破れた心の繕し方・後
「さんのお連れ様、どうぞ」
看護師の声が急に自分を呼んだことに気付くのに数秒出遅れた。腕を組んで、の帰りを待っていたがこんなにも早く病室へ呼ばれるとは思っていなかった。不意を突かれ、「はい」という言葉が震えていたかもしれない。奥まった待合室に案内されたおかげで、周りの患者から物珍しげな目で見られなかったのが幸いだった。病室へ入ると、俯いて頬を薄紅色にほんのり染めたと優しげに笑う白髪の混じった中年の男性が机の向こう側に座っていた。いかにも、という穏やかな物腰で眉がふさふさしており、眼鏡のレンズの向こう側に見える黄金虫のような黒々とした目が印象的だ。の隣の席に案内され、大人しくそこへ座る。
「失礼致します。よろしくお願い致します」
「こんにちは。さんの彼氏だね。いやいや、こんな風に彼氏が来てくれるってことはとても良いことなんだよ。彼女の身を案じていることが分かって実に素晴らしい。よく来てくれましたね」
「はい。それで、はどういった状態なのでしょうか」
「さんは月経困難症という立派な病気だね、聞いたことありますか?」
小さく頷くと、医者は少し目を見開いて驚いたようだった。しかし嬉しそうにはにかみ、「そうかそうか」と呟いていた。
「彼女はその重症の類でしょう。鎮痛剤を使っても良くならないということは別の手段を使わねばならない」
「重症……」
「そうです。何らかの原因、例えば子宮内膜症などがあって起こる器質性と、原因となる病気がない元々の機能のせいという機能性月経困難症の二つがある。これは内診や血液検査などをしなければ分かりません。彼女にも先程同じ説明をしましたが、ここまではいいかな?」
「はい」
医者は眼鏡をおさえカルテを読み上げながら、満足げに頷いた。深刻さがちっともない医者だ、と冷静に見つめる。俺は少し苛つきながらも、説明されたことを飲み込んでいく。
「こういう時は漢方や低用量女性ホルモン剤を使います。後者を聞いたことはあるかな?」
「……はい」
「所謂低用量ピルというものだ。避妊に使われる物だと世間には思われている節があるけれど、治療にも使われるんだよ。簡単にいえば、妊娠している状態にしておいて黄体ホルモンや男性ホルモンが出るのを一定にさせる効果がある。このホルモン剤を使うと子宮にある内膜が厚くならず、月経の経血量が減って痛みがマシになるという仕組みです。大体三クール分、三ヶ月程度で症状が落ち着くと思ってください。副作用には血栓症というものがあってふくらはぎ辺りに血が固まってしまうというものがありますが、数パーセントの確率で起きるもので基本的に寝たきりなどではなく適度な運動をしていれば大丈夫なものです。保険が効く物もありますが、費用面で月に平均二千円強から三千円程度かかることがもう一つのデメリットではある、いったところかな」
「はい」
「……君に理解してもらいたいのは、彼女の痛みだ。寝込む程といえば、学校生活に支障をきたすだろう。彼女の場合一週間以上体調の悪い時が続いているようだから、今後悪い時は学校をそれくらい休むこともあるかもしれない。今回もそうだったようだね?」
「そうです、急に倒れて……ひきつけを起こしていました」
「それはやはり重症だ。低用量ピルを未成年が利用する場合、保護者が来て内容に同意することを望むんだが……お母さんは今後来てくれそうかな?」
医者は視線をに向けて話を振る。は固唾を飲み込み、心許ない声で答えた。
「……今回のことを報告すれば来てくれると思います」
「ならば良かった。今日は出来る検査をしてまた来てもらいましょう。とりあえず、今は漢方を処方して様子を見るのをお勧めします。低用量ピルは次回お母さんと来た時に処方するかどうか考えていく方針でいきましょう」
