ただただ暗闇の中で
はて、と気づいた瞬間には遅かった。からぶつけられた疑問に俺はどうにもこうにも答えられなくなっていた。深呼吸をし、逡巡する。淡い恋心ほど生易しいものではないのだ。からこの質問をぶつけられるのは分かっていた、しかし弦一郎の前でとは俺の予想もまだまだ甘かった。これを噂として片付けてしまうには、あまりにもを想いをぶつけていた。恋慕でもない、思慕でもない、そんな感情をや部員に理解してもらえるのか甚だしく疑問であった。精市だけが唯一俺の複雑な感情を見抜いていたようだったが、そんな精市も以前弦一郎に俺がに想いを寄せていると耳打ちをしていた。それは弦一郎を意図して嫉妬させ、行動を起こさせるためのものだったのだが。
何かが終わった。俺がに対する慕情を否定した時に痛感した。いいや、横恋慕をしていたわけでではない。自分に言い聞かせる。でも、に「蓮二があたしのことを好きになるわけ無いじゃん」と言われた瞬間、はっきりと何かが終わったのだ。精市も感じているのだろう、俺の肩を軽く叩きそれ以上は何も言わなかった。部員たちも一大スキャンダルだったのによーと勝手に口々にしている。
果たして俺はが好きだったのか、いや、今なら分かる。の快活な様をマネージャーとして共にするのが好きだったのか。否、彼女と一緒に仕事をするのに千語万語を費やしても言いようのない高揚を抱いていたのだ。これを恋に身を焼くと言わてしまえば仕方ない。しかし俺はそれを否定し、弦一郎に厳しい視線をもらった。そうだ、それでいい。
俺はが好きだった。
複雑な感情を仕立て上げ、このような終わりを迎えるとは自分でも思いもしなかった。は何も知らない。それでいい。愛も恋も、彼女は弦一郎から一身に受ければいい。ただ、それだけのことなのだ。
また体調が悪い。お腹を抱えて、弦一郎に付き添われて保健室へと来た。冷房のひんやりとした風が当たる。汗でシーツが張り付くのも厭わず、ジャージを脱いでベッドに飛び込んだ。痛い、あまりにも痛すぎる。ピルはまだ一シートを飲み終えたばかりだ。弦一郎は心配そうな視線を落として、お腹の当たりをさすってくれる。本当に弦一郎は優しくなった。あたしが抱えている荷物の半分を背負おうとしてくれている。弦一郎の手のひらの温かみで少し痛みも和らいだ気がしてきていた。
そんな中、何度も保健室に来ているので保健の先生とは顔馴染みになっていた。
「練習が残っているから俺はこの場を離れるが……大丈夫か?一緒に帰るか」
「ううん、全国大会ももうすぐだし……練習行って……」
「たまには我儘を言ったっていいんだぞ」と弦一郎はらしくもなく以前言ってくれたけれど、あたしは全国大会で弦一郎が実力を出しきれないことのほうが辛かった。今度こそ立海の三連覇、あたしが邪魔するわけにはいかない。そんなことはどうしたってあってはならないのだ。
「帰りは迎えに来る。薬は飲んだな?」
「うん……飲んだ」
「後で購買でゼリーを買ってくるからそれで栄養補給をしてくれ。それでは……行くぞ」
ここにいるのが名残惜しいとでもいうように、絡め取っていたあたしの手からするりと指を抜け出すと弦一郎は苦い顔をしてあたしを保健室へ残していった。痛みがだいぶ収まったと思えば、今度は限りない睡魔が襲ってくる。ぐらりと世界が暗転し、倒れ込むように枕に顔を埋めた。何時間が過ぎたか分からない頃、さわさわとした風が鼻をくすぐる中目覚めた。既にとっぷりと日は暮れていて、横のパイプ椅子を確認するとゼリーと荷物が置かれ、弦一郎が再び来た痕跡があった。
彼の優しさの名残だ。
