成りは獣
から投げかけられた無垢な問いに肝を冷やした。悟られぬよう深呼吸をし、逡巡する。淡い恋心と言い切れる程、生易しいものではなかった。彼女への好意が漏れれば、いつかあらぬ方向で疑問をぶつけられるだろう、その予感はあった。しかし、それが弦一郎の前でとは。だがしかし、これをただの噂として片付けてしまうには、への想いが肥大しすぎていた。
恋慕でもない、思慕でもない。目を逸らしたくなる劣情を抱いていることすら、言葉にしがたかった。唯一、早期に精市だけがこれらを見抜いており、以前弦一郎に俺がに想いを寄せていると耳打ちをしていた事実もある。それは朴念仁と化していた弦一郎を挑発させ、行動を起こさせるためのものだったのだが。
に対する慕情を否定した時に、喉が乾き、胸が焦げた。手を伸ばして手に入れたい何かが、必ずそこにあったはずだからだ。
しかし、が軽やかに「蓮二があたしのことを好きになるわけ無いじゃん」と確信めいて微笑んで交わした瞬間、事態は終わった。口を結ぶ様を手で覆う俺に、肩を叩いた精市は、最早何も言葉にすることはなかった。人には詳らかに出来ぬこの想いとは他所に、一大スキャンダルだったのに、と部員たちは口々に無遠慮な感想を述べていた。
ーーこれは恋だったのか?
否、千語万語を費やせど、形容することのできぬ高揚感をと同じ時を経る度に抱いていた。それだけは、確信していた。筆舌に尽くし難い、軽くもない鎧兜で身を固めたこの正体とは、果たして一体、何だったのだろうか。靄がかかって、掴めない。決して埋まることのない、記録簿の欠けた箇所を見つめる。底知れぬ秘めた想いに留めて置きたかった。しかし、これ以上どうしようもない。弦一郎からも一睨み見舞われてしまったことだ。決して手にすることのない陽の光に手を伸ばしすぎたのだ。その罰とでもいえば……いい。
複雑な感情を自ら仕立て上げ、このような終焉を迎えることが予期できなかった。だから、これは終焉だ。は背景を何も知らずにいて、呑気に笑っていればいい。そうしていてくれと祈るしかない。……それで、いい。
俺は、が好きだった。
だが、愛も恋も、弦一郎からのみ一身に受ければいい。だから、俺への笑みは曇らせないでくれ。願って止まぬ昇華しようのない欲の深さに、わずかな溜息がこぼれる。ノートの空欄は、埋まらないままだった。
下腹部のあたりをさする。気だるく、喉の奥がひりつく。唾で痛み押し込んだ。胸が詰まる。弦一郎の汗ばんだ手があたしのを包んでいた。足がもつれ、うまく動かなかった。引かれるまま保健室に連れて行かれる。お腹に意識が向きすぎて弦一郎の顔がよく見えない。扉を開けた瞬間、ひんやりとした風が漏れた。保健室の先生は、見当たらない。よたよたした足取りでベッドへとすがりつこうとした矢先に、弦一郎がカーテンを急いで開けてくれた。脂汗で張り付いたジャージのまま、構うことなく寝転がる。痛い、あまりにも痛すぎる。うめき声をあげまいと抑えると、「痛いか?」と苦しそうな声と共に大きな手がぐるりとあたしのを撫でた。
弦一郎、優しくなった。
でも果たして、ここまで来ないとこうならなかったのかなと嫌な気持ちが過る。……罪悪感で潰れそうになりそう。頷いた拍子に咽た。こんなこと、言いたくないから。
「んー……」
「痛い、のか」
どうやら肯定と捉えられたみたい。おかしいな、薬はさっき飲んだのな。弦一郎はベッドの端に遠慮がちに座っている。見下ろしてくる眼差しに耐えられなくなって目を背けた。……体の違和感が拭えないのに、視線を感じる。風で汗が引き、シーツが温く感じる。同時に、弦一郎がお腹をさすっていた手を引っ込めた。体温が名残惜しいと思ってしまうけれど、そんな贅沢は言えない。大体あたしはこんなことをしてる場合じゃない。でも、節に込められた力が甘くて、欲しくて。
「練習……行って」
「……お前はそうしてほしいのか」
「マネージャーなんだから、当たり前でしょ」
目を合わせることなんて出来なかった。こうやっていつものお決まりの文句を浮かべることしかできない。こんな風にしか言えない自分が嫌だ。でも仕方ないじゃん、これがあたしなんだから。頼りになる大きな手のひらの持ち主は、ひたすら沈黙を守っている。言いたいことを言わせなくしているのは、紛れもなく、あたし……だよね。でも、言えない。外から聞こえてくるハツラツとしたみんなの声。あたしを苛む、元気な声。今は遠くグラウンドに響く遠い世界の話。この部屋では、古いクーラーが震える音だけがやけにこだましていた。微かに肩で息をするあたしに、弦一郎の短い吐息が重なった。
痛みはマシになってきたみたいだし。頑なに弦一郎の顔を見ようとしなくても、あたしには分かっていた。きっと、少し寂しく口を結んでいるだろう我が彼氏を。
「……購買でゼリーを買ってくる」
