見えぬ夜明け
の様子が尋常じゃない、と一報が弦一郎の下に入った。もたつく足を急かして階段を駆け上がり屋上庭園まで向かう。
祖父が危篤状態と知った時だった。青空の下呆然と立ちすくむ。心も体も四方八方に弾けてしまいそうに苦しかった。自主練が増え皆が最後の仕上げをしている最中、は屋上庭園で一人、葛藤していた。幸村は弦一郎を呼び寄せたあと、二人きりにした方がいいだろうとその場を後にしていた。知らせを聞いた弦一郎が屋上まで彼女を迎えに来、話を一通り聞いたあとでの苦悩をすぐには飲み込めずにいた。
そんな中は九州の全国大会と祖父の生死を天秤にかけ迷ったあげく大声でわんわん泣き喚き悩んでいる最中、弦一郎が「なぜ悩んでいるのか、お前はお祖父様には会いたくないのか?」と声をかけた。
「それがね……、行くのが辛い場所なの……どうやって言えばいいかわかんないけど」
「そうか、辛い場所なのか……」
辛い場所と伝えると弦一郎は眉を顰ませ、口を結びたじろいだ。に辛い思いをしてほしくない、その一心でこれまでやってきた。は涙声で呂律も怪しいほどに片言で話し始めた。
「……行くのなら数日空ける、マネ業、おろそかになる」
「でもお祖父様もに会いたいのではないか?」
「会いたい、のかな……分からない。お祖父ちゃんの最期と全国大会、比べられないよ……」
「顔を見せるだけで充分なのではないか」
「……ねえ、わたし全国大会をふいにしてまで行かなきゃいけないのかな」
弦一郎は迷っているようだった。が相当な圧力を父方の家から強いられていることを幸村の口から聞いており、知っていたからだ。今までは家のことで弦一郎に相談する場面などなかったし、弦一郎はの家のことでは慎重になり口を出すことはなかった。
「お祖父様の最期に会わなくていいのか。それは……お前の本心なのか?思いつきの言葉ではないのだろうな?」
の言葉を真摯に受け止め本気で尋ねる弦一郎に、はううんと首を振る。実はすごく悩んでいたことだったんだよね、と二の句が継げないほど手に汗をかいていた。照らしつける太陽よりも自分の方が暑いんじゃないかと思うほどだ。脈が熱く波打つ。あたしは宙を見上げると流れていく雲に心を委ねるように一言だけ述べた。
「……ずっと」
「ずっと、か」
「うん、ずっと悩んでた」
「……お前が……傷つくならば行かないで欲しい、というのは俺の切な願いだ」
は目を丸くした。彼氏が家や規範にとらわれず発言するだなんて考えられもしなかったからだ。自分がいた暗かったはずのトンネルに小さな明かりが灯されていく。足元が見えるようになっていくみたいだ。
が家の重圧に耐えられなくなっていることを弦一郎は幸村から聞きかじっていた。幸村もたまにの置かれている境遇を弦一郎にぽつりぽつりと話すようになっていた。なぜならは、自分の口からは絶対伝えることはなかったからだ。お節介だと思いつつ幸村は時折の立場を分かってくれと弦一郎に頼みたいとさえ思った。にはの道がある、昔だったらそう言える他人事さ加減もあったろうに、もうそれもなくなってしまうほどには辛さを味わっていた。がいよいよ具合悪くなって、彼女が家で散々な思いをしていることを弦一郎は知らねばならなかった。
未だに急に明かりが灯ったトンネルに信じられないと目を見開き、を中心とした考えでもいいのか悩みあぐねては冷や汗かきながら返事した。それに弦一郎も慎重に返事をした。
「お祖父ちゃんの最期、会えなくて残念だけど……行かないって選択肢もあるんだね」
「……ああ、お前が望めば」
は弦一郎の言葉をゆっくり噛み締め反芻しながら、小さく頷いた。何だか魂が抜けてしまったかのように首がうまくすわらず、ぐらぐらと揺れている。弦一郎はそれで余計に心配になったのかの手を強く握り返した。はそこでハッとすると目を泳がせて不安げに言葉を口にした。