弦一郎に多大な迷惑をかけてしまっているのは分かっていて、後ろめたい気持ちも勿論十分あったがそれでも自分のことを気にかけてくれるのは嬉しかった。飲むタイプのゼリーを口に含み、遠くから練習試合をしているであろうテニス部の声が聞こえてくる。あたしがいなくても部が成り立つのが虚しい。けれどお荷物になっている今、そうも言ってられない。蓮二が苦心して自分の居場所を残してくれていることをありがたいと思わなければと自分に言い聞かせる。底がないほど深い深い溜息をつき、保健の先生の「さん?」と体調を確認する声にはあいと掠れる声で力無く答えた。「彼氏さんが迎えに来たから、着替えたら?」と促されるがまま、また深く溜息をついた。早く練習を切り上げたのだ。そんな中弦一郎をあまり待たせるのも申し訳ないと思いできるだけ早く着替えた。
今日も今日とて病人、なのだ。
燦々と屋上庭園に降り注ぐ太陽。艷やかな緑達を陽光を焼き焦がしている。全国大会も目の前のところ、あたしとせっちゃんは屋上庭園で草花の様子を見がてら休憩を取りに来ていた。部活も一段落もし、今日は午前だけの練習だけだったから。どこかファミレスでご飯なんかする、だなんて呑気な提案をせっちゃんは笑って「いいね」と受け止めていた。あたしは気分が良くなって好きなクラシックの曲を歌いながら、くるくる庭園を回ると少し呆れた声でせっちゃんがあたしに声をかけた。
「ってさ、クラシック好きなのはいいけれど名前も作曲者もよく覚えていないよね」
きっと何も考えていないであろう幼馴染の観察力にあたしは少し憤慨してツンと顔を背けてみせた。
「あら、今日のはちゃんと知ってるわよ。バッハのメヌエット」
「お見事。でもバッハでよく知ってる曲はそれくらいなんじゃないか?」
「第九も知ってるよ」
相変わらず不躾な幼馴染だ、とあたしは口をとんがらせてベンチに座るとジリジリと焼く陽の光耐えきれなくなってしまう。
「なんだか今日いつもより暑くない?屋上庭園は流石に控えればよかったかな」
「が気分転換に来たいって言ったじゃないか。最近はパラソルの下にいることも多いことだし、夏の日差しに耐性がなくなったんだね」
と、言ったところでせっちゃんはふと何かに気づいたようにあ、と言葉を続けた。
「それに最近は真田の影にずっと隠れているからだよ、気づいてた?」
「えっ、弦一郎の影?」
「うん、君といると日向に真田が立ってることが多いよ。少しは気が利く男になったようだね」
「……そうだったんだ」
あたしはそれにしみじみ感じ入る。弦一郎があたしのことを想って最近行動に移してくれてることは明白なことだった。それは自分でも気づかないことでも行われていたのだ。そうか、弦一郎の長い影にあたしはすっぽりと収まっていたのだ。果たして弦一郎はそれを意識してやってのけているのだろうか。
「これくらいで音を上げるようじゃ全国大会は日除け対策バッチリでいかないとね」
「前はこれくらいでもガンガンいけたのー!」
「過去の自分と戦うのはいいことだけど、今のは前と比べないことが大事だよ。出来ないことに負い目を感じる必要はない、それを補うのが俺たちなんだから」
「うー……、でも」
「そういう泣き言は言わない。出来ることと出来ないことの分別はつける」
せっちゃんはこういう時優しくない。物事をきっぱり弁える才能をお持ちのようだ。そりゃそうだよね、自分も辛い目にあってたんだもん。割り切らなければいけないことってあるよね。でもそんなカラッとせっちゃんの男前な分別のつけかたにあたしはどうも気乗りがしなかった。仕事を取り上げられているような気もするし、お荷物になっているような気もする。このもやもやとした思いはどうすればいいのだろう。この真夏の陽射しのようにじめじめしないでいられる自信がなかった。
「そんなに色々と納得がいかないなら、真田ともう少し話してみればいいんじゃないか」
「弦一郎と?」
「俺に向けて話してる事柄を、彼に伝えて新しい突破口を見つけるのも手だと思うけれど。勿論真田が悩み解決の達人とは言わないさ、むしろその真逆かもしれない。でも君達もう付き合ってしばらく経ってるだろう?そろそろ悩み事のひとつやふたつ、零したっていいんじゃないのかな」
せっちゃんはベンチの上で背伸びをし、あくびをしながらそう答えた。こんな汗が滴るほど暑い日によく日差しを浴びて眠くなるものだ。でもせっちゃんの言うことも一理ある。あたしはぼうっとしていると、電子音が二回鳴り自分を呼び応えるのにワンテンポ遅れた。
