。がこれくらい口にできなくって、この先どうするんだ」
ぴしゃりと言われた柳はノートを手にしたまま口を噤んだ。柳生はそんな状況を見て飛び火が来ると恐れてるのか、口を出そうともしない。真田は空気を読むのが恐ろしく下手なので未だに疑問符を頭に浮かべているような口調でせっちゃんに訊ねた。
「一体、何の話だ?」
「いいかい、真田、これは君たちの問題なんだ」
「でもこれはせっちゃんが勝手にしたことじゃん!」
「でも、そんなことでどうするんだい?隠れてコソコソ付き合うっていうのかい?」
「隠れてコソコソ……?」
「そんなつもり毛頭ないけど、あたしと真田が付き合ってるって、登校初日から噂広めまくんなくったっていいじゃない!」
「噂だと…?」
真田はやっと何の話題か気づいたらしく、紅潮ぎみの顔で憤慨したようにせっちゃんに振り向いた。しかしゴシップを広めたとはいえ、あたし達はせっちゃんに文句を言えるわけもなく、真田は真っ赤になったまま黙っているだけであった。
「別にいいだろ?本当のことなんだから」
「よくないし!真田が有名人ってことはせっちゃんも知ってるでしょ?!」
「だから?」
「噂が広まったらあたしまで有名になっちゃうでしょ!」
「は自覚してないかもしれないけど、君も結構有名なんだよ?我がテニス部のマネージャーなんだからね。……声も大きいし」
せっちゃんはあたしの抗議に全く気にもとめない、というよな笑顔でさらりとかわした。柳も小さく頷いている。そーいうことが問題なんじゃないってーの!
「いいじゃないか、これで茶々をいれようだなんて思う輩はいなくなるんだろうから」
「あのねぇ……」
「それに今回の学園祭のテニス部の催しの宣伝にもなるしね」
ぼそりとせっちゃんは恐ろしいことを呟いた。あたしは恐ろしすぎて聞き返せず、そのままだんまりしている真田を横目でジトッと見ると「着替えるから出て行って!」と喚いた。みんなは機嫌の悪いあたしに逆らうことなくさっさと部室を出て行ってしまった。それにしても一体全体せっちゃんは何を考えているのだろう。……ろくなことじゃない気しかしない。あたしは途方に暮れ深く溜息をつきながら、のろのろとネクタイに手をかけた。
幸村にも全く、困ったものだ。当人の断りもなく噂を広めてしまうなど……。確かにに懸想する輩や横恋慕の可能性がなくなる、ということでは良い点なのかもしれないが。しかし幸村のことだ、何か考えがあるのだ。俺はそう自分を納得させ、後輩の指導へと打ち込んだ。は先ほどのことがあってか、いささか不機嫌そうに見えた。いつもは軽くあしらってるはずのギャラリーを、なぜかタオルを握ったままじっと見つめている。仁王と丸井とジャッカルは今日はもう来ないだろう。仕方ない、内部進学をかけた試験がそろそろあるのだからな。良い成績を収め内申点が安定してる俺達も、冬が近づけばこのようにして部活に来ることも少なくなるのだろう……。俺はそんな寂寥感に柄もなく浸っていると「休憩終わりー!」と赤也の元気良い声がコートに響いた。あいつも人の上に立つことによって少しは落ち着きを見せてくれるといいのだが。
「真田、今日は早めに引き揚げよう。玉川と赤也たちがコートを全面的に使いたいそうだ」
「む、そうか。それでは戻ろう」
「ああ。しかし赤也もいっぱしの口をきくようになったもんだ、俺達を追いだそうだなんてね」
しかしそういう幸村の声には全く怒りを感じられず、むしろそれを楽しんでいるような響きさえあった。きっと赤也が成長しようとする様子が見られて喜んでいるのだろう。
「も早めに帰るってさ。送ってあげれば?」
幸村はそう言い残し俺が質問する隙さえも与えず、さっさとラケットを取りにコートの向かい側にいってしまった。送ってあげる?を?しかし、あいつはいつも幸村と帰っているはずだ。確かに、俺の家との最寄の駅はひと駅しか変わらん。家同士も歩いて15分ほどで着くくらいだ。しかし、幸村との家の方が近い。幸村は一緒に帰らないのか?俺は幸村に言われたことを真に受けてしまい、ぐるぐると張り巡らせられる思考に参ってしまっていた。ここ数日、とはうまくやっている。あれ以降特別なことは何もないが、それでもは交際以前の態度とは変わらず俺とは親しい、と思う。このまま穏やかな時間を育み、過ごすことが出来ればよい。しかしそれとは裏腹に、あの時抱きしめたぬくもりが忘れることが出来ない。けしからんことだとは分かっている。しかし、自分の意はそれに反して、あの肩に再び手を伸ばしたくなってしまうのだ。清い男女交際をするに当たって、その思いはけしらからんと何度も打ち消しているのだが。
「弦一郎、そんなに眉を寄せたらくっついてしまうぞ」
蓮二の言葉にはっと気付かせられると、すでに幸村と蓮二は着替え終えており、俺はいまだにジャージに片腕を突っ込んだ状態のままであった。しかしそんな俺の考えを見透かしてか、蓮二は不敵に笑んで見せ、まるで俺が迷える子羊のようなの口ぶりで俺に助言した。
「恋人と関係を改めたのなら難しく考える必要はない。過剰なスキンシップは感心できないが、コミュニケーションの一貫としてスキンシップは大事な手立てだ。お前はそれを理解しなければならない」
「俺は何も、のことで悩んでいるのではない!」
