エンドレス・インターミッション

枕元でベルが鼓膜を破りそうな勢いで鳴り響く。アラームのスイッチを眠気眼の薄暗がりの中手探りに押せば、いつもの朝だ。毛先まで重たく感じる上半身をなんとか起こす。そう、いつもの朝のはずだったーー。





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エンジンとともに小刻みに揺れるバス。慣れない硬さのシートに若干、身体が強張ってる気がした。打倒、青学!と声を高らかに士気を上げ、コートを駆け回り、闘志燃やす後輩をなぜかよそ目にぼんやりしているここ数日。されど数日。自分でもなぜここまで呆けてるのか理由は分からなかった。

それよりも慣れない景色が目新しく、ガラスに右手を添える。流れゆく青空と街並み、さざめく緑。形こそそれぞれの色とりどりの車体に目移りしていた。クリーム色の車が可愛いな、あっ、あっちは真っ黄色のオープンカーだ。オープンカーって黄砂とか雨とか降ったら大変そうだよね。と、普段だったらこんな風に一人ではしゃいでいたかもしれない。でも今はただひたすら右車線を追い抜かしていく車たちを見送っていくだけだ。きっと全国大会の疲れが出ているのかもしれない。なんだかやけにだるいもの。外に出たら再び灼熱地獄が待っているのかあ、とカンカン照りの日差しの下で可哀想にも萎びた雑草たちを見て、より深いため息が出た。

ついさっきまで湿った潮風のせいで大汗をかいてたっていうのに、突き刺さるような車内の冷気をもろにくらって思わず腿を擦り合わせてしまう。土埃のついた窓を鏡代わりにして、額に張り付いていた前髪を小指でかき分け整える。反射して映る自分の顔越しに、頼りないカーディガンを肩に手繰り寄せる幼馴染の背中が思い浮かんだ。冷房の風にはまいったな、だなんていつも小さくぼやくせっちゃんにはこの路線にはとてもじゃないけど耐えられないかも。ただエアコンの風に耐えられるあたしによく平気でいられるなぁ、だなんて嫌味っぽく言うから仕方がないなと車掌さんに冷房の風を弱めてもらえますか、と伝えに行くのがワンセット。対してあたしは、きちんと文明の利器である空調にありがたさを感じつつ、肌を撫でるには優しくない冷風に両腕をさする程度に留める。でも、今日ばかりは代謝の良い自分ですら少しキツいなぁ。さすがのあたしでも風邪を引いてしまうかもしれない。

無意識にうーん、と唸ったところでふと思い立ち、座席から腰を浮かせめいいっぱい手を伸ばし、冷気が出てくる通気口を塞ごうとした瞬間。細長い腕があたしのを遮った。いとも簡単に己の目的を遂げられてしまったので不意打ちを食らった気がしたけれど、隣にいるのは人の行動を先読みする参謀だ。こんな小さな配慮をさも当前かというかのように、何かを含んだ笑みを見せて柳はすぐ手元にある本に目を移ろわせる。しかし、あたしの声がそれを呼び戻した。


「ありがと」
「造作もない」
「ここの路線のバス、ちょっと空調効すぎだよね」
「普段乗っている電車の2度は低いな」
「そんなに?」


さすがのデータマンといえど、車内の気温が正確だってどうしてわかるの?と不思議に思ってたら、あたしの疑問をすぐに払拭するようにコロンとした丸い電子機器をポケットから柳は取り出した。


「熱中症対策だ」
「えっ、今ってこんなのあるんだ」
「俺も最近店で見かけて購入したものだ、が知らなくても無理はない」


手のひらサイズに収まるデジタルの数字が出る、ソレ。一気に興味が湧いたので両手を差し出し、見せてと言うと柳は「面白くはないが」と言いつつやれやれと渡してきた。なあんだ、ただの持ち運べる温度計と湿度計なのね、とあたしがつまらなさそうに呟くと「だから面白くないと言っただろう」と今の会話の行く末を知ってたかのように呆れた口調で返される。特段気にすることもなくあたしの興味はデジタルの数字に向かっていて、「え、今ここ16度?!さすがに寒すぎない?!」と思わず声を張り上げてしまった。ここが公共の場だということをすっかり忘れてたあたしは、思わず口を手で覆い他の乗客を見渡すと、目をつむり体を上下に揺らすお年寄りが後部座席にいただけなのを確認して胸を撫で下ろす。