「……はい」
「ここで彼氏さんに理解してもらいたいことは低用量ピルが避妊に有効ではあるが、というところだ。避妊に効くからといって安易にセックスをしていいということにはならない。君はそういう配慮が出来そうな人だから私はとても安心しているよ。君と彼女のことだから私はその関係性に口出しはしないが、彼女が避妊に責任を持つということは君も避妊に責任を持たねばならないということです。セックスする関係になったらお互いを傷つけないということが大事になってくる。知っているだろうけれど、コンドームを正しい手順でつけるとか、ハッキリとした合意の下で行為を行うだとかね。コンドームの付け方は彼氏さんが練習しておくといいですよ。YESとNOを言い合えるように意思疎通もちゃんと取れるようにしておいて、お互い望まないセックスはないようにしていきましょう」
俺は明け透けな物言いの医者に思わず固まってしまった。頭が追いつかない。目を見張り、顔を傾けるようにゆっくりと頷くと医者から笑みが零れた。
「少しすっ飛ばしてしまったようだね。要に避妊用のピルを飲むということではなく、治療のためにピルを処方するということと、いくら彼女の方で避妊法が確立していようとも彼女を大事にしてあげてくれ、ということです。月経が来た時はお腹が痛いだろうから積極的に温めてあげるよう考えてあげたり、休ませてあげることを君や周りの人が考えてあげてください。あの有名な立海大附属のテニス部マネージャーというじゃないですか、仕事もさぞかし大変でしょう。そういう時は休めるような環境を作る配慮と、彼女への労りを忘れないように。腹部の痛みの他に、PMSというマイナス思考になったり気分が落ち込んだりする月経前症候群も併発しているようだし、目眩や眠気に吐き気などの症状もあるようだから……油断はしないことです。質問はありますか?」
「いえ、先生の説明でよく分かりました」
「それではさん、隣の診察台へどうぞ。彼氏さんは外で待っていてください。親御さんもそうですがこんなに若くても彼氏さんが付き添ってくれるほど心強いことはありませんよ」
ここまで言われて安堵しないことはなかった。やはり一緒に来て良かったのだ。しかし、同時にがやはり深刻な症状を抱えていることを知り複雑な思いを胸中に収めずにはいられなかった。は唇を固く結び、大きな瞳をかっぴらいたまま緊張した面持ちで隣の診察室へと案内されていった。看護師が「大丈夫よ、怖くないわ」と温かく声をかけていた。俺は失礼しました、と言いながら椅子を引き会釈をすると医者は緩慢な動作でカルテをめくり、微笑みを俺に向けて「彼女のためにも来てくれて、ありがとう」と言った。交際している人物が同伴するのはそんなに稀有なことなのだろうか、必要以上に褒められ彼女のことを思う医者に感謝されてしまった気がする。
何とも言えぬ気持ちを抑え込み、再び会釈をすると「お大事に」と軽くまろやかな声をかけられ肩透かしを食った。そのまま病室を出て先程まで座っていたソファーへと腰掛けた。の症状が思ったよりもずっと深刻なものだということと、医者の淡々とした説明を脳裏に焼き付けながら一息つく。しかしあの医者の態度のせいなのか、気が一気に抜けてしまった。しかしあの人ならば、のことを任せても大丈夫そうだ。彼女の立場に立って物事を見てくれるような物言いだったからだ。俺は今までのの言動を振り返りながら、本当に無理をさせていたのだと噛みしめる。そして己の誕生日を大切にしようと誓ったことは間違いではなかった。自身の欲求からくる暴走のままに右も左も分からない状況でを求めていれば彼女を傷つけていたことだろう。
