破れた心の繕し方・前
登校し始めて三日目の水曜の昼下がり、転がり込むように湿気で毛量の増した黒のもじゃもじゃした何かがあたしのクラスへ飛び込んできた。誰だ誰だ、と思ったら見慣れた後輩の顔だった。赤也が真っ赤な顔をしてあたしのクラスへ侵入してきたのだ。ここ、高等部の教室なんですけど……とツッコむ間もなくずいっとあたしに近寄ってきた。なんだかすごい迫力だ。
「蓮二ならいないよ。赤也、高等部の、それも上級生のクラスにそんな風に入ってきちゃダメでしょ」
いつもの癖で偉そうな口を利いてしまう、あたし。今はまともにマネージャー業を務めていないんだからそんな権限はないのに。きっと中等部にまであたしの姿が見えないことは知れ渡っているはずだ。
「センパイ、大丈夫っスか?!マネージャー辞めるなんてことないッスよね?!真田先輩と別れるなんてとないッスよね?!」
「大丈夫だし、マネージャーは辞めてないし、弦一郎と別れてさえいないよ。誰から何聞いたの?」
呆れて溜め息を吐くと、いつもの調子を崩さない後輩を素直に愛おしいと思った。昔のように頭を撫でてあげようかとも思ったけど、もう大の男と認めて欲しい時期だろう。そこはぐっと堪えて、はいはい、と彼の肩を叩いた。
「センパイ、真田先輩と気まずそうにしてるって、何かありました?!」
「赤也、仮にも中等部の副部長なんだから自分の部のことをまず心配すべきだと思うよ。県大会もうすぐなんだし」
「県大会なんて俺達が制覇しますよ、大丈夫ッス!俺、センパイと真田先輩に何かあったって噂で聞いてから居ても立っても居られなかったんスよ。先輩達二人なら結婚までストレートにゴールインすると思ってて……だから絶対別れないでくださいよ!」
別れていない、それは公然の事実だった。弦一郎と別れるということも、あたしの頭の中にはない選択肢だった。赤也が言うように結婚まで何事もなくゴールイン、そんな風になるんだと無意識に信じ込んでいた。あたしの人生計画に弦一郎は必ず傍にいた。けれどいなくなってしまったら?その道があるとしたら?別れで違う相手を見つけたほうが楽だったとしたら?急にそんな疑問達が沸々と湧いて出てきた。ふと窓の外を見ると、広がる青空の遠くに小さな黒い雲が見える。そういえば今日の午後からガラッと天気が変わるんだっけ。予報を見たのはいいものの、たまたま手持ちの傘は忘れてしまったが置き傘があるかとも思い出す。と同時にあ、と小さく口に出し天気予報をきちんと確認する癖のない後輩にお節介を焼いた。
「赤也、今日午後から雨だって知ってた?室内コートの予約取った?」
「マジすか?!そういうことは早く言ってくださいよーッ。あ、でもそれならウチのマネが取ってるかもな。センパイに鍛えられたから皆なかなか優秀なんスよ!」
「ちゃんと二人に連絡入れなね。傘はあるの?」
「俺傘持ってきてねェッス……」
「だと思った。ハイ、折りたたみだけど。あたしには置き傘もあるし」
あたしがバッグからスマートにスッと折りたたみ傘を差し出すと、赤也は余計に感激したようで目を瞬かせて語気を強めた。
「センパイ、傘ありがとうございます!今度返すんで。じゃ、俺はそういうことなんで、絶対真田先輩と別れないでくださいよーッ!」
残念にながらその言葉に確かなYESは今は言えないという自分に驚きながら、あたしは何事もなかったように「練習に励めよ~」と応援の言葉を投げかけた。突風のようにクラスに来てまで言いたかったことなのか。そういえば、ウチの部の方は室内コートの予約を取ったのだろうか。いや……、蓮二のことだから抜かりない、か。あたしがいなくても部は回っている様子とせっちゃんから聞いている。じゃああたしがいなくてもいいじゃん、そんな卑屈な言葉がいつか口からぽろっと出てしまいそうだった。
赤也は最近のあたしを見ていた。コート脇をひっそりと駆け抜ける、その姿を。噂が回ってテニス部のマネージャー、今休養中なんだって。そんな風に部員同士で囁かれているのが目に浮かぶ。赤也は内情を知っているのかもしれない。だからここに直談判しに来たのかな。赤也の中で……あたしと弦一郎がなにか異質なカップルに見えているのかもしれない。赤也も思い込み激しいからなぁ。けれど新たなルートを見つけてしまったあたしは、唖然とすごい速さで流れてくる雨雲が広がる様を教室の中から見つめるしかなかった。席を立ち、窓枠寄りかかる。暗くなっていく空模様に、今の自分の思いを巡らせる。
どうして今まで別れるという選択肢がなく付き合っていたんだろう。そんな選択肢があるなど微塵も思わなかった己が不思議で仕方なかった。でも彼氏のことが大好きなら普通のことなんじゃないのかな、それともみんなは違うのかな。みんなって誰だろう。あたしの知るみんなは、中高生の付き合いにて軽く付き合い始めそして別れることをいとも簡単に繰り返している気がした。ベストカップルだと思ってたクラス一可愛い子が彼氏と別れたばかりと思えば、数日立ってすぐに新しい彼氏が出来ていたりした。そしたら文字通りあたしと弦一郎が異質なのだろう。別れる気配なんて毛頭なかった。そもそも'そういうもの'だと思い込んでいた。
ーーでも今後は?