「うん、ママ、今大丈夫だよ。うん、何……え」
あたしはその場で硬直してしまった。最悪な出来事が起きたのだ。全国大会まであと数日、一番起きてはならないことが、起きてしまった。
「おじいちゃん、危篤状態だって……」
か細い声で、空気に滲むような声色で答えた。せっちゃんはベンチから立ち上がりすぐにあたしの左手をその温かい血脈が通る手で覆った。手は汗ばんでいたけれど、人の温もりが感じられることは有り難かったし、縋りたかった。最後に会ったのは一年前のおじいちゃん。半身不随でもう口も利けなくなっていた。あたしが病院食を食べさせたことも何度かあった。そのおじいちゃんが、クラシックを好きにさせてくれたおじいちゃんにもう会えないかもしれない。
「うん、うん……せっちゃんが傍にいるよ……。うん……細かいことは帰ったら聞くね……」
あたしは絶望的な電話を切ると、涙いっぱい溜めて嗚咽が漏れた。為す術もなくしゃがみこむと、せっちゃんは持ってきていた着替えのジャージで日除けを作ってくれ何も言わずに頭を撫でてくれた。
「全国大会、どうしよう……あたし、全国大会にも出たい」
「それはもう……お祖父さんの方が優先なんじゃないか」
「でももう帰りたくない、あの地に帰りたくないよ」
あたしは半ばパニックになって混乱していた。あの地とは、父方の実家のことだった。せっちゃんには昔話したことがある事柄達だ。ママの余裕がなくなるほどの長男の嫁への当たりが強い土地だ。それに加えて長男の嫁の娘のあたしも駆り出されて働きに働かせる。明確に言うと我々は虐げられていた。序列があって、あたし達は下女のように扱われた。それに冠婚葬祭、狂ったように村の習慣に倣って行われる法事が待ち構えているというのか。一度ひいおばあちゃんのお盆で経験したことがある。大きな会場で村人たちが居眠りしながら順繰りに来て芸能人でも弔っているのかというほどの葬式に参列するのだ。あの時法事の筆舌に尽くしがたい奇妙な儀式に大ショックを受けて二度と法事関連は参加したくないと逃げ出したくなったのだった。あまりの出来事に言葉少なにママと帰路に着いたのを今でも覚えている。あの時感じた文化の違いのショックに、あんな異様な空間二度と味わいたくないと心半ば崩れ落ちそうだった。でも今際の際のおじいちゃんには会いたいという複雑な心境がせめぎあう。せっちゃんは何も言わずともあたしの気持ちを読み取り、一緒にしゃがんで優しく話しかけてくれた。
「ご家族と話して……真田にも話してごらん。普段だったら今すぐにでもお祖父さんの所へ行け!って言うだろうけど……今の真田は違うと思う。を支える為に真田はいるんだ。だから今までのこと、全部話すんだ」
「でもこれ以上迷惑なんてかけられないよ……」
「これ以上迷惑をかけていいように、真田は心の準備をしているんじゃないか」
きっぱりとせっちゃんは言いのける。あたしはじわじわと涙が溢れてきて、もうどうしようにも止まらなかった。大粒の涙でアスファルトにシミを作って、あたしはわんわん声を上げて泣いた。せっちゃん以外誰もいないことをいいことに。せっちゃんが背を優しくさすってくれた。もうどうすればいいか分からない、全国大会か祖父への見舞い、親になんて言われるか決まっている。ファミレスに行くことなく、まだお通夜は始まっていないというのに既にお通夜のように目は赤く膨れ上がりえづいてしまうので、せっちゃんが心配して体をさすってくれた。こんな得も言われぬ心境の渦、誰かがあたしの心を救えはするのだろうか。誰かこの苦しみを分かち合ってくれる人はいるのだろうか。誰か、誰かあたしをこの地に引き止めてくれはしないのだろうか。
誰か、誰かこの果てのないトンネルから助けてはくれはしないのだろうか。
(211106修正済み)
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