いつでもは俺達に朗らかな笑みを向け、励ましてくれていた。幸村のことも、泣きべそをかきながらも果敢に仕事に取り組み手を抜きはしなかった。俺達はその支えの元、三年間全国大会でのライバル達と拮抗した試合を繰り広げることが出来たのだと心底痛感する。ここまで頑張ってこられたのは、自分たちの弛まぬ努力もあるががいなければーー。
幸村の心の痛みは、あれほどまでに和らがなかったかもしれない。火の点いた俺の滑車を走らせるように、全力疾走でこれまでを走ることが出来た理由の一つともなっているのだろう。鉄拳制裁の時に彼女が涙を見せてくれたこそ、我に返ることが出来た。人に痛みを与えていたのだと知れた。そしてその痛みを最大限に受け止めていたのはなのだとーー。悲しみだけではない、怒りさえも俺に覚えていたっておかしくない話だ。しかしその胸の内をなかなか明かせないとなるならば……、どうすればよいのだろうか。
手を組んで前のめりに座り込み、ひたすらのためにどうすればいいかと考えあぐねていると診察室が開く音が聞こえた。俺は腹を据えると、検査を終え少し不安げに眉尻を下げてぽつねんと立つの姿に、「ご苦労だった」と声をかけた。そう、声をかけることしか思いつかなかったからだ。
会計を待つ間、弦一郎はむっつりと顔を顰めていたような気がする。そりゃー、あれだけハッキリとエッ……、エッチについて言われたから仕方ないのかもしれない。男の子は今がシタイ盛りだもんね、あたしの周りでもそういう話はよく聞く。それでも弦一郎は色々と考えていてくれるのは分かる。弦一郎の誕生日の日に伝えてくれた、あたしを大切にしたいという言葉は今でも心に残っている。きっと今とその時は違う心境なのかもしれないけれど、大切にしたいと思ってくれていることは今日着いてきてくれたことでひしひしと伝わってきた。
でも同時に怒りが湧き上がってきたのも事実だった。もっと考えてくれたってよかったんじゃない、そんな嫌味が頭の中を渦巻く。嫌な奴だ、あたし。ここまで弦一郎が来てくれて、一緒に診察室にまで入ってくれて、お医者さんの話も聞いてくれた。それだけで充分なんじゃないのか。そう、充分なはずなんだ。解ってくれようと今は頑張ってくれている。それでもこのやるせなさはどこから来るのだろう。月経困難症と診断された時、さほどショックは受けなかった。何故ならばこの不調を症状と診断されない方がおかしいと心の片隅で思っていたからだ。むしろ病名が分かって、対処法が分かったことは少し安心したようにも思える。あとは、ママに言うだけ……。流石のママも病気だと診断されたと分かれば通院に付き添ってくれるだろう。今回はママが頑なになって病院に行く暇がないと嘆いていただけなのは、あたしでも分かっている。分かってはいたけれど……。
頭の中で様々な感情がごっちゃになり、無口になってしまった。弦一郎も押し黙ったままだし、なんだかやはり気まずさは拭えない。強い雨は、しとしととした控えめの霧雨になっていたけれど、それでも弦一郎は傘にあたしを入れてくれた。求めすぎ、だな。うん、そうだ。それにこれ以上何かを弦一郎にしてもらうのも居た堪れない気持ちになる。それも確かだった。あたしは何かを貰うのに慣れていない。気持ちの面でもそうだ。何かをして貰う時、どうしてもそんなにしてもらっても大丈夫なのかなと心配になってしまう癖がある。だから何かを与えるほうがずっと楽だーー。
考えがぐるぐる巡り、帰りの道順なんて全然頭に入ってきていない思考回路の中ようやく弦一郎が口を開いた。
「部室に寄っていいか?」
「え、うん。何か忘れ物でもあった?」
「……ああ」
