愚か者の行く末
緒環が俺に懐いてきたのは、それはもう無意識に近いうちでの話だった。俺に落ち度はほぼない。そう言い切れるほど、これまで普通の会話しか交えておらずここまで執拗に追われる心地悪い思いを強いられるにはいささか理不尽なんじゃないかとここのところ疲れ果てていた。丸井に「仁王、おめー何したんだよ」と責められるも「何もしとらん」としか返事が出来ん。心当たりがあるたった二つの出来事と言えば、偶然テニス部に見学申込書を出そうとしていた緒環を見て喜ぶマネージャーの顔を思い浮かべ、愛想なくだがしかし確実にお節介を焼いて持っていくと言い出してしまったことと、美術の授業のどこにでも見られるはずのある一風景だった。
それは男女二人組を組んで互いの手をスケッチするという簡単な題材だった。おいおい中学生の延長線上か、と言いたくなるくだらないかったるい授業だなと退屈していた。俺はたまたま隣の席にいた緒環と組むことになった。な、なんてことはない出来事じゃろ?不可抗力じゃ。本当にそれだけだったとしか言いようがない。俺にご執心と思われた緒環は他にも自分に興味が向く男子には色目を使うなどしており、おせじにもクラスで好かれていたとは言えない。むしろ浮いていた。そんなアイツを唯一が部活で良くしていたわけだがな。恩を仇で返されるというのはああいうことナリ。
話を戻すと、俺は美術の時間で緒環にかけた言葉は少なかった。俺はスケッチする過程において他の奴のようにああだのこうだの言わなかったし、とっととそんな課題を終わらせたかった。それなりの世間話をするわけでもなく新マネージャーとして期待するわけでもなく限りなく平たく扱ったといえる。俺自身真剣に授業に取り組むほど模範生でもなかったし、緒環に左手を差し出してもらって、と思い黙りこくる彼女に「もっと見やすくなるよう手を出してみんしゃい」と言い丁寧にでもなく雑にでもなく、それなりの出来の物をぱぱっと描いた。その時の俺の目が、彼女の心の内にある何処かを焼いたのだろうか。あちらがこちらの手を描く番の時に「変に描きなさんなよ」と一言添えたがそれがまずかったのだろうか。緒環の頬は浮かれていたのか微かに高揚していたし、それがおかしくて俺は笑みを零したかもしれない。だけれどそれで捨て猫にミルクをあげたという丸井のいいがかりは散々だと思った。
俺がミルクをあげたんじゃない。あの女がミルクを貰ったと錯覚するほど飢えていただけだ。
他の男と寝ているんじゃないかという話はまことしやかに囁かれていたし俺もそんな面倒な奴にちょっかいを出したい気など一寸の欠片もなかった、なかったのにだ。移動教室では常に隣の席に陣取ってくるのだ。それが普通の陣取りならばまだ相手にしないだけで済むが、俺の隣の席に座ろう者がいれば毛を逆立てたようにそいつを睨みつける。すごい形相でな。そこまでするか、という言葉は自分から出すと厄介なので口を挟まないでいた。ある時は体調不良を理由に授業で奇声を上げ、優しげな女性教師をしばらく狼狽えさせ、ベランダに行き新鮮な空気を吸いなさいの保健室に行きなさいとの言葉も聞かずただただ注目を集めたいがためとしか思えないくらいこれ見よがしに机に項垂れていた。後から聞くと生理が重かったと、ウチのマネージャー連中は月経で難があるのだなと思うに留まったがの場合、彼女は最後の最後まで音を上げなかった。というか、クラスまるごと巻き込むなんてそんな馬鹿げたこともせずむしろ一人で痛みを抱えていた彼女はそもそも迷惑をかけるのを嫌がる性分であり、実際のところがそんな問題を抱えていることは俺達も幸村が倒れた後薄々と気づく程度で今回になってようやくその全貌を知ったのだった。
そんな中予定より大幅に早く謹慎が解け、緒環が部に呼び戻された……はずだった。