体温が離れ、ぐるりと大きな背が顕になる。あたしに有無を言わさない背中だ。どうすれば、いいんだろう。ねえ、どうしたらいいの?こんなに苦しい思いをさせるくらいなら,いなくなった方がマシだよ。カーテンのひだが揺れ、静けさに歯がゆさと虚が浮き立つ。あたた、今度は何。締め付けられる感覚を額に覚える。お次は頭痛、か。さっきの言葉をせっちゃんに聞かれてはならないように、戒めなのかな。猪八戒みたいな?……そんなこと言ったら、せっちゃんに怒られるね。思い通りにならない、役立たずの身体と心を乗り越えた幼馴染を思う。誤魔化しにもならないけど、拳でコツコツ頭を叩く。
今日も今日とて病人、なのだ。
「お邪魔します」
自身の野太い声がやけに、響く。の家に来るのは二度目だ。先ほど、ゼリーを届け、俺は練習に戻ったが、体調に支障をきたしているを放って置けるわけがない。ひとたびコートに立てば、実直にボールと向き合えばいい。跳ねる球体に一心を注げる。しかし、また一度ベンチに座れば……の苦悶に満ちた顔が浮かぶ。どうにかしてやれないのだろうか。思い悩み過ぎていたのか、眉間の皺が濃くなっていることをからかい半分で丸井に指摘される。仲間に再び気遣われているのだと情けなくなってきた。離れていても気持ちが晴れないのならば、いっそ傍で慰めてやりたい。だがしかし……はそれを真に望んでいるのか?己の決断に、疑いを抱かないといいう難しいことが……以前にもあった。あの時と同じだ。もう二の舞いを演じたくはない。
「弦一郎、入らないの?」
さきほどより生気を取り戻したが率直に尋ねた。促されてようやく、バッグすら抱えたまま靴を脱いでいないことを思い出す。他所の家で立ち尽くしてしまうなど、らしくもない。靴を揃え、の香りが漂う灰色の扉を見つめた。荷物を置きに部屋に引っ込んだのだが、豊かな髪の毛先が走るように消えた。再び待ちぼうけを食らう。ご両親共々不在とのことで、心配になり着いてきたのだが……。踵をこのまま返すわけにもいかない。が心配なのは心の底から湧き出る思いだ。だが、しかし……。
「弦一郎?どうしたの?」
「あ、ああ。今行く」
来客用のスリッパ出さなくてもいいかな~と軽い口調で呟くに、木目調の廊下がやけに広く感じられるのを伝えるのは躊躇われた。彼女の部屋まであと数歩しかないというのに。
すっかり調子を取り戻したように見える彼女だが本調子ではないのは、分かっている。どうぞ、屈託のない笑顔で自室へ迎えられた。脈拍が波打つ。再び足を踏み入れるそこにはやはり、抗えない何かがあった。鼻孔を包む柔らかな匂いに、以前見た時とあまり変わらない雑然とした小物たち。そして、うさいぬのぬいぐるみだけが木箱の上に鎮座している。俺の贈り物が未だに彼女の特別であることに、安堵を感じた。しかし、依然としてここが彼女特有の空間だという意識に背筋が伸びる。足を止めてしまった俺に、大丈夫?と首を傾げる。
「まだ大事にしてくれているのだな……」
「だって弦一郎がくれたものでしょ。ほら立ってないで。ええと、ここ座って。今お茶出すから」
「……病人はお前だというのに、俺がうかうか座るわけにもいかん」
「お客様を立たせっぱにするわけにもいかないんだけど」
じろりと睨みつけられる。反論は出来ない。付き添いで来たつもりだが、客であることにも変わりはないのだ。ようやく、そこでバッグを降ろした。前回来た時と同様に、座り心地の良い革の椅子に腰掛けようとしたが、瞬時にの視線が宙を漂った気配に手が出た。俺に気づかれないように、目眩を我慢したのだ。僅かに傾いた肩を思わず強く掴んでしまう。そのまま彼女の意を無視し強制的にベッドへ座らせると、の瞼が揺らいだ。俺のものなのか、のものなのか分からない溶けた熱が手に染み入る。柔らかすぎて、離せない。の愛らしい顔をまじまじと見つめると、明るい瞳の中に、俺だけが映っている。……俺の顔だけが。
視線と視線が絡み、目が逸らせない。息を呑んだはすぐに顔を背けた。長い睫毛が透けて、靡く。
「……無理をするな。茶は良い」
「でも……」
「先程まで寝込んでいたのは誰だ」
「わ、分かったよ」
無意識に彼女の隣に腰掛けていた。は俯いて、え~っと、と間延びした声を出した。何をやっているんだ、俺は。そう強く言い聞かせ、思わず触れてしまった丸みを帯びた感触に手を引こうとした瞬間……。濡れた目が向けられた。意に反して肩から首筋へ掌でなぞってしまう。の肩が震える。深く息を吸い込み、己の状況を鑑みようとした。しかし、冷静になろうとすればするほど……滑らかな肌が、皮膚に馴染んで離せない。唾を飲み込み、咳払いをした。手の甲にかかる細い髪がくすぐったい。
……触れさせてくれ。渇望が喉から出そうになる。スカートから覗くの太腿が焦れったそうに擦れた。スローモーションのように流れる刺激に、駄目だ、と叫ぶ頭の声が……か細くなる。
ブレーキの効かぬ欲望に擡げた。止まる間も無く、指先でそっとうなじを撫でた。
ーー離れなければ!
