寄せては返す波のように
全国大会前の貴重な休み、弦一郎は家に来ていた。気持ちが高鳴っていく。どんな風に今まで話したかったことを話せばいいか、分からない。そして完全に二人きりの空間が出来上がってしまうことにあたしは緊張の糸がピンと張っていた。弦一郎に伝えたいことがあっても、弦一郎の顔を見た途端に飲み込んでしまう。今は幸せでいたいと、そう願ってしまう。だから打ち明けられなかった、様々のこと。弦一郎が靴を揃えて案内されるがまま自分の部屋に入っていく。お茶を淹れてくるね、と部屋を後にするも足音をあまり立てない方が良いのではないかと息を呑んでしまう。母親のお気に入りのお茶屋さんで買ってきたほうじ茶を淹れる。お盆に湯呑をふたつ。自分、震えてる。お茶が小刻みに揺れていることで緊張の度合いを知る。もう行かなくては、と気持ちをせっついてキッチンから自分の部屋へと赴いた。
「弦一郎、お茶です。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
心なしか弦一郎もソワソワしているように見えた。足を崩してもいいよと、言うと弦一郎はホッとしたようにあぐらをかいた。あたしはベッドの縁に座り、改めて弦一郎がここにいる非日常感を味わっていた。
「今日はやけに静かだな」
「……あたしが?」
「そうに決まっている。何か他に気が散るようなことがあったのか?」
「ううん、そうじゃないけど……」
分からない。こんなに分からないこと未だつてなかった。自分の気持ちが分からない。
「分からない……今は何も分からないの」
「そうか……」
正直に分からないと伝えれば弦一郎が一度また茶を啜り、天井を仰いだ。この狭い部屋の中に詰まったあたしの感情、これになんて名付ければいいのか。
「お前は幸村になら話せることがあるようだが」
「うん……それが不服?」
「いやそうではない。……だが」
お茶の湯気がしなった。弦一郎がお茶を吹いているからだ。熱かったのだろうか、ごめんねと言うと意外な言葉が帰ってきた。
「お前は謝りすぎる。お前が悪いわけではないことでも」
「そっか……ごめん……って、あ」
「そして一人で抱え込みすぎる」
痛い所を突かれた。弦一郎にまでそう指摘されるとは。合間に少し唸って、弦一郎は再びこちらを見た。
「何か俺に言いたいことがあるのではないか?」
「……そう。あたし……」
弦一郎が投げかけた優しい疑問にあたしは崩れ落ちた。涙がとめどなく溢れ、大粒のそれが頬を伝っていく。伝えたかった言葉がこぼれ落ちていく。分からないと思っていたのに、湧き上がる気持ちは常に一つだった。
「言いたいことがあれば言えばいい、言いたくないことがあれば言わんでもいい」
泣きじゃくるあたしに弦一郎は立ち上がりベッドの縁に座り抱きしめた。冷房の効いた室内に腕があたたかい。
「ず、ずっと辛かったの。家のことも部活も。せっちゃんが倒れた日から、あたし取り残されてる。U-17合宿でも取り残されて……ウッ」
「家のことも部活のことも、か……」
「言ってしまったら、マネージャー失格なんじゃないかって思ったの、……中三の合宿で泣き喚いたときみたいに。でも言うのも辛くて……言えなかった」
「辛かったら言わなくともいい。だが、……泣き場所が見つからぬならば俺の前で……せめて俺の前で泣いてくれ」
両腕が背中をぎゅうと締め付ける。涙で濡れた顔は見られたくない。でも弦一郎は優しく腕を離し、あたしの頭を撫でた。心底愛おしそうに、柔らかい眼差しで。そうか、あたしは泣いていてもいいのか。弦一郎の言葉ではた、と気づく。
「あたし、泣いててもいい……の?」
「泣く時だってあるだろう、お前が泣き虫なのは知っている」
「そっか……」
「うむ」
「……辛いときに黙ってても分かってくれる?」
「いつでもお前のことを見ている、これから取りこぼしのないよう辛そうな時できるだけのことはしてあげたい」