今度は自分に問う。本当にこのまま弦一郎といてもいいのだろうか。弦一郎の足手まといになるのではないか、自分がもっと疲れてしまうのではないか。今はもう何を話せばいいかも分からない。言葉がえずいて、胸が詰まる。だからコートから見えないように走って校門まで向かうのに。今日の午後、弦一郎と産婦人科へ行くんだ。こんな気持ちで彼氏と産婦人科へ行くの、なんだか変なの。なんだかあたし、変なの。揺れる心に蓋をしてしまいたい気持ちと正面突っ切って向き合わなければいけない這い寄る恐怖は今日の空と同じで……少し、泣き出しそうだった。
病院に行く待ち合わせの時間までどうにもこうにも何もしないのに部に出るのも気まずいので、図書館へ行って本を借り読書傍ら室内コートのベンチにいた。ちゃんと病院へ行くようというお達しであたしはせっちゃんの監視下にあるらしい。もう、心配性なんだから~と言うと「誰のせいで心配性になってると思っているんだ」とガチトーンで怒られてしまった。柄にもなく哲学書なんかを借りて来てしまい、分厚いキルケゴールの書を隠れ蓑に弦一郎を久々に見つめてみる。
好きだし、愛おしいし、でも辛い。
この気持ちをどう処理すればいいか自分でも皆目検討もつかない。全部説明して理解してって言えばいいのかな……いや、でもきっと弦一郎には解らないことばかりだと思うんだ、あたしの話って。これ以上傷つくことは目に見えていた、だから話さなかった。それは今も変わらないんだけど……、弦一郎が何も言わないのはあたしのことを心底嫌気が差したからではないとことだけは分かっていた。むしろあたしが追い返した金曜の夜から、甲斐甲斐しく毎日メッセージが欠かさず来る。「少しは良くなったか」、「何か変わりはないか」、「今日は良いプレイが出来たぞ」……と相変わらず一言のみだけれど。いつもだったらあたしが一人で喋っているかのようなテキストメッセージのやり取りばかりだけれど、今回は違った。あたしがわざと返事をしなかった日があっても、弦一郎は根気よくこの五日間メッセージを送り続けてきてくれた。少しそれで心がほぐれてきたのか、あたしは弦一郎を見ることが怖くなくなってきていた。弦一郎があたしの力になりたいということが伝わってきたからーー、少しだけ怖くない。
でも話すのは怖かった。自分が思いもしない言葉が口から転げ落ちてしまいそうだと思ってしまう。でも今日は話さなくちゃいけないんだ。パコン、パコン、と久しく近くで聞くラケットで球を打つ音は耳に優しい。好きな音だ。けれど今は兎角居心地が悪い。見学という体で部活に参加しているけれど、なんだか腫れ物に触るようにされているような気もする。別に、何聞かれても大丈夫なんだけどな。どの部員も「今日はゆっくり休んで、明日以降よろしく!」と笑顔を絶やさない。少し不気味だ。マネージャーの先輩は今までのことを悪く思っているような態度の改め方で、優しく「早く帰ってきてね」と声をかけてくれた。やはり不気味だ。病気になったり倒れたりすると周りの人はこんなにも態度を変えるというのか、そうか、そしたらせっちゃんはこんな気味の悪い気持ちを味わったこととなる。自分の居場所のはずなのに、自分の居場所じゃないそんな気持ちにさせられる。病室で過ごす生活はさぞ無味乾燥だったろうし、毎回来訪者のいつもとは様子の違う笑顔を眺めていなければならなかったのだろう。あの時、もっと普通に振る舞えれば良かったなと反省しながら部に励むせっちゃんと弦一郎の真剣な姿を眺めた。
今日は基礎練習のみということで、弦一郎は早く上がった。もちろん、あたしが理由である。今日あたしと二人で産婦人科に行く。婦人科に予約しようと思ったら産婦人科しか近くになく、より気まずい思いをしそうだなとしか思えなかった。何も言わず部室の外で待っていると、勢いよく開いた扉に「わっ」と驚いたりもした。そんな感じのあたしに「大丈夫か?!」と心配をする弦一郎にうまく返事が出来ず、「心配しないで」と突っぱねることしか出来なかった。こんな風に気にかけてくれる彼氏につんけんした態度を取ってしまうだなんていつの日にかあたしは地獄に落ちてしまうのかもしれない。