「そういえば室内コートもこれくらい寒い時あるよね。最近はずっと雨で外練続きだったから良かったけど……さすがにせっちゃんをこの中で立たせるわけにはいかないなぁ」
「同感だ。風力はなるべく控えめに、風向はコートに直接当たらないようにせねばな。これまでより細かな調整が必要だろう」
「野球部が使ったあと割とえげつない寒さになってたりするしね~。暑いから仕方ないんだけどさ……。外気温と差がありすぎると実際の試合でのコンディションが変わってくるっていうの、なんで伝わらないんだろうね?」
「野球部の統計では'出来るだけ室内では汗をかきたくない'だの'髪が乱れる'などの意見があるようだ」
「おおかた坊主なのに?!」


なにそれ?と声を上げる。全国大会も終えたことだしなんとなくいいかなと思って、この前買ったばかりのシュシュをつけるくらい髪が長いあたしや少し癖っ毛のせっちゃんなら話は分かるけど。実は野球部とテニス部、練習のために室内練習場を奪い合っててちょっと仲良くない。でもでも、その意見一体どこから?と声を上げようとした矢先、軽く振り上げると腕時計の文字盤が否応無しに目に入った。目的地到着時刻まであと10分、次のバス停で降りる予定だったことを思い出す。小まめにバス停を確認していたものの、気づけば電光掲示板には『青春学園前』と表示されていた。寝こけてバス停を逃すいい加減な後輩のことなんて言ってられない、と思い降車ボタンを急いで押すと蓮二はそれを見越していたのか、ふ、と小さく笑った。何もかもお見通しなのだ、と思うとこんなデータマンの戯れに対して特に言うこともないんだけど、いくらあたしの性格を分かりきってるからといって、そういつもいつも行動パターン通りに動いてたまるもんですか。それもこれも、今から会いに行くのは目の前で涼しい顔をして座る参謀と学びを共にした別のデータマンのところなんだもん。後でどうでもいいことで鼻を明かしてやる、とでもいつもの調子でなら返せるのに柳から目を逸らしてしまうくらいには、なんとなく気が向かなかった。










* * *










今日は教授、もとい蓮二が青学を訪れる日だ。慌ただしくも越前はアメリカへ旅立ち、夏休みも残り僅か。三年生で部活に顔を出しているのは俺だけである。なぜ顔を出しているかというと、部の引き継ぎをしている最中だからだ。興奮冷めやらぬ皆の声援が以前より一層活気づいている。俺は、データブックを海堂たちに引き渡すだけではなく、過去の記録を参照して、練習量の調整などを事細かに後を継ぐ後輩達へ指示していた。話を元に戻そう。一昨日連絡が入り、今日は蓮二が来ることとなっている。俺は校門へ向かい、煉瓦の壁を背にし、95パーセントと極めて高い高確率で来るツレのデータおさらいをする。手元にある電子機器を確認すると、小さなアイコンの秒針が刻々と十二を指すように迫っていた。そうか、あと数秒……1、2、3……。計算通り。校門から濃い緑の制服を着た背の高い幼馴染の姿と、緩い巻き毛のポニーテールを揺らした女子がコートに向かってくるのが見える。
こういう時のデータは嘘をつかない。


「柳、ちょっと待って……こっからどうやって行けばコートだっけ?」
「校門から見て左に向かえばいい」
「そうだけど、あたし地図苦手なんだよ?!」
「だからさっきから俺に着いてくればいいと言っているだろう」
「分かってるけど、他校なんだからくれぐれも置いていかないでよね……?!」


他愛もない会話が校門の向こう側から聞こえてくる。蓮二の声は極めて低く聞き取りづらいが、立海のマネージャーの声はかなり通るので10メートル離れた場所でも耳に入る。しかし、地図が苦手という前情報まではなかったな。彼女のデータを記載している項目に追記としてペンで手早く書き込んだ。蓮二は背後にいるさんが後から着いてきているか何度も後ろを向いて確認している。まるで保護者のようだ。遠目から見ていれば堂々とした風格を持つ女子マネージャーという印象があったが……。ハンディカムを回しながら撮影をしていることにかなり気を取られているのもあり、好奇心旺盛な様が見て取れる。