の業務の半分以下もまともに出来るわけもなく、先輩に叱られてばかりで緒環は分かりやすく荒れていた。球拾いをしたカゴに当たり、テニスボールを散らかしたりは序の口、俺や彼女の照準に定まっていない男子に当たり始めたりしてもいた。その中でも三強には関わるべからずと本能が悟っていたのかうまくすり抜けて会話を極力しないようにしていたようだった。俺には甘い顔をしフォローを求めるばかりで、俺は無視を決め込んだ。卑怯かもしれないが、少しでもかまってやったと本人に認識させてはならないと心のどこかで感じていた。あんな僅かのやり取りで好意を感じられてしまうほど、彼女の嗅覚は驚異的だ。俺だって情があったわけじゃない、と言わせてもらいたい。ただのクラスメイトとして当たり障りなく対応させてもらっただけだ。
そんなこんなで緒環はの業務量の空いた穴の分を埋めているとは言いづらかった。むしろ、県大会は間近だというのにサボり始めていたともとれる。朝練は遅刻してくるし、午後練習も鍵当番は先輩か柳に任せてとっとと帰ってしまう。今や仕事の大半は参謀が何食わぬ顔でそつなくこなしているようで、先輩はいつも以上にぶつくさ文句を言いつつ残された手作業を進めていた。しかしそんな柳でも業務の量が負担になっていることは誰の目からも明らかであった。と一緒に出かけるはずの他校視察も今までとは違い蓮二一人で行い、ビデオ係と記録係の連れがおらず手が足りているようには思えなかった。レギュラーではない部員を連れて行くこともあったが、やはりそいつも覚束ない手つきで効率的とは言えない仕事ぶりであった。マネージャー業がこれで正常に回っているとは言い難いが、今は仕方あるまい。レギュラー以外の一年の部員が分散してドリンクを作ったり、洗濯物を引き受けたりする態勢でどうにか回していた。が学校に復帰した月曜日、部は既にめちゃくちゃの状態だった。けれど、それを本人に知られてはならない。何故ならば学校に来るのもしんどそうだった彼女は部活を休んだからだ。どうやら水曜の午後に病院に行くまでは、安静にしろとのお達しが部長達から下された。本人はきっと歯がゆい思いをしていることだろう。ドがつくほど真面目で人一倍責任感の強い彼女のことだ、簡単には納得できたかは怪しい。しかし巷の噂で聞くと、幸村の懇親の説得によりテニスコートを尻目にそそくさと下校していた。
……そうか、真田に会いたくないという名目で逃げているのか。
どんな顔をして会えばいいのか分からないのだろう。尾ひれがついているのかもしれないが、見舞いを追い返すような形で真田を拒絶したと聞いている。今までのことを考えればいくつかは真田が悪いの一択ではあったが、何事も背負いすぎるにも原因の一旦はあった。しかし今回ばかりはどうにも、真田が余りにも自分を見失ったみっともない男の嫉妬の一言でを追い詰めてしまったことは残念ながら酷な事実なのだった。俺は現場を直接見たわけではないが、柳と二人でいることにやきもきしている真田の苦い表情は感じ取っていた。真田も真田で、マネージャー業に勤しむ二人に疑いがあったわけでもないということは分かる。だからこそ二人の間に入れないという気持ちを一層強めたのだろう、そこで爆発してしまったところか。
緒環の世話では手一杯だったわけだが、そんな悶々とした真田の気持ちに気付くこともフォローすることも出来なかったに落ち度はあると思うか。……俺は少しあると思う。参謀を男として全く意識しとらん。しかも、彼女自身に向けられている視線というものに驚くほど鈍感だ。参謀がとどうしたいかという明確な目的は見えないが、中学三年間手塩にかけ育てた精鋭のマネージャーであると仕事を二人きりで上手く回すことに得も言われぬ歓びを感じているのではないかと思ったことがある。先輩もマネージャーとしては合格点の範囲内ではあるが、身を削ってまでマネージャー業を務めるは柳の握る手綱に精一杯しがみついて蓮二の行動範囲の先回りも厭わない仕事ぶりだった。それが……柳の求める理想なのではないかと思う。と二人三脚のパートナーシップ、それが崩れた今彼は何を思うのか。真田のことも気になるが俺は注意深く参謀のことも注意深く見とかんとな、と漠然と五感で感じ取っていた。