今まで泣いてたら怒られていたのに、泣く時だってあるだろうと言われるとなんだかむず痒くなる。辛くても黙ってていいという弦一郎に、あたしは心底ホッとしていた。弦一郎は、変わった。あたしのためなのかは分からない。けれどあたしを何度も悲しませてきた時とは全然違う。あたしを受け容れようとしている。どんなあたしがあったもいいんだって思わせてくれるーー。
「すき……」
「……ああ」
「弦一郎は?」
「好きだ」
ふふっと頭を撫でてもらいながら笑いが溢れる。先程の弾けんばかりの辛さはどこかへ行ってしまった。そうか、あたしは弦一郎に辛さを分かってもらいたかったんだ。鼻を啜りながらも気づく。
「よかった、弦一郎と話せて」
「少しは落ち着いたか?」
「うん、……ありがとう」
のろのろと体を起こすと先程まで泣きじゃくっていたあたしはすごい体勢を取っていることが分かってしまった。弦一郎に半ば押し倒されるようにハグされてたんだ、うわあ~どうしよう!!と頭の中が恥ずかしさでいっぱいになってしまった。でも愛おしいなという気持ちが溢れ出てきて上体を起こし弦一郎にキスをした。そのキスに答えるように弦一郎もあたしの唇を啄む。小さいキスをたくさん繰り返して、ああ、あたしが元気だったらなと俯瞰してしまう。この瞬間ももっと味わえただろうに、そんな悲しみを抱きながら口付けを交互に重ねていく。少し間を置いて息継ぎをすると、弦一郎が咳払いをして、顔を赤くしていた。
「、お前に言いたいことがある」
「うん、何?」
「……交換日記をつけないか」
今の時代に交換日記?!とあたしは驚きもしなかった。何故なら弦一郎だから。こうやって自分のことを知ろうとしてくれるんだもんな。その手段が古き良き交換日記だとしても驚きはしなかった。
「交換日記、しよう。今度ノート買わないとね。可愛いのがいいな」
「そうか、してくれるかーー!」
弦一郎は嬉しそうに拳を握った。甘い雰囲気だったのは散ってしまったけれど、弦一郎にムードなんかを求めたって仕方のないことなのだ。それを分かっているから彼女として付き合えるのだ。自分もムード作りは下手だしな、と先程の甘いキスを思い返して赤面してしまった。
「ふ、不格好だな」
「弦一郎がそんなこと言うからじゃん!」
「少しは元気が出たか?」
「出た……」
弦一郎は未だにあたしを抱いたままだ。こんなことが続いてると変な気分が起きそう、っていうか半ば起こっている。あたしはそれを誤魔化すように弦一郎の頬にキスを落とすと、再び弦一郎が迫ってきた。キスの嵐を受け、押し倒されていく。止めどない口づけに溺れていく。息が上がる。いけない、このままじゃーー!と思った瞬間弦一郎の口づけは止まった。
「いかん。お前は療養中の身だというのに……歯止めがきかなかった。すまない」
「あたしは……」
「お前は……?」
ちょっと早いんじゃないかと思う、というのを口にしてしまえば先延ばしにできるのであろう。でも同時に今初体験を済ませておけば弦一郎との関係も安泰になるんじゃないかという打算もあった。だけど今後のことを考えるとどうもうまい言い回しがなくてもどかしく感じた。出てきた言葉は素直な気持ち半分だった。
「あたしは……いいのに……」
「駄目だ。お前が本調子の時でないといかん。それに俺も……」
「弦一郎も……?」
「理性がきかん。お前を傷つけてしまうかもしれない」
「そんなこと、いいのに……」
かぶりをふって答えると、弦一郎は息荒らげて答えた。
「自分を大事にしろ。俺だって我慢がきかんこともあるのだぞ。それを今お前の体調を理由にして踏ん張っている。分かってくれ……!」
弦一郎本当にちょっと苦しそう。それなのに途中で止めるなんて拷問のようなのかな。頬を紅潮させ少し荒かった息を整えるように弦一郎は深呼吸し、あたしから離れた。あたしを大事にしてくれようとしている、弦一郎。でも本当にこれでいいのかなと思いながらもベッドから降り、数学のテキストを開いて弦一郎に分からない数式を教えてもらったのだった。
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