咄嗟に出た行動は理性の成す声とは真逆だった。小さい頭を左手で包み込む。甘い。気づけばしっとりとした唇に口づけていた。
ーー駄目だ、止めろ!
必死に訴える理性も虚しく終わる。食む唇が、欲を突き動かす。ん、との声が漏れる。鼓膜が、痺れた。は恐る恐る太腿に手を添える。胸が熱くなった。守りたい、苦しませたくない。飲み込まれていく思考に重なる口づけ。ふ、と吐かれた息を逃がさないよう舌を差し込む。控えめに応えるに、呼吸を奪われていった。ぬめつく舌先がまぐわう。蜜のような甘さを掬う。ちゅ、と繰り返される淫靡さに酔いしれていた。
熱情に流される。くすぐるような匂いに、意識が掻き混ぜられていく。の背に腕を回し、手を滑らせた。肩より遥かに柔い膨らみに、指先を沈める。弾力のあるそれに、得たことのない快感が走った。
ーーいかん!
無意識に出た醜い欲動を自覚したと共に、拳を握る。だが、のしなやかな指がそれを引き止めた。まるで導くかのように、俺の腕を擦る。とろついた唾液を離し、間を置く。額も、視線も。何もかもが近い、そして……甘い。艶のある瞳で見つめられ、歯止めが効かなくなる。丸みのある乳房を象るように、無骨な手を添えた。「ん……」と放たれた甘美な声に理性が揺さぶられる。往復するように行き交わせる。熱を帯びたシャツに手が焦げそうだ。だが、……紅潮したの切ない目に、強烈な罪悪感が突き上げた。瞬きと共に、頬に影が落ちる。
ようやく己のしでかしたことに歯を食いしばり、目をかっ開いた。
「!」
「ん?」
「こ、交換日記を始めないか?!」
「え?!」
先程の色っぽい声はいつもの調子に戻っていた。
……なんということをしてしまったのだ、俺は。
欲に身を任せてしまった。渦巻く自責の念に、溜息と共に俯く。の意思を聞かず行為を進めてしまった酷い有様だ。
わなわなと手を震わせ、呆然としていた。いっそこの場で腹をかっさばいてもらっても構わない。両手を固く結び、謝罪の言葉を告げようとして口を開いた瞬間。
「……うん、しよ。交換日記」
愛らしい声で健気な言葉が返ってきた。いつもの、だ。消えない感覚と後ろめたい気持ちで喉を鳴らし、下唇を噛む。……合わす顔が、ない。
「すまない、俺は……」
「ん~」
先程の己の異常行動など、さも気にしていないかのように、は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。そして、再び顔を寄せて、耳に囁いた。
「すきだよ」
反射的に耳を右手で覆ってしまった。心臓が痛いほど高鳴る。痛みにのたうち回っていた昼間とは……打って変わって別人のようだ。確かに交換日記の提案は依然から考えていたが……、一体、どうしたというのだ?いつもなら喜ばしい言葉なのに、この焦燥感は……なんだ。
、お前は……まだ本当の姿をひた隠しにするのか?俺には……心の内を明かせないのか?己への失望と、失態。の知らない顔と複雑に混ざり合う。何も言えず、視線を灰色のカーペットに巡らす。俺との間には、白く太いベースラインが引かれている。ネットの向こうは闇の中。打ち返した球は……返ってこない。
「交換日記、何のノートにしよっかな~」
伸びやかで通りの良い声に、息が浅くなる。俺達の間に、初めて気が遠くなるような隔たりを感じた。
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