知らぬが仏
関東大会もつつがなく無事に終えることができた。
あたしが大会の間したことといったら、また撮影係とスコア表記入。何も出来ない自分が歯がゆい、そして……情けない。情けなさが極まって涙が出てきそうだった。これもホルモンバランスや自律神経の乱れから来る悲しみなのかな。漢方薬は飲んでても効果が出ないということで、母親の了承の下低用量ピル服用を始めた。毎日飲み忘れがないかアワアワするばかりで、全然慣れない。三シート飲み終えれば大分効果が出るらしいので、それに期待するしかないと思った。
最近の弦一郎といえば、随分と手加減してくれるようになりあたしを叱ることも少なくなった。でもあたしも弦一郎の怒号を笑い飛ばす気力はなく、最近は声を張るのも少ししんどい。そして何だか気分が落ち込む。これが抑うつ状態のようなものだとお医者さんは言っていた。鬱病ではないけれど、その一歩手前といったところなのかな。倒れる前に比べて、確かに疲れやすくなったし寝起きが悪い気がする。いや、倒れる前もだったかな。お風呂は入るのがだるいし、入ったら今度は出るのがだるい。誰も見てないところではため息は多いし、気落ちしているけれどそれでもみんなの前では元気に振る舞わないと、と思っていた。けれどそんなのをお見通しかのように「無理をするのが一番皆に迷惑をかけることだ」とせっちゃんにキツめに言われてしまう。違うの、あたしが頑張りたいの。でも頑張れない自分もいる。だから朝練はほぼ不参加、午後練では蓮二の用意してくれた椅子に座りほそぼそとスコアの記入をし、練習試合の動画を撮影し、時間があれば隙を見計らって球拾いをする。だって球拾いしだすと、他の部員が集まりだして俺達がやりますからと言われてしまうので目立たないようにやるしかない。
ハッ、あたし緒環さんのやってた分しか仕事してない?!と気づいたあたしはむしろ焦っているのだけれど、何か仕事はないかと触れ回ってる間に蓮二と遂に本気を出した先輩がとっとと仕事を済ませてしまうのであった。あたしはそれに何だか劣等感に苛まれた。蓮二ってすごい。だって自分のテニスの練習も込みでマネ業の中枢を担ってる。何とか他のことが出来ないかと、今度の全国大会出場校への偵察に申し出たけれど、学校から遠いと言われてしまい他の部員を連れて行くからいいと断られてしまった。
……病人として扱われるのがこんなに寂しいことだなんて知らなかった。あたしはせっちゃんがしたいことはむしろ何でも出来るように舞台を整えてあげてたけど、今回のあたしには色々とさせないでむしろ休めという方針らしい。
「無理をしないというのがに課せられた仕事だからね」
「でも……」
「自分の許容範囲量を超えて無理出来ると思っているとしっぺ返しが来るよ」
「そうだけど……でも」
「、でもでもって毎日くどいよ。入院こそしてないけれど、は今の俺と違って全快で部に復帰したわけじゃないんだ。俺が病院でしてたように、は学校でリハビリだよ」
とこの会話が無限に繰り広げられている始末である。せっちゃんが渋い顔をして言うのも、なんだか申し訳なくなってはいるんだけど、でもでもだってを言える相手がせっちゃんしかいなかった。弦一郎にこういうことを言うと余計に心配されるので、大人しく自分に任せられた仕事だけをこなしている。弦一郎もその姿を見て納得しているだろうから。みんなの助けの元で目の前に見える道をどう進めばいいか、分かっていた。ただ、自分がこれまで通りのことが出来ないというどうにもやるせない気持ちをどうすればいいか分からなかった。
蓮二に何か手伝えることがあるかと尋ねることが多くなったけれど、いつも「大丈夫だ、問題ない」と言葉少ない。どうしてしまったんだろう、蓮二も抑うつ状態?だなんておちゃらけて何度か尋ねてもはぐらかされてしまう。けれど試合や練習を淡々とこなしているので、少なくともあたしよりは元気があるのだろう。関東大会の試合だって、いい成績を残してる。じゃあ、あたしの心配のし過ぎ?そうだ、どんな対象でも過保護にしてしまう癖は良くない。失敗や不安に恐れて、先回りするのがあたしの良い面でもあり悪い面だ。信頼していると態度で見せるには放って置くのも大事なんじゃないだろうか。