「貞治、待たさせたか」
「いや、三時ちょうどに来る確率、100パーセントだ」
「と、お前が言う確率もまた、100パーセント……だ」


俺達の会話の応酬に立海のマネージャーは、はた、と立ち止まりレンズごと俺を見上げる。すると、彼女は素早く右手に携えられた撮影機器を降ろし、愛嬌の良い笑顔をこちらへ向けて挨拶をした。


「初めまして、です。乾くん、改めまして全国大会優勝おめでとうございます」
「初めまして、そしてありがとう。乾でいいよ。キミの噂はかねがね蓮二から聞いているよ。俺のことも知っていると思うけど」
「あ、うん。柳から話は聞いてたし……」
「そうだろうね」


その先につかえた言葉は間違いなく「対戦相手のことだから」だろう。遠慮しているのか、口を噤んでしまった。礼節は弁えているのを感じるのと裏腹に、大きな目を瞬かせて、俺の背後の向こう側を気にしている様があからまさだ。ついさっきまで目を通していた彼女のプロフィール内容……。そうか。この様子だと、目当てはウチの生意気な越前か。


「もし越前のことが気になってるのならだけど、ヤツは先日アメリカに行ったばかりだよ。あいにく、レギュラーは俺以外出払っていてね」
「そうなんだ~!残念」
「……あまり残念そうには見えないけど」


そう、感じよくにこやかに小首を傾げる彼女は全く残念そうには見えなかった。そしてそれを隠そうともしていない。おおよその行動パターンはつかめた。しかし、他校の選手達同様にまで行動や考え方を推測できるわけではなかった。なぜなら、俺と彼女は会場などですれ違うことはあっても、目が合えば互いに軽く頭を下げるといっただけの関係性であったし、そもそも彼女は選手ではないからだ。公の場ではビッグスリーと一緒にいるのも相まって気位が高そうに見えるが、この気さくさが素の彼女なのだなと思う。それでも、何度か大会や練習試合などで見かけていた時と雰囲気が違う。全国大会の悔しさが尾を引いている確率……、紛れもなく100パーセント。というのも、たまたま大会の後に偶然女子トイレから出る彼女が胸を手で抑え一息つくところを見ていたからだ。それに、幸村の幼馴染であるというさんが越前を気にするのは無理もない。だがしかし、そうだとしても何か妙だ。きっとそれ以上の何かがある。彼女があえて言いたいことを伏せている、その線は85パーセント。しかもそれはテニスの話題ではない……となれば、俺から話を振っても問題ないかな。


「ウチの越前みたいに、君も帰国子女なんだってね」
「うん、まあ。じゃああたしたちはここで……」


帰国子女というキーワードを出した瞬間バツが悪そうに眉根をひそめ、そそくさと去ろうとする彼女に蓮二が待て、と引き止める。あまりにもちぐはぐなコミュニケーションに対応が追いつかなかったが、さんにどう対処するかなどとうに読み切れているものだろう教授にアイコンタクトを送るとすかさず微笑みが返ってきた。


「……青学は初めてじゃないよね?」
「前にも来たことあるよ!今日は……乾だけ、だっけ?」
「貞治が先ほどそう言っていただろう」
「そ、そうだよね!そう言ってたよね!」


上の空だったのだろうか。軽く手を叩いてあはは、と焦ったように空笑いをするところを見ていると1分前の会話が彼女の頭から抜け落ちていたらしい。前情報では、手際よく仕事をこなし、効率を重んじ、円滑に人間関係を築けるとあったが……。100パーセント何かしらの出来事があったのだろう。わずかながら目尻を下げる蓮二に、彼女への秘めやかな想いを感じ取った。そうか、俺が泳がせているのは色恋事が絡んでいるのか。


「俺がここで待っていたことを蓮二から聞いてなかったみたいだね?今日は俺が案内するよ。こっちだ」


特に何も言わず案内を申し出た俺に戸惑いの色を隠せないさんは、なだらかに口角を上げているのを左手で隠す教授の図りごとにようやく気づいたようだった。


「ちょっと待って、柳。どういうこと?」
「今日ここに来たのはデータの引き渡しだ。貞治、この前四天宝寺から遠山が乗り込んできた。幸村との練習試合が100戦は続いたのでな、その時の対戦データを取っておいたのと」