ーー水曜。が病院へ行く日だ。俺は脳裏にウチのマネージャーの予定を浮かべながら、気まぐれに朝一番に部室へと赴いたが大事なことに気づいた。鍵当番の柳がまだおらんかもしれん。鍵が閉まっているか確認する為にドアノブをゆっくりと回そうとすると、突然のロッカーへの衝撃音が部室の中から漏れ出た。既に誰かいたのか。何があったのかすぐさま扉を開くと、真田と緒環が睨み合って対峙していた。真田は気が立っており、浅くフーフーと肩で息をしていた。ロッカーに何か物が当たったのか、皇帝のロッカーの扉はへこみ荷物が雪崩れをおこしていた。そこに一つ、真田の私物ではない物が紛れ込んでいた。緒環の足元にが細々と新聞の記事や月刊プロテニスの俺達の記事を大事にスクラップしていたものがぞんざいにうっちゃられていた。緒環の手元には封筒らしきものが握られている。
……まさか、退部届か。
俺はこの惨状に頭を抱えながら、「真田、落ち着きんしゃい」と声をかけると俺は悲痛に「これが落ち着いていられるか!!」と魂の底からの叫びを剥き身に浴びた。何があったかは想像に難くない。緒環は驚きと真田の憎悪の勢い任せた行動に距離を取りながらも「……そういうことだから」と反省の色も見せずに机にぐしゃぐしゃになった封筒を置いていくと何の感情も残すことなく部室を出ていった。それで終わりだ。彼女は後ろ姿さえ見せる猶予を俺達に与えることもなく、テニス部を去って行った。
緒環は朝練の半分も参加せずにいるし、俺を含め皆からも見放されていた。我々の信頼を酷く裏切り、出戻りの形になったのだから仕方あるまい。部活にまともに取り組む気もないらしい。見上げた根性だ。呆れ果てて言葉も出ない。俺はそんな者が部にいるだけで虫唾が走る程の嫌悪感を覚えた。は……そんな生半可な気持ちで我が部のマネージャーの務めを果たしてはいなかった。いつでも全力で、猪突猛進だがそんな力強さで突き進む姿には頼もしささえ感じていた。
そんなが塞ぎ込む程弱らせてしまったことに自己嫌悪を覚えないわけがなかった。
見舞いに行った金曜の夜、からは『水曜の午後6時にお願いします、ご迷惑をおかけします』という他人行儀なメッセージが律儀に送られてきたきりだ。俺は嫉妬の念に駆られ周りが見えなくなっていた事を心の底から悔しく思い、申し訳なくもなり、ずっと猛省していた。がそんな風に苦しんでいるのだと……全く気づきもしなかった。家族のことも、紹介された時に一言も、何も言わなかった。どうして俺に相談してくれなかったんだ、緒環の件といい、家族のことといい。そんなに俺は頼り甲斐のない男か。浅い眠りの夢にうなされ、そう苦しんだ日もある。しかし、彼女の性格を考えると言わなかったのではなく言えなかったのではないかと思うところもあった。今までの三年間、そして今年に入ってからもチームに尽力してくれたは我々の足枷になることは望まなかっただろう。交際していようとも、同志としての関係性の色濃い俺がそれに含まれていたのだとしたらーー。
不思議なことではない。昨年己の不甲斐なさ故関東大会決勝で負けた時から、俺はがチームのために犠牲となっていることに気づかなかった。……交際とは、相手に真摯に向かい合い大切にすればいいものだと思い込んでいた。しかしそれは初めからないに等しかったのだ。踏みつけになった彼女の想いは幾度となく散り、しかしそれにめげることなく彼女は何度も立ち上がった。今はもう立ち上がれる余力が彼女にはない……、テニスコートに一瞥をくれることもなく過ぎ去っていく背中を見つめればそれをひしひしと感じる。今まで気まずい雰囲気に陥った時もあったが、ここまで明らかな拒絶反応をされたことは初めてだった。何故ならこれまでは俺がどんなことをしようとも許されていたからだ。彼女は温かく俺を受け入れてくれた、そういつでも、何度でも。