なんとも歯切れの悪い返事だった。嘘のつけない弦一郎のことだから、何かを話したいのだと察した。今日の話をカフェでするわけにもいかないし、もしかして病気が発覚したから別れたいと思われたならどうしよう。健康体の彼女がいいから、だなんて思われたらどうしよう。凄まじい不安が襲ってきた。先程はあれだけ別れる、別れないの考えを巡らせていたというのにいざそういう話が出るかもしれないと身構えると辛さ故の痺れが全身を駆け巡る。嫌なドキドキが胸中に響き、どうしようもなく悲しみがあたしを支配した。ここまで来てくれてありがとう、弦一郎はもう色々としてくれた。あたしは自分を落ち着けるために浅く息を吐いた。傘を傾けてくれてるのは弦一郎のなけなしの優しさなのかもしれない。
何も喋らないまま学校へと戻り、テニスコートにはまばらに自主練を続ける者しかいなかった。ということは鍵はまだ開いてるということだ。覚束ない足取りで弦一郎と共に部室へ寄ると、誰もいないしんとした部屋に余計何を言えばいいか分からなくなってしまった。そして弦一郎はそのまま内鍵を閉めてしまった。やはり、別れを切り出される。あたしは泣き出しそうになりながら、言葉に詰まり自分から何も言い出せなかった。
「お前に負担をかけないよう報告が遅くしたが……緒環が部を辞めた」
「え……?!」
突然の知らせに、胸の動悸が酷くなり開いた口が塞がらなかった。まさか緒環さんが。こんな部の状態で……?!そこまで考えなしの人物だったとは、と唖然とする。
「しかし心配はいらない。あいつは辞めるべくして辞めたのだ。あんな態度のまま部の運営に携われても困る、と意見は一致している。人手は減ったが、今体制を整えている。お前はそこまで心配しなくて良い」
「そんな……、でもあたし明日から復帰するから!頑張るから……きっとだいじょうぶ、うん。あたしが頑張りさえすれば大丈夫……」
「……お前はそうやって進んで無理をすることをやめた方が良い。心身共に休養を取りつつ、部には少しずつ復帰すれば良い。部員にも手分けして仕事を振るようにしてある。そこまで心配をするな。お前だけの身体だけではないのだ」
お医者さんから言われたからだろうか、弦一郎はあたしを労る言葉をかけてきた。今更そんな、と言いたい気持ちを堪え同時に部はどうなるのとパニック気味になった。
「そんな見過ごすこと出来ないって!県大会の後は関東も全国も控えてるし、今そんな大事な時期に一人だけ休んでるなんて、そんなこと出来ない!」
「後生だ……、もう無理はしないでくれ……。休養出来るよう体制は整えつつある。お前の意思は尊重したいが……お前がこれ以上傷つくのを見ていられない」
「だって誰が……、どうしてそんなこと言うの?……あたしを責めたのは弦一郎じゃない」
あたしが言うはずのなかった言葉がぽろぽろと落ちてしまった。同時に涙もぽろぽろと落ちてきた。滲んだ涙で前が霞む。どうして今まで気づいてくれなかったの。そんな気持ちがこみ上げてくる。今更何なの。今日のように大切にしてくれると思っていたのならば、どうして早く実行してくれなかったの。どうして、どうして。あたしはどんどん零れ落ちる涙が止まらなくなってしまい、しゃがみこんでわあっと泣き出してしまった。弦一郎は言葉を失ったのか、呆然と立ち尽くしていた。こんな風に困らせたかったわけじゃない。でも、自然と顔中が涙で溢れ返ってしまう。泣けなかった。ずっと泣きたくて怒りたかったのにそれが出来なかった。あたしは止めどなく出てくる大粒の涙に静かに鼻水を啜り、行儀悪くもブレザーの裾でそれを拭っていた。ハンカチを出すタイミングを失ってしまった。それくらい、赤裸々な姿で泣き声を上げていた。
「……ぐれ」
「な、なに」
「俺を殴れ!」
一瞬あの時の弦一郎に戻ってしまったかのような恐怖感に襲われた。でもそうじゃなかった。弦一郎はブレザーを脱ぎ、両腕を引き構えてお腹を突き出してきた。突然のことで頭が追いつかない。泣き出したのがピタリと止んだ。弦一郎、何言ってるの。その台詞が思いもがけず口に出た。しかし彼から出た言葉はそのまま繰り返されたのであった。
