優しい水面を仰ぐので・前
カーテンは閉め切ったままだった。遮光カーテンで良かった、やけに目がチカチカするマンションの白い壁に反射したおざなりな無機質な光を浴びなくて済むから。不思議と昔から白熱灯の強い光も得意ではなかった。だから、今のあたしの部屋はカーテンから漏れる光でしか輪郭が保てない。……あたしの姿かたちも上手く暗闇とシーツの隙間に溶け込めているのだろうか。
癖で携帯電話の電源は切れなかった。誰かから連絡が来たらどうしよう、と思いたまに明かりとなるディスプレイで自身の顔を照らす。マネージャーあるまじきと思われそうだが、あたしは携帯電話やそれ以外の電子機器の通知音は苦手だった。だってそれらはいつだって予期せぬタイミングで鳴るから。もっとあたしのペースで行かせてよ、と思ってもどんどん未読メッセージは増殖していく。未読になっているのが耐えられないから、全て開封済みにする。それでも自分を気にかけるメッセージが何も来ていないと、心に埋めなければならない空虚感を得る。せっちゃんがそれを見計らったように、一言短いメッセージをよこすのでそれは意地でも見ないフリをした。なんだか、せっちゃんの言葉を見たら再びぎゅっと心臓が握られたような痛みがぶり返しそうな気がしていたからだ。それでなくともこの胸は既に息苦しいのに。
多分今日は金曜日、あたしはベッドの中でうずくまっていた。体温調節が昔から苦手で、ベッドで眠っていると無意味に汗をかいてしまうのが嫌だった。でもそんなことは言ってられないとばかりに月曜に部活を早退してから火曜はまた子宮の痛みが酷く、為す術もなくシーツに貼り付いてるしかなかった。それでも痛みの度合いは月曜ほどではなかった。部活があるから、と思いベッドに手を付き起き上がろうとしても体が重い上に手にもうまく力が入らず、全然動けない。誰か梃でも持ってきてくれと言わんばかりに。
ママが無神経にノックもせずドカドカうるさく部屋に入ってきて、不機嫌そうにあたしの体調がどうかの確認をしてくる。あたしはもう返事をする気すら失せていて「んー」と扇風機の音にかき消される低い唸り声で返事をする。熱はあるの、調子が悪いの、体のどこが悪いの、部活はいいの、学校は行かないの。うるさいな、具合悪いんだから矢継早に質問攻めするのやめてよ。そうは思ってても口には出さない、だってそれはとても理不尽で横暴な答え方だから。そういうの人にぶつけたらいけないんでしょ?
本当に体調の悪いあたしにどうするかを尋ねるのを見かねたママが、YESかNOで答えられる質問に切り替え、どうやらあたしが学校に行けないぐらい調子が悪いとようやく判断を下すとすごすごと諦めて部屋を出ていった。顔は窓に背け、目は一度も合わせなかった。それを数日続け、携帯電話のディスプレイを確認したら今日が金曜だった。多分じゃなくて、あたしは人生にてインフルエンザ以外で初めて四日間もベッドの中で過ごしてしまった。……インフルエンザになること自体も珍しかったけれど。
けど腕一つだけでも信じられないほど持ち上がらなくて、だるくて頭も痛くて、起き上がろうとすれば視界が揺れてぐるーんって体が空中分解するかと思うほどブン回されるような感覚に陥って。パパの朝ごはんの残りであるお粥を食べて、それが僅かな量にも関わらず気持ち悪くなってトイレへ駆け込み戻してしまって。中身が空っぽの胃からもう出るものは何もないのに吐き気がこみ上げて息を吸えば吸うほど肋骨の下がキリキリ痛んで、何もかもが最悪だった。ここ最近の生理の中でも飛び切りひどい。だからといって……病院にまで本当に行かなければならないのかな。ぼんやりと月曜に記憶が飛ぶほどの痛みを味わったことを思い返す。そして帰宅して無遠慮にママから言われた言葉を反芻する。『その程度の痛みなら我慢しなさい、ママも昔そうだったんだから』
食事以外はずっとベッドで寝たきりだった。体も心も、もう起きる気力など失ったようだ。ベッドに預けた体重が自分の全てなのだ、もうこれ以上もそれ以下もない。そんな世界にとってはちっぽけな質量のあたし、このまま地の底まで落ちていかないかな。一番下まで落下してしまえさえすれば、もう起きる努力なんてしなきゃとか思わなくてもいいかもしれない。こんなに辛い思いをするなら、生まれてきたくなかった。鈍く広がる子宮の痛みを酷く恨み、あたしの孤独が埋まらない時は周囲が馬鹿なのかとも最低にも思えてきた。僅かにいるはずの理解者のことも、今のあたしにはどうでもよくなってしまっていた。
ーーだって一番理解してもらいたい人に、解ってさえもらえない。
どうしても辛くてはち切れそうな心を抱えていることを理解してもらいたい、と我慢ならなくなっていた。心の狭いあたし、弦一郎やママとパパに何も解ってもらえてないことが許せないんだね。でも仕方ない、話したって分からない人だっているから。
話したところでどうなるの?とせっちゃんに何度かそう答えたことがあった。いつも悩みがあったり不満ごとがあれば、話したらいいのにと促されたからだ。でもせっちゃんだって解ってないじゃない。気づいて欲しい。自分から辛いと吐き出せないことをどうして気づかないんだろう、誰も。誰も、誰も、誰も。