水曜の午後が来るまで遠い月日が過ぎるような錯覚があった。幸村から借りた本を端から端まで読み耽り、俺は水曜の朝になって遂にこの日が来たといつもより座禅に力を入れにかける言葉を未熟な自分の精神世界で模索した。そわそわと落ち着く事が出来ず思わずいつもより早起きをし、逸る足取りで部室へと向かったが鍵当番がまだ来ていない可能性を考慮していなかった。鍵当番は今や蓮二とマネージャーの先輩だけで回しているはずだ。緒環に任せられるはずもない。しかし、鍵は開いていた。今日の当番は蓮二か?蓮二と二人きりになることもまだ心の準備が出来ていない情けなく弱い自分は恐る恐る扉を開く。しかしそこには蓮二の姿はなかった。蓮二は生徒会の仕事も兼任している為、時折早々と部室に訪れることがあった。今はマネージャーの仕事もあるというのに、やはり尊敬の念を抱かずにはいられない。しかし、その気持ちが自分の中で生まれれば同時にコントロール出来ない嫉妬の炎が自身の中で揺らぎ身体を焼く感覚が己を支配する。ドアノブを握りしめ、苦虫を噛み潰した気分で扉を閉めた。
邪念を振り払う為に独り早々とコートに入り練習に身を入れるか、と思い自分のロッカーを開けたところ残念ながら他の部員が来たようでドアの軋む音がした。俺は来た者に挨拶をしようと振り返ると、そこにはこんな早朝に居るのに似つかわしくない者がいた。マネージャーなのに朝一番にいることがおかしいだなんて皮肉にも程がある。そこには何やら封筒を握りしめ不快に顔を歪めた緒環が立っていた。「ヤバっ」と小さく呟いて逃げようと後退りをしていたが、俺に視線を向けられ最早後の祭りだった。
「……おはよう。今日は早いのだな」
「着替え?アタシこれ置いてとっとと行くから気にせずにどーぞ」
「何を言っておる、朝練は30分後に始まるんだぞ?部室掃除は今日のはずだ。俺が着替えた後早くに掃除しておけば他の仕事をする余裕もあろう」
挨拶もまともに返せん奴だとは、と思うと叱り飛ばしたくなるがここはぐっと堪え代わりに深い溜め息が出る。しかし今度は溜め息を返されてしまった。俺の何が彼女に溜め息をつかせる原因なのだ。至極当然の事を言っただけであるまいか。
「アンっタほんっとに空気読めないんだね。まあもういいけど」
「何の話だ?」
「コレ、退部届。あ、ちょうどいいから真田が部長に出しといてくんない?アタシもう辞めるから」
「……は?」
あまりの事態にネクタイを緩める手が硬直してしまった。間抜けで中途半端な疑問の声が出たが、さっさと撤退しようとする彼女に思わず「待て!!」と思わず声を張り上げ呼び止めた。
「お前は……がおらず、人手不足だというこの部の状況を……理解してないのか?」
「そんなのアタシに関係ないね。もうこの部活辞めるし」
「お前は……そんな……そんな覚悟で我が立海大附属のテニス部のマネージャーに務めていたというのか……?!」
「なに、アタシがアンタの好きなチャンのように体壊すくらいクソ真面目に働かないつーことが不満だっての?アイツもコイツも、ってうっせーってんだよ」
緒環は目を回すフリをして、付き合いきれないと馬鹿にしたように舌を出した。完全にこちらをなめてかかっている。
俺はこんな大馬鹿者をも庇おうとしたというのかーー。例え庇おうとしたわけでもなくとも、結果的にそうなってしまったことにーー。
自分の犯した過ちと彼女のあまりにも酷い態度に痛いほど充血しているであろう乾いた目を瞬かせた。凄絶な苦しみと怒りが渦巻いて丹田からこみ上げてくる。
「を愚弄するとは……いくらマネージャーといえども、いや、あいつと同じマネージャーだからこそ見逃せんぞ、その言葉……」
「アンタのそーいう時代劇じみたいい回しとかマジないわー。キモい。アンタと付き合ってるの気が知れねえわ」
怒髪天を衝くというが、まさに俺はそれを体現していた。沸き立つ怒りが逆に喉元を過ぎていく声を落ち着かせていた。本気の怒りを覚え、度を越してしまうと人間はこうなるのかとやけに冷静になっている自分もいた。俺は青筋を立てながら緒環に明らかに卑しい者を見る目を向けていた。