四天宝寺の遠山がやりそうなことだ、とその光景がありありと思い浮かぶ。言及する間もなく蓮二がノートを差し出した。共に小さなポチ袋を添えられている。ああ、と頷けばさんはそれを不思議そうに見つめている。


「20円だ。返す約束だっただろう」
「やっとだな。4年と6ヶ月と11日かかったな」
「やっぱり数えるんだ……、じゃなくて!今日は偵察に来たんじゃないの?いくらあたしでもこんな状況でもカメラ回せないよ!」
「俺はお前に青学に行くが、どうだ?と言ったまでだが」
「用事の内容言わないの不親切すぎない?!」


抗議の文句にそれは不親切だ、と同意しかけたがその言葉は飲み込んだ。なぜならそこには蓮二なりの理由があるはずだからだ。彼女は今回の訪問が偵察ではないということが分かると、律儀に「大変失礼しました」と謝りながらビデオをカバーに入れて丁寧にカバンにしまいこんだ。そしてこういう扱いを受けることには慣れているらしい。彼女がどういった理由でウチまで来ているのだろうか、とのことだが……事前に何も伝わっていないとなると、俺とさんを引き合わせること自体に意味があるらしい。いかにも蓮二らしいやり方だ、と納得した俺はそのまま話を続けることにした。


さんは越前が気になるみたいだね」
「え?ああ、うん。まあね。あの、ほら。あのせっちゃんに勝った子だしね」
「君はそれ以外のことで気になってるみたいだけど」


そう指摘すれば、彼女は腕を組み鋭い目線を蓮二に向け「やっぱり」と呟いて不満を漏らした。


「あたしが隠したってしょーがないのね、こういうタイプは。越前くんが気になるのはテニスのことだけじゃないよ。確率は何パーセント?」
「「85パーセント」」
「だよね。もう時間の無駄だから先に言うけど、正直言ってシカゴの人間はロスにめちゃくちゃ劣等感あるよ」
「……それは知らなかったな」


データ上でしか。という一言は付け加えなかった。なぜなら彼女はデータマンのこういうところが小憎たらしいと思っているようだからだ。あくまで表面上は礼儀正しく、が彼女の信条のようなので俺に向けられる眼光は蓮二に向けてのものよりは厳しくはないが、英二なら怖気づいてしまうだろうなというくらいには強く、真っ直ぐだ。


「まあ、そんなことはどうでもいいの!ただ越前くんと話したくないなっていうのはそういうこと!あたし個人の事情。それに彼がアメリカに行ったのなんて聞いてないよ、柳!」
「俺も今しがた聞いたばかりだ。アメリカへ渡ることは知っていたが、まさかそれが昨日の話だとは思わなかったぞ」
「越前は気ままだからね、アメリカに行くと言い出すのはそろそろだろうかとは予想はついていたんだが、発つと聞いたのはつい一昨日だよ。まったく、風のようなヤツだ」


そっか、と答え気が緩んだように見えた彼女は、すぐに顔をしかめる。彼女の場合、普段だったら何のために行くのかという目的の確認を怠たらないはずだ。越前が日本を発ったということを立海側が知らなかったように、俺もここ数日彼らのチーム内で何があったのかは知らない。ここいらで探りをいれるタイミングだろうか。


「これで用事終わりってことはもう帰るの?わざわざ20円返すのにあたしを付き合わせたわけ?」
「そういうことなら、練習風景を見ていくといいよ」
「堂々とお邪魔するのもなんだかなんだけど……」
「今更さ。こっちだよ」


蓮二がわざわざ私用に付き合わせているということは、さんに思うところがあるわけだ。しかし噂で聞けば、彼女は立海の副部長に片思いをしているという情報もある。ただし、三角関係という線は0パーセント。おや?とよく見れば彼女の髪型が今まで見かけていた感じと違う。今までは結び目を隠す控えめな髪留めだったが、近くで見ると彼女の栗色の髪に馴染むレース地のシュシュに変わっている。……そうなると、心境に変化があった確率は93パーセントにあがる。置いてかないで、と言われたのを覚えている蓮二はさんの視界に入る角度でゆっくりと歩き出す。口数が少ないので自然と俺と彼女が雑談する形になった。


