憧憬とノスタルジー


俺はここまで心配性だったのだろうか。は病院があった土曜の大会を休み、県大会では二日目のみ参加させビデオ係だけ任せ、負荷をかけすぎない業務を割り振っていた。しかし県大会前に電話で聞き出したもう一つの症状について俺は筆舌に尽くし難い思いを感じていた。県大会で自分の思う通りの試合展開に持っていくのに集中していたことで、見逃すところだったのもう一つの不調に関する話をのクラスへ行く道中で柳生達に話していたことを脳裏に浮かべていた。





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「自律神経失調症も併発ですか……」

それは労るような、それでいて気落ちした部内の空気を代表したかのような沈痛な声色だった。眼鏡のブリッジを押し上げる柳生の表情は明確に言っても良いものではなかった。チームメイト達は県大会初日全ての試合が終わった後、ぐるりと円を作って集まり、深刻な顔をして産婦人科に続き内科へ行ったの事実をいち早く結果を聞いた俺から聞かねばならなかった。ジャッカルや丸井がそれはどういうことだ、と言うと柳生は丁寧に今のに下された診断名について説明してくれた。


「簡単に言いますと、自律神経には二つあります。交感神経と副交感神経ですね。自立神経失調症は特定の疾患名ではありませんが、体の活動時や昼間に活発になる交感神経と安静時や夜に活発になる副交感神経の二つのバランスが崩れた状態を意味しております。自律神経がストレスによって正常に機能しないことによって起こるさまざまな症状の総称です。不規則な生活や過度のストレスが起因している場合、鬱病などの不安症状から出る場合があります。どちらにしてもこのまま行くと特定の精神疾患……鬱病や不安障害や双極性障害などにですね、繋がるケースも少なくはありません。精神的症状としては情緒不安定になったりイライラや鬱症状などが現れることもあります。素人目で見たところ、原因は人間関係……にお有りなのでしょうか」


スラスラと空で読み上げるように柳生は解説した。そしてから伝えられた医師の言葉とほぼ同様のことを言っていた。柳生はチラリとさも意味ありげに俺に振り返る。分かっている。俺がとどめを刺したようなものだと、少なからず言いたい気持ちがあるのだろう。俺はその事実を甘んじて受け入れることにした。柳生の視線に応えるよう目を合わせると、すぐに視線を外されてしまった。


「それか月経困難症が起因となっているかもしれません。ホルモンバランスの狂いは自律神経の乱れにも繋がっております。月経以外の期間で頭痛や目眩が起きるのも自律神経の乱れからと推測されるでしょう。治療では、生活習慣の改善や可能な限り環境の調整を行ったり、起因となる疾患がある場合それに応じた治療を行うなどしたりですね……、婦人科でそこは既に診てもらっているのでいいのかもしれません。環境の調整ですと、さんは無理をするきらいがありますので、本人が出来ないことを断りやすくする環境を作ったりいつ彼女が休んでも支障がないように部の体制整えておいたり……。しかし、いくら父が内科に勤めているとはいえ素人の私から聞くのもなんでしょうから各自インターネットや本でも調べてみてくださいね」


そう柳生が述べると丸井が「俺達もを支えてやらねーとな!」と陰鬱な空気を吹き飛ばすような明るい声で、変わらず前向きな奴だと感心させられた。ジャッカルもそうだな、と相づちを打つ。仁王もあれでいてのことを心配していると思える、何故ならば目も逸らさず無言で話を聞いていたからだ。柳生もすました顔をしているようでここまでのに配慮する言葉を投げかけている。幸村も、それに深く頷いていた。それもそうだ。我々は幸村の臥せっていた期間を共に乗り越えてきた盟友だったのだーー。





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自分がいかに考えに没頭していたかとハッとする。そして昼休み、気づけばのクラスに着いていた。クラスの者が俺を見かければ、頼むまでもなくを呼び出してくれるのが最早恒例となっていた。よくよく考えてみるとここ毎日、気がつけばのクラスへ自ずと足が向いていたのだった。


「大丈夫か?」
「あのさ、弦一郎」


は呼ばれるがまま、こちらへ来た。食事を摂ったから少し眠気のある頭でしゃっきりしていなかった。なぜかは少し渋い顔をして何か言いたげに俺を出迎えた。


「何だ」
「何だって……うーん……、まあいっか」
「いや、言いたいことがあるなら聞こう。そういう時のお前は本音を出し渋っていると分かったのでな」
「じゃあ言うけどさ……、あのー、クラスに来てくれるのは嬉しいんだけど……」
「だけど?」