でも今回のこと、まだぐちぐち文句を言ってしまう自分がいるのも否めなかった。信頼しているからなのか、放置されていたのはあたしなんじゃないか。頭の中で、じゃあ弦一郎が早く気づいていれば良かったんじゃない?って悪魔が囁く。弱っているところを気づいてもらえて御の字だっていうのに、あたしはないものねだりなのかもしれない。蓮二にも先輩にもここまで来ないと行動に起こすこともなかったと思うと、少し悲しく感じる。あたしが倒れないと、分からなかったのかな。……分からなかったから、こんなことになっているんだろう。そう考えるとひたすら卑屈になってしまい、せっちゃんにでもでもだって攻撃を仕掛け、怒られ、そして自身を喪失していく。何か悪循環が発生しているような気がしないでもない。早くに気づいていてくれよ、という思いは弦一郎にはありったけぶつけたと思うし反省の色が見えるのでもう口に出しはしないけど、他の人達には未だモヤモヤを感じざるを得なかった。そんな中自分を戒める、SOSを出さなかったのは誰かと。
「はSOSを出さなかったんじゃない、出せなかったんだ」
泣きながら夜更けに話す、せっちゃんとの電話。何度も不安に駆られる思いに怯えて、度々せっちゃんに話を聞いてもらった。寝るのも怖くなってしまい、ソワソワする気持ちも抑えきれず一週間に一度はせっちゃんに慰められていた。前のせっちゃんとあたしで立場が見事に逆転している。でもせっちゃんは弱音を一度しか吐かなかった。あたしはもうこの体たらく。根性がない。そう言ってメソメソしてると、「俺達のマネージャーに根性がなかったことなんてないよ」と強く励まされた。せっちゃんは厳しいけれども、事実は事実とちゃんと言ってくれる。あたしは事実でも自分の出来たことを否定してしまうようになっていたから。学校を休む日が増えパパから風当たり強くて家に居づらいな、と思うことが多くなった日々を吐露すればせっちゃんも多くは言わずあたしの話に静かに耳を傾けてくれた。
こんな、そんなグルグルと余計なことばかり考える日々。夏休みに入って、今度こそ全国大会でリベンジするぞ!の心意気は勢いを失ってしまった。学校を度々休むようになっていたせいで、補習を受けることになり、補習を受けてから部活に出ることも少なくなかった。弦一郎はこれを叱り飛ばすこともなかった。むしろあたしが部活まで時間を余らせているところ、教室で黙々と問題集に向かい合うあたしに付き合って早めに登校した弦一郎が夏休みの宿題を広げるのが恒例となっていた。これはこれで何だか不思議な気分。やる気はないのに、何か優しいものに包まれている気がする。あたしに付き合ってる暇があるならテニスしなよ、とつっけんどんに言ってしまったものの「練習は充分行われている、お前も見ているだろう」と忍耐強く一枚上手に返されてしまいそれはそれで嬉しい気分。カンカン照りのお日様とは対照的に憂鬱な日が続くのに、僅かに幸せを感じられて弦一郎にありがとうをひゃっぺん言いたくなる。以前よりも感情の振れ幅が大きくなったな、と感じ入るこの頃である。
そんな中、あたしの中でちょっとした事件が起きた。それは夏休みのとある日のこと。全国大会ももうすぐこそ、といった時である。ベンチで燃え尽き症候群のように呆けているあたしと蓮二はぼんやり空を見上げていた。蓮二はデータブックに何か書き込みながらだけど、あたしのその様子を観察しており、空に何があるのやらといった様子で一緒に真っ白でずっしりした入道雲を眺めていた。
「蓮二ー、……あたしいつまでこんなんなのかなぁ」
「こんなん、とはどういうことを指している」
「こんなポンコツのままってことだよ」
「また自分を卑下しているのか。最近お前はそういう言動が多いぞ。予測するまでもない」
「何か時間が前より遅く過ぎていくんだよねー……、充実感とかもないし」
蓮二はさらさらと何かを書き留めていた手を止め、じっとこちらを見ていた。あたしはお構いなく入道雲の行方を見つめていると蓮二は小さく溜息をついたのが分かった。
「大丈夫だ、またお前なら以前の仕事量も任せることが出来るようになるだろう」
「んー……、そう?」
「そうだ。先輩も今年の全国大会を終えたら引退すると言っている。また前のように仕事が出来る日もそう遠くはないだろう」
「えっ……、先輩今年の冬までいないの?」
「外部に受験をするらしいのでな、冬の引退ではなく夏休みに引退させてくれと先日頼まれた」
「ちょっと待って、あたしこんな状態で以前の仕事量に戻るわけ?」
「お前が望めばそう出来る、ということだ」
あたしは言葉を失ってしまった。先輩が引退するというのもショッキングな話ではあったけれど、またマネージャーをひとりきりで背負うの。こんな状態で?生理前の週から休みが増えちゃうこんな状態で?望むって、あたしがそう望んでいるの?