「俺だけならまだしも、を侮辱するな」
「侮辱つーか事実じゃん。時代遅れもいいところだよ、アンタ。それに付き合ってあげてヨシヨシしてるもキモい」
「そんなはお前のことをずっと気にかけていたのだぞ……?!心優しい奴なのだ……!」
「ハッ、バカップルってヤツ?そういうことはアタシのいないところで好きにやってよ」
自棄糞にでもなったのか、緒環は俺に怒りなのか何なのか分からぬ醜い言葉を立て続けに呪詛のように吐いた。するとが大事に作った雑誌や新聞のスクラップのノートを取り出して、気味悪く甲高い笑い声を上げた。
「バカみてーにスクラップなんか取っといちゃってさ、こんなみみっちぃこと誰がやるっての!?なになに、真田弦一郎、好きなタイプは奥ゆかしい人物です……って、アイツのどこが?優しいなんて有りえねーよ。あの女、いつも上から目線で偉そうに命令ばっかしやがって。倒れたからアタシに意味分かんない仕事の量が回ってくるのに、こっちが耐えられるわけねーっての!!」
「やめろ!!」
緒環はスクラップされたノートを床に叩きつけた。何かがプツンと切れる音がした。
ーー俺はそれを見た瞬間自分のロッカーをありったけの力で叩きつけていた。凄まじい音が鳴る。力任せに殴られたロッカーの扉は凹んだまま宙ぶらりんに開き、荷物がどさどさと溢れるように落ちてきた。拳の痛みなどどうということはない。を軽蔑した緒環を、剣で刺すように鋭く睨めつけた。緒環は俺の凄んだ顔に流石にやりすぎたと思ったのか、押し黙ったまま封筒をくしゃくしゃに握りしめ仰け反った。それと同時に部室のドアが開き、仁王が慌てた様子で飛び込んできた。ロッカーの被害と緒環を見比べて、「真田、落ち着きんしゃい」と宥めるように声をかけてきた。
「これが落ち着いていられるか!!」
決して泣くまいと気持ちの昂りで目に涙が溜まったことを悟られぬよう、目を見張って宿敵とみなした緒環の姿を目に焼き付けていた。しかし仁王が来た途端人が変わったように萎縮した緒環は「……そういうことだから」という一言だけを残し、退部届を叩きつけるように机の上に置くとそのまま後ろ姿を見せ、駆け去っていった。そのまま気まずい沈黙が流れ、俺は自分の怒りがじんじんと胸に残るのを感じた。仁王も何があったのかを察して口を開こうとしない。散らばった荷物を前にどかっとあぐらをかき座り込んだ。そして部室から誰もいなくなる気配を感じた。そうか、俺は今気を遣われているのかーー。
小さく息を吐くと、俺はロッカーから溢れ出た物達をのろのろと拾い上げた。ふと、ファイルに挟んでいた見覚えのある半紙を見る。そこには『千金一笑』の字があった。そうか、これは……の誕生日祝の候補である一つの渡さなかった方であったか。しかし、違う。思いやりとは彼女に四字熟語を贈ってやるなどそんなことではなかった。彼女に贈った『来来世世』、確かに今世があってからだこそだと今は痛いほど痛感する。あの時の俺は道化だったであろう。
そんなを守るために必要なことは……、そして千金一笑と言えるほどのの弾けるような笑顔をこれからも見るためにはーー。赤くなった拳に息を吹きかけて、どくどくと波打つ鼓動と興奮した気持ちを落ち着かせた。
不覚にも、緒環にぶつけた想いでようやく焦点が定まった気がした。が丁寧にまとめたスクラップのノートをぱらぱらとめくり中身が無事なことを確認し注意深く棚に戻し、そうしてから彼女が磨かなくなって少々埃を被り光の鈍ったトロフィー達を見つめる。今までうだうだとくどい自責の念もとい言い訳ともいえる迷いが消える。俺がにしてやれること。傍にいてやり、深く傷つき哀しみの渦にいる彼女の気持ちを汲み取ること……なのだろう。今までの交際の仕方がおままごとのようだったのだと悟る。もう覚悟は決まった。
この凹んだロッカーを見られたらにこってり絞られるだろう、だがしかし近い未来にきっとそうなるといいと願わずにはいられなかった。
(210914修正済み)
(130418)