は頬を染めて手をもじもじと動かすので、大層なことを言うわけではないと俺は侮っていた。


「あの、毎日来てくれるのも嬉しいんだけど、ちょっと……。他の人もいるし、そんなに心配しなくても……」
「そんなに心配しなくても……?心配するのが当たり前だろう」


歯切れが悪いに少々苛立ちを覚えつつ遠慮しながらもどうやって言えばいいんだろう、と呟きながら目をクリクリとさせて考え事をする彼女はいじらしく可愛らしかった。


「えっとねー、毎日はちょっと……来なくてもいいかもしれない」
「なっ……、そ、そうか」
「うん、ちょっとだけ困る。ほーんのちょっぴし、ね。あ、でも嬉しいんだからね?!嬉しいのも本当だからね」


は慌てた様子で取り繕うが、確かにいささかやりすぎたのかもしれない。しかし嬉しいのも本音だというのだから、まるっきり嫌だというわけではないのだろうが。俺はそれを聞き、「分かった、今日はこれで失礼する」と言い踵を返そうとすると腕を掴まれた。


「あ、だから……嫌とかじゃないの。それだけは分かって欲しいなーって……」
「ああ、分かっている。すまなかったな」
「だーから、謝らなくていいってば。そこまで心配かけて申し訳ないと思ってるし、でもこうして来てくれるのは……ほんとに嬉しいよ」


思わず頭にぽんと手を置き、その滑らかな髪を撫でた。は目を見開いてびっくりし、硬直したがしばらくすると目を瞑り何も言わずに甘んじて受け入れていた。他人の目があったか、と以前とは違う感想を抱く。もう、他人の目が気になるということも随分減った。羞恥心よりも大事な物はなのだ、と思うと自然と腕が伸び彼女に触れていたいと思えた。しかしやはりは相当恥ずかしかったようでそろりと俺の腕に手をかけ、やんわりとそれを制止した。けれども嬉しそうに、同時に言葉が見つからないといった風にはにかんでいた。その姿に、いつもなら冗談を飛ばすような彼女の覇気がどこかないのだなと感じ、少し寂しくも思えたのだった。





* * *










俺は自責の念に駆られていた。
の体調が悪かろうとそれを意に介さないような態度を取ってしまったことに、弦一郎に加え俺まで彼女を追い詰めてしまったことに酷く申し訳なさを感じていた。緒環のことで俺の意地で躍起になっていた部分があるというのは救いようのない事実であった。 と以前のように二人三脚で仕事をしていくことに、緒環と先輩が邪魔だと思ってしまっていたのを認めざるを得なかった。

中学の頃、マネージャーの立場でいるのは俺としかいなかった。俺は選手とマネージャーの垣根を越える唯一の存在であり、も又、唯一のマネージャーという存在だった。その中でが自らの思いを差し出し、身を削り、俺達を支えてきたことを良しとしてしまっていた。高校生になった時点で、が更に身を削る思いをしているのだということには目を向けず、緒環のことで更に追い詰めてしまった。春に新しいマネージャーを募集していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。それでもマネージャーを募集したとして膨大な人数から部員に下心もなく、根性も有り部について行ける者を探すのに結果は骨折り損になるに違いはなかった。が倒れてから以後、精市からもどうして改善できるところから改善していかなかったのだという冷ややかな視線を感じていた。俺は理想を追いかけていた……甘美な一時を夢見てたのだ。彼女の持ち前である思い込みの激しさ故出来た泥濘にはまりこみ、本人は預かり知れぬ俺の想いという名の鎖でを縛り付け身動きが取れないほどがんじがらめの状態に陥らせてしまった。中学二年から三年の夏まで、立海大附属は部長が倒れている間でもなんとか回っていた、それはという小さくとも欠けてはならぬ歯車の下にあったと……、彼女の自己犠牲の精神を部に捧げたところで完成した痛ましい努力の結晶であったのだと、どうして俺は素直に認めることが出来なかったのだろうか。