下駄箱から見えるトタンの屋根に音を立てて降る雨が見えて、ああ、赤也に傘をもたせて良かったと思いながらきょろきょろと自分の傘を探す。ない。正面玄関に常に置いてある置き傘がない。名前まで書いてあるのに、あたし家に持って帰っちゃったかな?!オロオロしていると、手早く靴を履いた弦一郎がこちらへ来て何も言わずに見下ろしてきた。傘立てにある傘を掻き分けてみるけど、やはりない。盗られてしまってもおかしくないか……、ずっと置いてあった古びた傘だし、と落胆する。雨の中降られて産婦人科に行くことを思えば、傍にいる弦一郎の存在を思い出した。傘がない彼女を、そのまま放っておく男ではない。あたしの第一声は素っ頓狂で裏返っていた。
「か、傘……っ忘れちゃったんだけど……、置き傘もなくて」
「折りたたみ傘は?」
「それが、赤也に貸しちゃって……」
声が震える。口が裂けても、後輩に別れるなと釘を刺されたとは言えない。弦一郎は一言瞬発的に「たるんどる」とピリッとした声で一蹴したかと思いきやすぐに柔らかく「……いや、お前らしいな」とくつくつ笑った。呆れているわけではない。いつものように叱るだけなわけでもない。愛情の降り注いだ声色だった。自分でもそれが分かったので、少し頬を赤らめてしまったかもしれない。二人きりでいる時の、特別な空気を思い出した。甘ったるく、体の全てを預けてしまいそうな弦一郎の強い瞳を記憶の中のものと照らし合わせる。途端にぎゅうっと胸が締め付けられるように苦しくなり、この人がこんなにも好きなのだと思い知ると同時に胸の内を明かせずいる自分への痛みでもあった。のろのろと靴を履くのにも辛抱強く待ってくれた。
「俺のに入るといい」
蝙蝠傘の下、弦一郎の肩の隣を空けてもらうと相合い傘だ、とあたしは思わず小さく呟いた。弦一郎の耳に届いたのか届かなかったのかは分からないけれど、ビクッと肩が揺れた気がする。大きな傘はばらばらと降る雨からあたしの肩の上を覆ってくれる。……ううん、違う。弦一郎が傘をこちらへ傾けてくれてるんだ。弦一郎の態度がいつもより柔和なことは不気味だと思わなかった。多分、"病に倒れた可哀相なあたし"だけしか見えてないわけじゃなかったからだと思う。ああ、そうか。じゃあ、あたしはその向こう側にいたせっちゃんを信じられたから不気味でもなかったかもしれないね。あの時、せっちゃんを可哀相と思うよりもずっと天を憎んでいたから。
駅まで無言で相合い傘をしたのでロマンチックさなどなかった。気まずいという声が二人のお腹の奥底へ響いていたと思う。久しぶりだったし、弦一郎が言い放った一言であたしが泣いたのも事実だった。謝罪の言葉も聞いていないし、その機会をわざと拒絶したのも確かだった。先程の二言三言の会話が精々で、自分の普段の勢いがなくなっていることにも気付かされた。いつもだったら全力で弦一郎にぶつかっていける自分が、今はそれが出来ない。だから会話も弾まないはずだ。けれど、弦一郎は不思議にもそれに合わせてくれているようだった。気づけば、今日はどうやら……速歩きする必要もなかった。
「……電車には乗らないのか?」
「最寄り駅から学校とは真反対に10分程度歩くところにあるのに、行くの」
「そうか」
気恥ずかしくてどこへ、とまで声には出せなかった。方向音痴なので、弦一郎に地図を見てもらうと「買い出しに行くスーパーを抜けたところか、分かった。覚えたぞ」とまたもやあたしに優しく声をかけてくれた。弦一郎、どうしちゃったんだろう。こんなに優しくなっちゃって、やわやわであたしを甘やかしちゃって、大丈夫?!熱ある?!だなんて聞きたくなってしまう。でも気だるさを覚えた体と溜め息をすぐ吐かせる心の疲れがそれをさせない。でも今は茶化さないのが一番なのかもしれない。そもそも照れてしまい、言葉がこれ以上出てこないし。でも同時に怖くなってしまう。あたしが倒れたから、そんなに優しくしてくれてるの?今までは優しくしなくていいと思っていた?そんな疑問を心の中で浮かべてしまう。あたしは大切にされたかった。最初から大切にしてくれる気があったのだろうか、とこんな風に接せられると思い、どこから出てくるのか分からない涙が滲み出そうになってしまう。せっかく弦一郎が優しくしてくれているというのに、バカみたいな問いだ。でも聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。けれど、あたしの口は真一文字にきつく締められ黙ったまま弦一郎の隣に収まった。時折ぶつかる腕を無視するのに全身全霊の力を振り絞った。