「いや、お前は無理をする必要はない。お前も分かっていると思うが、既にマネージャーの仕事を部員に割り振っているだろう」
「う、うん……でも」
「心配するな。人手不足なのは以前と同じだ。ただ前と違って仕事の分散はしてあるし、お前の体調不良に対応できるように部の皆も構えている」
「そ、そうだけど……」
「大丈夫だ。お前ならまた以前のように働くことが出来る、俺は信じているぞ」
信じているって、何を?何が大丈夫なの?そんな言葉が口からこぼれ落ちてしまいそうだった。今の目の前にて繰り広げられている光景、目に入ってないの蓮二には。こんな腑抜けた自分をどうやって正当化すればいいというのか。暗中模索の日々だというのに、何を信じているのか。そしてあたしは前のように働かないといけない?一人で、孤独で働いていた日々を繰り返すことになる……?とあたしは蓮二が言ってた言葉からなぞらえて浮かぶ恐怖心や不安に空いた口が塞がらなかった。蓮二には一体何が見えてるのだろう。何がどうショックなのか分からず、あたしに蓮二の気は確かかと喉もとまで言葉が出かかった。
「ちょっと、部室に行ってくる」
頭を殴られたような気分でそう言い放ち退席すると、正体の分からぬモヤモヤとした気持ちが膨れ上がり居た堪れなくなって部室に駆け込んだ。そうだ、この気持ちは'怖い'だ。誰もいないことを良いことに膝を抱え、部屋の隅でうーと唸り転がっているとすぐに部室の扉が開いた。もしかしてあたしが部室へ走って行ったのを誰かが見たのかもしれない。そう思い顔を上げると息を切らしてるのはブン太だった。
「、お前大丈夫か?!」
「うー……、ビミョ~」
「具合悪い時はちゃんと言えよ、すぐに保健室に運んでやるからな」
「すぐ病人扱いしないでよね……」
「ワリぃ、ワリぃ。いや、俺もこっちを頼ってほしくてよ。具合悪くないんなら、何かあったのか?」
ブン太ならいいか。弱音吐いたって後腐れなく励ましてくれるもんね。あたしは先程蓮二に言われたことが未だに信じられず、ぽつぽつ言葉を浮かべ説明しだした。
「なんか蓮二が、あたしは前みたいに働けるって言っててさ」
「おう」
「でも前みたいなのが良かったことなのかなー……なんて思ってさ。ちょっと怖くなっちゃって」
「確かに、今はお前にとって前がよく見えない時期だよな」
「分かるー?こんなポンコツになったあたしに前みたいに働けだなんてねぇ……」
呆けながら、喉の奥が詰まるという芸当を見せてしまった。何が怖いのかも分からないけど、先輩が引退した後は山のように仕事があるだろうと感じてしまった。それを考えると怖くて怖くて仕方がないのに、鈍くなった頭がそれを考えないようにと同時にストッパーをかけているようだった。
「まあ、お前は心配すんな。俺達がどうにかするからよ!前みたいにしろだなんて言わねえよ」
「ほんと?」
「ああ、お前一人に何でも任せちゃってただろぃ。俺も反省してる。ロッカーの掃除は自分で出来る時にやるしよー。ま、柳がそう言ったのはポジティブな意味でもあっから、色々考え過ぎんなよ」
「そう?」
「そうだ。アイツそんなにが好きか~」
「は?」
自信ありげに良いことを言ってくれたと思った兄貴分のブン太が今度はあからさまに失言しました、という顔をしていた。あたしは、今のはどういうことと先ほどまでの重くて気怠い気持ちも吹っ飛び、ブン太を糾弾した。
「いや深い意味はねーんだけど。ほらよ、柳はと仕事してる時なんかよーく見ると嬉しそうな顔してるな~と思ってたんだよ」