が……何でも包み込んでくれる、温かい存在だったのだと思い知る。
それは母のような、姉のような、パートナーのような。はそれらの要素を兼ね備え、精市という欠員が出た船でも大海原を行く俺達を母船でどこまでも乗せていってくれた。弦一郎が面舵いっぱい切ったところでその場では物ともせずいた。そして再びそうであることを願った。……再び、そうしてくれるのだろうと夢見ていた。

が繊細な心を持ち、自分に厳しく試練を課す性格はとうに分かりきったことではなかったのか。俺達が手放しで身を預けていられる程の強さがあったわけではないと、そんな余裕があったわけではないと……追い詰めていたことに気づいていたはずだった。どうして俺という奴は……彼女にこうも色々と求めてしまうのだろうか。悲願の全国大会制覇をすることは叶わなかったが、中学三年間、あの時過ごした時間が甘美なひと時のようだったと今でも思ってしまう。そして祈ってしまう、再び俺と共に同じ道を歩んでいってくれるのかと。晴れの舞台、目的地に赴くのは……、お前とがいいなどと。今回の事は己が出過ぎた真似をした罰だとも思った。

の知らせを聞いた後、一度直接謝罪をした時のことだ。


「すまない……随分と負担を強いていたようだ」
「なんで蓮二が謝るの?蓮二は一生懸命仕事してくれてるじゃない」


俺のせめてものの罪悪感による謝罪をそうやって許してしまうお前にこの胸の内を晒したくもあるが、足が竦んだような気がしてそこから先の言葉が出てこなかった。違うんだ。俺はお前に己の描く理想を投影していた。それが叶わぬ今にショックを受けている愚か者なのだと。いつだってが傍で微笑んでいてくれると、明るく元気な弾ける声で俺達を応援してくれるのだと、そんな夢を見てしまっていたのだ。


……それもの受けている苦痛など無視して。


どうしてもやるせないこの思い。とうに分かっていた、すり減っていく心のまま苦しく笑う彼女を。すぐ傍で見ていた、辛そうに笑顔を振りまく彼女を。

ーーこれを恋と呼ぶのか。異性としての好意なのか、愛慕なのか、仲間としてなのか、友人としてなのか、最早この気持ちは自分でも分からないものとなっていた。
ーー笑っていて欲しい、傍で、いつまでも。それを望むのは酷なことであろう。どんなに辛い思いをしていたとして、笑っていて欲しかった。でもこうまでして欲しかったわけではない。

それでも困難を乗り越える強さが本人にあると思い込もうとした時もあったかもしれない。明確ではないが彼女は助けを求めていた。助けての一言が遂には言えなかっただけのことだ。しかしそんな中でも俺は新しい人手がこれ以上増えることも良しともせずにもいた。それは彼女自身の望みでもあったのにも関わらず。話し合いに話し合いを重ねて、今は新マネージャーを募集する余裕はないと、結論は二人で出したことでもあった。最初から新人を入れようと言い出しさえしていれば結果は大幅に変わっていたに違いない。
「夏休みが終わるまで頑張れば良いよね」と、真っ直ぐ前を見ながら力強くそう言うの言葉に包まれて果ての見えない闇夜が照らされ、月夜に吹きすさぶ冷たい風も生易しいと思えた。けれど同時におこがましくも、どうか俺の傍でだけ弱音を吐いていてくれと思った。弦一郎という存在が有りながらもそう願うことは止められなかった。傍にいたい、けれど己の手で彼女を幸せにしたいという信念もなく、ただただにその場で微笑んでいてほしいと切望した。何て無責任なのだ、己は。彼女が破顔する度何かが満たされていく、そんな自分勝手な思いで振り回していた。だからといって、皆の前で笑うななどと考えたことはない。皆の前で力強く声援を飛ばしたり、時には冗談などを飛ばし合って汗を流し笑い声を上げたりするの姿を誰よりも近くで見たかっただけだ。俺は無意識に抑え込んでいた思いに気づいてしまった。
好きだ、と一言で片付けられるわけではないこの想い、胸を焦がしたりするような幼気な想いではない。いや、それとも幼い自分が抱く憧憬なのか。手にするにはあまりにも眩しくて、己の考える聖域を守るために一緒に居たいと思いはすれど、ずっといられる覚悟も積極的に行動に移すわけでもなかった。