俺は蓮二に自分の悩みの打開策をいと簡単にも告げられ、己でもわけのわからない悔しさが込み上げ力強く否定してしまった。しかしそれも蓮二には無駄な抵抗だった。
「そうか?お前がそのように呆けている原因はひとつ、とのことだけだ。違うか?」
「…………」
その通りだ。しかし俺はしかと覚えている、幸村が言っていたことを。蓮二はが好きなのだ。それでいてあえてこのようなことを俺に言ってくるのだろう。しかし俺は蓮二に何も言わずにいた。蓮二が既にその想いを諦めたのなら、俺が口出すことはない。そして蓮二を惨めに感じさせることもない。俺はそれを今まで軽視し深く考えずにいたが、思ったよりも複雑な感情なのだと薄々気づいていた。しかし何も起きないならば、今もそしてこれからも何も言わないつもりだ。そして蓮二もそれを望むだろう。だがしかし、俺は挑発とも取れたその言葉に思ったよりも苛立つ自分を感じていた。
「幸村、今日はと帰らないのか?」
「だから言っただろ、お前が送ってやれって。それに俺は用事があるんだ」
「そうか……」
その時ごんごん、と明らかに苛立ちのこもったノック音が扉の方から聞こえてきた。が外で「ま~だ~?」と文句を垂れているのを聞きつけて、俺はすぐさま着替えを済ませた。その時の幸村といえば少し寂しそうに微笑んでおり、その意味を俺は知ることなくと共に家路に着くことになった。
俺は最寄駅のひとつ前で降りた。無論、を送るためだ。引退前よりも早くに帰宅しているとはいえ、日が落ちかけている。夕焼けのほのかな光を帯びて、の白い肌が赤みがかった。電車にいる間は普段通り話していたのだが、何か考え事をし始めたのかが話すのを止めてしまった。
「どうした、?」
「なんかこうやって歩けるの嬉しいなーって……」
は可愛らしく照れたようにそう言い、長い髪を耳にかけた。しかしその時ちらりと目に入ったの指が夕日のせいでもなく、真っ赤に染まっていて、俺は思わずの手を掴んでしまった。
「怪我をしたのか?どうして早く言わんのだ!」
「え?」
「早くハンカチを……!」
「え……?あ、これ?ちが、真田、これペン!」
俺は焦っていたせいか、それが本物の血のそれよりも明るい色だと確認できなかった。よく見れば、油性ペンの赤い染みだ。俺はほっと胸を撫で下ろしたがその次の瞬間、今の状況を羞恥心なしで顧みずにはいられなかった。俺はの右手首を掴み、そしても恥ずかしそうに俯いている。俺は一気に体内の温度が上昇していくのを感じるのと同時に、心臓がばくばくと動いているのを意識せざるを得なかった。ここは住宅街だ。人気のない小路とはいえ、誰かが見ているかもしれない!頭ではそう、理解していたが、体が動かなかった。そしても戸惑っているかのように頬を染めている。
「真田……」
はおぼつかない視線で俺を辿る。その仕草があまりにも愛くるしく、そしてとてもいじらしかった。俺は強烈な名残惜しさを感じながらも、の細くしなやかな腕から手を離そうとすると、今度は反対にが俺の手を掴みぎこちなく握った。
「い、嫌だった……?」
「そ、そんなわけなかろう!」
俺が食い気味に返事をしたせいで、は目を丸めて驚いていたが、すぐにはにかんで見せた。俺もとても気恥かしかったため、それから何も言葉を交えず沈黙が続いたが、それがなぜかとても心地よく感じられた。先ほどよりゆっくりとした歩調で歩けば、やがてのマンションが見えてきた。それゆえかは「ここでいいよ」と俺に告げた。
「今日は送ってくれて、ありがと」
「いつもは幸村はここまで送ってくれているのか?」
「う、うん」
「そうか……」
は確かに幸村にかなりかわいがられている。この二人の仲は友人以上の親密さだと言っても過言ではない。だとすると……幸村は俺にを取られたとでも思っているのだろうか。ならばあの淋しげな顔を見せたのは頷けるな……。そんなことを考えている俺の眉が顰められていたのに、は少し不安げに首を傾げながら言った。
「また送ってほしいな……?」
が朗らかに笑った。俺はそれにつられて、優しく微笑んだ。頭をそっと撫でてやるとは驚いたように身をすくめたが、すぐに目を細めて気持ちよさそうにした。の髪はふわふわとしていて、それでいてとても滑らかだ。
「またいつでも送ってやろう」
俺はそう言うと、は更に頬を赤くに染め満面の笑みを見せてくれた。すぐに「また明日ね!」とは逃げるようにマンションへと去っていたが、俺はがマンションのエントランスまで入るのを見届けてから踵を返した。ふわふわとした彼女の手や滑らかな肌の感触を反芻し、思わず頬が弛んだ。関東大会決勝から今まで、には随分と長く心配も迷惑もたくさんかけてしまった。申し訳ない気持ちもあったが……、しかしそれ以上に辛抱強く俺自身を待っていてくれた感謝の気持ちがこみ上げてきた。あの時のあいつの言葉を否定した時とは違って、恋をすることで明日の自分への克己心が養えるということを俺はもう知っている。そう、が言っていたことは何も間違いではなかった。俺はその後、かなりの上機嫌だったらしく夕飯時に母親に「何かいいことでもあったの?」と指摘されるまで、自分の頬がずっと緩んでいたことに気がつかなかった。
(200820 修正済み)
(0904027)