ふーん、と納得してみせたものの、ブン太はやれやれと冷や汗をかいてるような印象も受けた。まさか、蓮二が……ねえ!するとどやどやと扉の向こうから音が聞こえてくると思えば、蓮二に続いて弦一郎やせっちゃん達が部室へ入ってきた。そうか、今日はもう着替えの時間だ。本来ならすぐに出ていかなければならないのだけれど未だに怪訝な表情でいる自分はブン太の言葉に気が済まず、蓮二のことを上から下まで舐めるように見渡した。蓮二がなんだ、と少し不可解な目つきで見つめ返した。ブン太が異様に慌てて蓮二の後ろでばつ印を作っているので、あたしはつい気になって切り出してしまった。
「蓮二ってあたしのこと好きなの?」
タライが弦一郎の頭の上に落ちたんじゃないかってくらいこの台詞に弦一郎はショックを受けているようだった。目を見開いて、呆然としている。いや、あたしは蓮二に聞いたんだよ?しかもせっちゃんはなんでかクスクス笑っていて、ブン太は肩を落として呆れ果てていた。他のみんなもあたしを丸い目で見ており、特にツッコミもしない。なになに、これ触れちゃいけない話題だったわけ?じゃあ本当のことなの?
「誰からそんなことを聞いた」
「ああ、ブン太がねー、なんか」
「丸井か……」
で、返事はどうなわけ。あたしは眉根を寄せて懐疑的な顔をすると、蓮二は何を思ったのか天を仰ぎ、そして深く息を吸った後小さく笑みを浮かべた。
「勿論、友人としては好きだぞ。異性間の恋慕についていうのならば、……違うな」
「なーんだ、やっぱりね!蓮二があたしのこと好きなわけないじゃん、ブン太~!」
やけにタメが長かったことはさておき、何をそんな思わせぶりに答えるのかと思いつつ恥ずかしい質問をしてしまったと照れ隠しにあたしは蓮二の背中をバンバンと叩いた。だよね、そんなわけないよね~!と自分の中で納得が行き、先ほど怖い怖いと怯えていたことも忘れてしまっていた。
「とんでもない噂が回っているようだな」
「噂だったの?!でもあたしはブン太からしか何も聞いてないし……」
ブン太は当然、蓮二から睨まれた。蛇に睨まれた蛙かのごとく、ブン太は気まずそうに肩をすくめてジャッカルを見やる。俺は知らねえよ、とジャッカルは言い放ち責任をブン太に押し付けていた。というか、ブン太の思い違いだし。仁王もありもしない噂にどうやら腹抱えて笑っている様子だ。まあ確かに面白い話ではあるけれども……、そんなに笑わなくて良くない?!でもどうしてそんな風に見えたんだろうか。変なこと聞いてしまって心底恥ずかしい。これはせっちゃんに絶対後からいじられるヤツだ……。蓮二があたしとの仕事にやり甲斐を見出してくれているのは前から分かっていたことだけれど……。ハッ、あたしは気づいてしまった。手を口に当て恐る恐る蓮二に尋ねた。
「もし本当だったら今の修羅場って言うの……?」
「そうなるな」
「あっちゃー、……ごめんね弦一郎」
弦一郎はむっつりし、何故か蓮二を鋭い視線で射抜き「お前の謝ることではないわ」と心底つまらなさそうな声で言った。これは機嫌を悪くさせちゃったかもしれない。蓮二も何食わぬ顔で弦一郎を見返しており、二人の意味ありげな目配せにあたしは気まずさと恥ずかしさを背負いながら誤魔化すように笑い「まあ冗談はさておき、あたしは出まーす!」と甲高い声で無理やり場を収めてとっとと退散した。あー、居心地悪かった。
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