「俺を殴れ!」
「え、でも……」
「お前の気が済むまで殴れ!」
勢いに乗せられてあたしは恐る恐る拳をお腹に突き立ててみた。全然、弱い力だ。でも小さく弱い力でポカポカと弦一郎のお腹に緩い動作で拳を入れ込むと「もっと強くだ!」と弦一郎は揺るぎない信念の下に指示を出した。あたしはそのまま何も考えず、怒りのままどすどすと強くなっていく殴りに弦一郎の腹筋は強く跳ね返した。全然こんなんじゃ足りない。再び涙を流しながらそう感じた。増々殴る力は強まった。ドカドカ、と今までの怒りや悲しみ、得も知れぬ感情、どうしようもないやるせなさを拳に込めて何も言わず弦一郎のお腹にねじ込む。「ぐっ」と弦一郎が声を出した辺りであたしも我に返り、「ごめん……!」と必死に謝り、すぐにお腹をさすってあげた。
「少しは……気が済んだか?」
「えっと……うん」
気が大分晴れたのは間違いなかった。「謝らんでよい」と言いながら、何事もなかったようにブレザーを着込むと再びあたしは大声を上げ泣いて、弦一郎によっかかった。弦一郎はそれを抱きとめてくれた。しばらくわんわんと泣き叫ぶあたしの背をさすり、「今までよく我慢した」と労る言葉をかけてくれた。
欲しかった言葉だ。弦一郎の覚悟が伝わる。あたしは別れを切り出されるじゃないかと不安で仕方がなかった。
思い込みの激しい自分に嫌気が差してしまう、何も考えずに涙が自然と流れ出るのをそのまま自分でも受け止めた。大嫌いだ、こんな自分。でも弦一郎は大好きだ。ヒックヒックとしゃくりあげるあたしに、大丈夫だと声をかける弦一郎に再び熱い涙の雫が頬を伝った。
「もう……一人で苦しむな。その苦しみ、分かとうぞ」
「うっ……えっ……」
「深呼吸をしろ。すまない、こんなことをさせて……。他に方法が見当たらんかったのだ。お前の拳は、選手を殴るためにあるのではないのは重々承知している……が、その前に俺はお前の彼氏だ。怒りや悲しみでいっぱいになったお前を受け止めてやれずどうする。そんな時はまたこうやってお前の痛みを受け止めよう」
「うう~……もうこんなこと、二度としないもん……」
あたしは言われるがまま深呼吸をして呼吸を整えた。はぁはぁと興奮気味のあたしを弦一郎は温かく硬い身体でめいいっぱい抱きとめてくれる。辛かったことのいくつかが浄化されるような気がした。すると、あたしは何かおかしくなってしまいすぐに笑い声を上げると弦一郎は小さく笑いあたしの髪を撫でた。多分きっともう顔なんかぐちゃぐちゃなのだろう、真っ赤になっているし弦一郎のブレザーも涙と鼻水で汚してしまった。気になって裾でゴシゴシと拭き取ると「お前の涙も鼻水も気にはしない。お前の涙は……綺麗だ」と少しクサいセリフを吐いたので余計おかしくなってしまい、喉からくすぐるような力のない笑い声を上げた。
「弦一郎、……ありがとう。本当は、別れるかもしれないって思ってたの」
「無論、そのようなことは起こり得まい。どうしてそのようなことを疑ったのだ」
「分かんない、こんなあたしダメだと思っちゃって……もう好きでいてくれないと思った」
この際だから、とすらすらと本音が心の底から出てきた。声に乗せるそれは、やはり心細くか弱かった。再び弦一郎はあたしを熱く抱きしめるとあたしはそれが素直に心地よいと思えた。
「ありがとう」
あたしは顔を上げて、涙と鼻水で荒れてしまった顔を恐れず弦一郎へ向けた。これが、今のあたしなのだ。弦一郎は温かく微笑むと、胸の動悸もいつしか収まっていた。暗く長いトンネルにいたような自分にほんの少しだけ、未来への小さな光が見えた気がした。
(211003修正済み)
(130613)