「今日はやけに暑いね、コートの照り返しもなかなかキツい」
「海寄りのウチより、確かにココのが暑いかも~。髪がまとまらなくてほんと夏っていやだよね」
「髪が長いと大変だね」
「湿気がね~。乾は……それ、くせ毛?」


気さくに話が弾む。なるほど、物怖じせずに誰とでも話せるというのに間違いはない。


「ああ、まあね。ところでそのシュシュ、可愛いね」
「え?あ!ありがとう。気づいてくれた~!柳ですら誰も何も言ってくれないんだよ~。さっすが、データマンだね。ウチのと一味違う~」


いいや、蓮二は気づいている。眉の端がピクリと動いたのが100パーセントである証拠だ。しかし肝心の立海のデータマンは俺と比べられたのが気に入らなかったらしい。通常ならば気づいていたぞ、と言うはずなのだが今日の蓮二は反応に乏しい。あくまで俺と彼女のやり取りに集中し、データ収集に徹底するらしい。一方のもそれに気づいている様子を見せない。ふむ、なぜだろうか。俺にしてはだいぶ確証がない雑報が脳裏をよぎる。これくらい言葉を交わせばようやく彼女も愛想よく人懐っこい笑顔を向けてくれたので、緊張した気持ちも解れたようだ。絶妙なチャンス、と俺は遂につっこんだことを訊いてみることにする。


さん、真田と何かあったの?」
「よくぞ聞いてくれた、貞治。先日……」
「わーっ、なんでもないなんでもない!」


そうか、蓮二はさんのこの反応が見たかったのか。彼女が二の句を継げないほど素早く反応したのがまさに、絶好のチャンスと狙っていたかのように。さんは熱中症と疑ってもいいほど色白の頬を真っ赤に染め上げ、大きなモーションで両手を振る。


「そうか、真田と付き合えたんだね。おめでとう」
「部活と関係ないこと話さなくていいから!柳も乗っからない!」
「あいにく今日は偵察で来たのではないからな」
「えっ、データ収集もしないの?!」
「今しがた終えた。コートまで案内、ご苦労だった。貞治」
「ああ、全国大会を終えて色々と一段落ついたようだね」
「おかげさまでな」


そんなことだけのために?!と彼女が素っ頓狂な声を上げるのを予想した1秒後に全く同じことを言っていて、こちらとしても彼女の正確な反応を確信することが出来た。それはそうと、真田の方がどういう心理状況にあるのかが気になるな。あの真田のことだからテニスの試合ではおくびにも出さないだろうけど、何かしらまた面白い情報を得られるかもしれない。今どき珍しく腕時計を左手首の内側に着けている彼女は時間を確認しながら「もうこんな時間?!」とまごつく。

「柳、今日は偵察じゃないんだよね?!あたし、先に帰るから!乾、今日はありがとね、また何かあったら連絡して。これあたしの連絡先!」
「ああ、じゃあ俺のも。どうぞ」


手早くディスプレイのコードを見せてくれる彼女に、俺もすぐに自分の携帯端末にそのデータを読み込ませると「オッケー。乾、今日はありがとね!じゃああたし、先帰るから!」と蓮二は「外壁沿いに歩いていけば門へ着くぞ」とだけ言い放ち、さんは俺にぺこっと頭を下げてダッシュでまたたく間に去って行ってしまった。