「じゃあ……行かないことも考えようかな……」
「親御さんが許可を与えてくれれば、の話だが」
「うん……今行くかどうか迷ってることを伝えちゃうから、待っててね」
電子端末機器で器用に文字を打つと、のろのろとベンチから起き上がった。弦一郎を下から眺めると泣きそうな瞳で涙をうるませている。また辛い思いをさせてしまった、と弦一郎はを引き寄せ抱擁した。
「うん、無理には行かなくてもいいって、でもママとパパは数日家を空けるって」
「お前の悩みは……お姉さんに話すわけにもいかないのか」
「……あたしのお姉ちゃんみたでしょ」
これには弦一郎も返答できなかった。我関せずを突き通し挙句の果てには席を勝手に外しどこかへ行ってしまったの姉を弦一郎は見ていた。は眉間のシワを寄せながらため息をついた。
「そうか……」
「ねえ、弦一郎……家族がいない間うちに来てくれない?」
やはり心許ないのか、は普段持ちかけないような誘い方をした。鳩に豆鉄砲だ。弦一郎もいきなりの誘いで挙動不審に右往左往しており、の手を握っていたはずの手の行き場が分からないほどだった。
「心細いから……一人でいるのが怖いから……弦一郎にいてほしい」
はぎゅっと弦一郎のシャツの裾を握り答えた。それもまた正直な答えだった。弦一郎は唖然として自分が彼女のためなら喜んで何でもしようという気持ちだけ先走った。シャツの裾を握る手を絡め取って握り返した。もうここは二人の空間だというように。
「そんなに驚くこと言ったかな、あたし」
「いや、ご家族がいない間に上がるのは……しかし」
弦一郎は自分を戒めながらも内心浮かれていた。ご家族がいない間にあがるのはけしからん、しかしそうしたい気持ちも隠せない上に一人でいさせるのが心配だというのが彼の率直な気持ちだった。
「しかし?」
「ご家族の許可があるならご招待に預かろう」
「分かった、今ママに聞いちゃうね」
はまたもやパパっと電子端末機器でやり取りをしてしまうと、勉強会ってことでオーケーもらったよとすぐに調子を戻しちゃっかり口実を作る彼女に弦一郎は笑みをこぼさずにはいられなかった。
何から話せばよいか、は考えあぐねていた。二人きりの勉強会のはずなのにその大事な部分はすっ飛んでいて、弦一郎に自分の何について話そうかと悩んでいた。今まで色んなことを話したけれども、自分自身のことってまるっきり伝えたわけじゃないよなぁと考え込む。自分の家がどうのこうの、を言いたいと思ったけれども言ってどうなるわけではもないかもしれない。言えてしまったほうが今まで苦しんでいた自分を救えるのではと思い込んでいる様子だ。お茶菓子に緑茶、勉強道具を揃え弦一郎が来るのを今か今かと待ち望んでいる時にようやく玄関のチャイムが鳴った。待ちわびたと緊張しながらも弦一郎を向かいに行くには笑顔が灯る。以前にの家を訪ねたことがあったためインターホンから家まで案内するのは省けた。すぐにまたチャイムが鳴り、扉を開くとそこには仏頂面で照れた様子の彼氏がいた。
「弦一郎、いらっしゃい」
「ああ、ごめんください」
「家族いないって」
「む……それでも挨拶はせんといかんだろう」
心なしか浮足立ったように見える弦一郎にはどのように切り出せばいいのだろうと再び悩んだ。自分の中でつかえている鉛玉のようなものを吐き出すには勇気がいる。それに弦一郎に重く思われないかが心配、いや、彼自身真正面から受け止める人間なのだけれど。は弦一郎から鞄を預かると、以前のように家の端にある部屋へ通した。スリッパに足を通す彼を見やる。勉強会というのは名ばかりのデート。でもデートなんかじゃない、一世一代の告白大会な気もしていた。何かにせっつかれているのは気のせいか。さあ、今日のあたしは何をどんな風に話そうか。
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