「歩けそうか?バスに乗るか」
「……道覚えたいから歩いていく」
もしかしたら弦一郎は左助くんを扱うようにあたしを扱っているのかもしれない。なんだか子ども扱いされてる気がするもん。それでも優しくするとは、という弦一郎の中では子どものようにあやしてあげることなのかもしれなかった。優しさの起源がきっと彼の甥であるのだろうと、無駄口を叩かない今となっては意味なく思考を巡らせる。弦一郎の足並みはやはりゆっくりで歩幅も狭い。あたしは二度確認して、ようやく確信した。「いつもみたいに速く歩いてくれてもいいのに」と口をついて出てしまった。可愛くない。優しさを素直にありがたく受け取りなさい、とあたしは自分で自分に言い聞かしたが口から出てしまったものは戻らないのだ。
「……嫌か?」
「……嫌じゃないです、ごめんなさい」
「謝るな。謝らねばならんのはむしろ俺だ……すまない」
「ううん、いいの。今日もこうやって来てくれたし……」
かぶりを振った弦一郎は更に何かを言いたそうな顔をしたけれど、目指していた白く大きな建物が見えてきた。かなり大きな医院だ。そうか産科も兼ねてるんもだもんね、入院してる妊婦さんなんかもいるんだろうな。そう思うとまた体がカアッと熱くなってきた。いつか弦一郎とそんなことになったら……、こんな風に来るのだろうか。それとも未来はこんな風に一緒にいないのだろうか。喜んでしまう自分と、未来へ不安を抱く狭間の感情が自分でもよく分からない。かなり広いエントランスにやけに大きい足音が響き、そっと歩く。弦一郎は後ろから着いてくる形で、あたしは問診票を受け取り無言で書き込んだ。気まずさの極み、と思い受付の事務員さんに廊下の先にあるソファーに座るよう勧められた。診察室を過ぎた奥にあるその場所は静かで、特にひと目につかないようでホッと安心した。弦一郎は立ったままで、腕を組んでソワソワと落ち着きがないので座るよう促した。まばらにしか患者もいなかったので、席を譲る必要もないと思ったからだ。
「……病気だったらどうしよう」
「……弱音を吐くな。……いや、違うな、どうもいつもの調子で言ってしまいすまない。……弱音は吐いていい。俺もついている、だから心配しすぎるな」
「……うん、ありがとう」
やはり弦一郎はあたしを責めてきたあの時より態度を改めたようだった。不安定になったあたしに、熱のこもった激励を飛ばすわけでもなく冷静になっていた。それにせっちゃんの時とも違う。勝利を誓った時、……せっちゃんは最後の最後まで弱音を吐くことを許されなかった。せっちゃん自身がそれを禁じていた。なぜならひたすらに前を向いて病気を治すことだけを考えろというのが我々との約束だったはずだ。……あのやり方は正しかったかと問われるとあたしは自信がない。結局せっちゃんを追い詰めてしまった部分があったもの。それでも仲間の応援に励まされたことだってせっちゃんにとっては事実のはずだった。しかし、どうすればせっちゃんにトラウマを残すことなく済む最善の策だったのかあの時は分からなかった。……それを弦一郎も痛感しているのかもしれない。
あたしは選手ではないけれど、立海大附属のテニス部の一員であることは確かなのだからーー。
「さーん」
看護師さんから名前を呼ばれた。汗ばんだ熱い手のひらで弦一郎はあたしの手をぎゅっと握ると、目を見合わせて小さく頷いた。静かな廊下にスリッパがペタペタと鳴る。あたしは吸い込まれるように診察室へと入っていった。
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