* * *










ムクドリの群れが薄橙色の空に走る電線を器用にくぐりっていく。遅いなぁ、と独りごちた。汗でくっつく後れ毛が少しうっとおしく、うなじを指でかく。毛先がかなり襟にかかってきたから、そろそろ髪を切らなきゃな。そんなことより、と部活後に東門で待ち合わせをしていたのに、約束の時間より大分過ぎている。期間限定のソフトクリームを食べに行こう、って誘ったのはなんだけどな。大納言小豆と抹茶のどっちも食べたいな。あっ、豆乳もあるらしいよ?あたしは苦手だけど!と目を輝かせて部活後のデザートについて、俺の興味を引こうとする彼女は断じて軽く誘い文句を歌ったわけでもない。一刻も早く遅れを取り戻さないと、と部員の指導に励む俺を労おうとあの手この手で気分転換に誘おうとしてくれるの意図はよく分かっている。でもいくらなんでも、今日は遅すぎるな。普段なら、遅れてくることが分かってる場合必ず先手を打って、ごめん!とメッセージを送ってくるだろうに。電子端末のディスプレイを確認しても一報もない。さすがに俺からも「今どこ?」と一言入れておいたけど、読んだ形跡すらなさそうだ。柳と一緒だから大丈夫だとは思うけど、流石に何かあったのかもしれないと心配になってきた。部誌を閉じて電話でもかけようとバッグの中のデバイスに手を伸ばそうとしたところ、俺より遅くまで練習を続けていた真田が所在なげに立ち尽くす俺を見かけたのか、声をかけてきた。


「幸村、まだいたのか。先に帰ったと思ったぞ」
と待ち合わせしてるんだけど、全然連絡がないんだよ。何か聞いてる?」
「いや、蓮二と青学に行ったことは知っているが……」
「俺に連絡しないなら真田に連絡するわけないか」


真田は片眉を吊り上げた。だって、付き合って数日の真田にあのの態度が昨日今日で一変するわけないじゃないか。真田は何かを言い淀んでいるみたいだったけど、特に気にすることなくバッグの紐を肩から下ろそうとすると、「せっちゃーん!」と息を切らし、軽やかで馴染み深い声が遠くから聞こえてくる。真田もそれに気づいたのか、頭を捻り声の方へ視線を向けたが、瞬時に夕陽の色と見紛うがごとく首筋を赤く染めた。


、遅いよ。もうソフトクリーム食べる時間じゃなくなったじゃないか」
「はぁ……ほ、ほんとにごめん。乗り継ぎ間違えて、連絡する暇なくなっちゃった。ていうか、真田も今帰るとこ?」


特に問題はなかったみたいで安堵する。それにほら、は変わらない。上気した肩、じんわりと火照らせた頬、乱れた髪を手で撫で付ける姿はいつも通り。


「……そうだが。ところで約束の時間に遅れてきたようだが、そんな軽い謝罪で済むと思っているのか?!」
「え、そんなこと思って……ないけど?」


……もっとなにか、上手いこと言えただろうに。先日彼氏彼女の仲になった二人の会話とは到底思えない。真田は本音半分、照れ隠しで話しているのが半分ってところだろうけど、は多分それに気づくことなく心外だと言い返す。この前お祭りで見たのは真夏の夜の幻だったのだろうか。彼女より頭ひとつ分高い真田を威勢よくねめつけられるのはきっとと俺くらいだよ。


「お詫びにせっちゃんにソフトクリーム奢ろうと思うくらいには悪いと思ってるもん!」
「だいたいお前は……」


張りの良い痴話喧嘩をよそに部誌を引き続き読んでいた俺も、流石に終着点が見えないなと一言挟んだ。

「それはそうと、その期間限定のソフトクリームとやらは、明日もやってるの?」
「え?う、うん。今月末までだって!」
「じゃあ明日行こうか。真田も行くだろ?」
「お、俺は……」
「行きたいんだろ?じゃあ、明日」

そう返しながら、部誌をいそいそと仕舞う。途端に真田とは互いに目を合わせ、やや斜めに視線を落とし、いくばくかの沈黙を迎えた。本当に、こういうところは似た者だな。指切りげんまん、また明日。今より短い小指をと絡ませた遠い記憶が蘇る。今なら二人が織りなすくだらない言い合いのやかましささえ、無機質さと静けさが同居する病室の波打つカーテンのひだよりも、ずっと、価値のあるものだと。望んでやまなかった明日がまた来ることに、深く、染み入る。


「俺は豆乳ソフトクリームがいいな」

一晩眠れば、舌先で淡く溶ける甘味が待っている。そう思えば、じっとりと蒸し暑い夏の待ちぼうけも悪くはない。じゃあ、明日行こっか!そう朗らかに返すに、唇が柔らかく円弧を描いた。



(250521)