だからといって、弦一郎の座を羨ましいと常々思っていたわけでもないのは事実だった。俺は俺のまま、のまま、時間が過ぎていくことを渇望していた。俺の好意に気づいて欲しいなどという気持ちも微塵もなかった。ただ、今回俺は俺のしてしまったことがいかにの心を傷つけていたかを思い知ることとなってしまった。


「マネージャーなんだから、早く復帰しないと」


そんな声が聞ければそれだけで嬉しくなってしまう。本分を忘れていなかったのだな、とぬか喜びしてしまう。今労るべきはの身体と心だというのに、また二人にしかない空間が出来るのだと思うと心躍ってしまう自分がいることに気づき失望した。「今は休むことだけを念頭に考えろ」と言えば「えー?」と不満そうな言葉が返ってくる。その承服しかねるといった態度に、俺は凝りもせず心の中でほくそ笑んでしまう。お前が傷つくことは望んでいないのに関わらず、だ。

……いや、傷ついても帰って来て欲しいのだと思う。俺の思い描く部にはの姿が必ずある。そこまで俺はあさはかだったか、またここで愕然とする。自分の駄々をこねる度合いがあまりにも青臭く、成熟した大人とはかけ離れている。どうしてここまで利己的な理想を投影してしまったのか……最早分からない。感情の生れ出づる源を追っても、自身に尋ねてみても、子ども心にそれを欲していたことしか分からない。 ただただ、と共に仕事をするのは後腐れなくそれでいていつでも胸に快く、哀れにもそれに自分はそれにしがみついてしまったからなのだ。

今はそんなことより……の帰る場所が部ならば、それを確立しなければなるまい。俺の苦しい言い訳など聞かせる気は毛頭にない。……こんなことをに告白できるわけがない。きっとこんなことを言われてしまえば、ひとたびは俺の独り善がりの泥沼に沈んでしまうこととなるだろう。助け舟を出すことも出来ない。何も出来ないのではなく、彼女のために行動する権利がないのだとも思った。しかし、己の出来ることは絶えず模索する。

あれからというものの、弦一郎とはうまく関係を築き直せているようだし、俺の出る幕はないに等しい。しかし一部員として、友人として彼女を支えるというのは、自分のためにものためにもなる事だった。必死に出来ることを探し、ついぞ見つけ出したのはパラソルと白い椅子だった。


「蓮二ーっ、この椅子なに?新しい備品?」
「ああ、生徒会の予算が余ったところからうちに回してもらったんだ。中学の時と同じだ。高等部にはまだパラソルと椅子がなかったろう。お前も立ち仕事ばかりしなくて済むように、な」


ここがお前の居場所なんだ、そう言いたくていつでも彼女が居られるようにとパラソルと椅子を用意した。体調が芳しくなくとも、俺達と共に居られる椅子に願いをかけた。自己正当化した理由を吐き出しつつ、それがせめてもの懺悔なのだと分かられたくないとも思った。この醜い思いを未来永劫曝け出すことのないように望んでいた。
、だからいつまでも俺の気持ちに気づかないでくれ。俺の未熟で至らない箇所を見ないでくれーー。望んだ通り、は労いの品として受け取っていた。


「ありがとう~。この椅子、座り心地がいいね。試合の観測もスコア表の書き入れもここで出来るから便利かも。気が利くね。蓮二さっすが!」


ほっと胸を撫で下ろした。きっと気づいていない、何故ならは自分への特別な好意には鈍感な方だ。誰にでも平等に優しくするは自分に向いている'特別な想い'はただの好意と受け取ってしまう悪い癖がある。に淡い思いを抱いていた事のある者ならば、それに挫けてしまったであろう。振り返ってほしいわけではない、だから俺は挫けようがない。……だからこそ、この友情は成り立つのだ。もしそこで俺の思い違いがあったとしても、……そう考えていたいのだ。


「大丈夫?蓮二、何か苦しそうなの」
「自分のことを先に心配しろ、俺は大丈夫だ」


俺が思わず隠し事をする時の癖が出てしまい、左手で口元を覆ったのでは訝しげに大きな瞳で俺を覗き込んでいたが、俺が笑うと安堵したのか彼女も笑いながら「何隠してるの今度は~」と朗らかに言った。そうだ、そうしていてくれ。そして何にも穢れず、いつまでもその微笑みを湛えていてくれ。

それがせめてもの、俺の邪な思いへの手向けとなる。


(211020修正済み)
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