ただ、「辛いよね、何が辛いの?」って聞いてほしいだけなのに、どうしてみんな自分の思惑通りにしか動かないの。みんな自己中。自己中な人間の集まりめ。そんな風に自分を棚に上げて周囲を呪ってしまう自分がどうしようもなく嫌だった。だって一番自分勝手な行動をしてるのはあたしだから。生半可な精神で務まるわけない仕事で腰抜けのように取り組んでいたあたしは最低という言葉に尽きる酷い人間なのだ。
そんなあたしでも唯一優しくくるんでくれるシーツの冷たい箇所を脚で探す。いっそ、このベッドという小さな箱がシカゴにいた頃に通っていたプールであってほしい。一人、10メートル水深のプールで素潜りをしていたっけな。底まで行って、足で床をタッチするゲームは独りでも楽しかったし水の底は何故かえらい落ち着いた。微かに色づいた水面に光が揺らめいて、波打って、とても静かだった。そんな場所に帰りたい、そしてずうっとそこにいたい。あの時見た光はプールの水の冷たさに反してとても温かく心地の良いものだった。今浴びているカーテンから漏れる僅かといえども、こんな体を照射してあたしをひどくいたぶる光じゃなかった。
縮こまって無理矢理意識を眠りに向かわせるけれど、それもそう毎日は続かない。生理の時、泥のように眠るあたしでもそろそろ今回の周期の終わり際には苦痛に目覚めている時間が多くなっていた。今なら部活ではみんな練習試合をしている時間だろうかーー。
思いも出したくない現実を突き付けられた。明日、あたしは果たして学校に行けるのだろうか。……あたしは行くという選択肢を取るのだろうか。
そこから先自分がどうするかだなんて分かりもせずぼんやりと疑問を浮かべたままでいると、お決まりであるノックなしのドアの開閉に体がビクッと震えた。
「精市くんと弦一郎くんが心配してお見舞いに来てくれたわよ。上がってもらっていいわよね?」
「……え、ちょ、待って」
「エントランスで待たせてるから、もう行くわね」
それだけ言って自分勝手にずかずかと部屋を出ていってしまった。返事、ちゃんとしてないのに。そうか、好意で来てくれたわけなんだから二人を追い返せるわけがないよね。でも……どうしよう。せっちゃんが来るのは百歩譲って仕方ないとして、弦一郎には絶対来てほしくない。こんな姿で会えない、こんな気持ちで会いたくない。きっとサボってると言われ厳しく叱られ呆れられるに違いない。一週間も休んで、嫌われるかもしれない。マネージャーとして失格だから、もう来るなと言われるかもしれない。どうしよう、どうしよう……そんなのは絶対、嫌だ。
今か今かとこちらへ来るだろう緊張感で、心臓が持ち上がった。静脈の端々に血液が行き渡っているか怪しいほど、体がフワフワしていた。仕方なく、物凄い早さで洗面所に行き、顔を洗い歯を磨いた。部屋に戻りマネージャーの権利を剥奪されるのではという思いを宥め、心を落ち着けるようゆっくりと櫛で髪を梳かし、椅子の上に折り重なった洗濯物達を掛け布団の下に隠した。あれ、あたし具合が悪いんじゃなかったっけ。なぜだか、いざ二人と会うかもしれないと思えば勝手に体が動いていた。最近はもっぱら自宅に帰れば、コントロール出来ないほどの目眩や吐き気を催しベッドに這いつくばることしか出来なくなるのに、まるで臨戦態勢に入ったように体が緊張状態にあった。常に心の糸をピンと張らせ日々を過ごしていた自分をすぐさま思い出したのだ。今からなら、部活にさえ行ける。しかしそれとは裏腹に会いたくない気持ちを無理矢理心の奥底に封印しようとしていた。
ーーピンポーン……。
嫌だ、来ないで。あたし、誰とも会いたくない。喉から言葉を出そうとしても、声がささくれだって引っ掛かりうまく出ない。いやだ、泣きそう。何で、また涙が瞳からこぼれ落ちるの。喉が痛い。じんわりと滲む視界に、家族ではない者の足音と会話が小さく聞こえてきた。息を殺して、耳をすませると低い弦一郎の声は聞こえない。こんなに弦一郎の気配がないだなんて、もしかして来たのはせっちゃんだけなのかもしれない。あたしのことなんて、結局嫌いになって帰ってしまったのだろうか。弦一郎も、もうあたしとは顔を合わせたくないんだろうか……。顔を覆い、自分の責め苦をこれでもかと挙げる。それでも学校へ遠ざけてしまった罪悪感がこちらへ近づいてくる。
嫌だ、来ないで……。来ないで!
何も考えずにドアの前まで駆けて座り込んだ。こんなことで堰き止められるわけないのに。でもどうしてもドアを開けてほしくなかった。丁寧なノックが聞こえ肩が震え思わず仰け反りドアを防ぐ音が立つ。ママじゃない。そして静かな間が空くと、優しいノックが再び返ってきた。それに伴う心配の色が混じった声色も。ああ、懐かしいと思ってしまうくらいにはここ数日が気の遠い時間に思えていた。
「……?俺だけど」
「……」
「……俺だけだから開けてくれないかな」
ここまで来たら、抵抗できない。観念するしかないのか、あたしは目を瞑り深呼吸をした。のろのろと立ち上がり、ベッドへと腰掛ける。いつもママに強引に急かされるようなことはなく扉が開く。カーテンから漏れる光しか明かりがないとはいえ、せっちゃんの顔はよく見えた。きっと目が暗闇に慣れたのだろう。
「」
あたしはせっちゃんの顔をまともに見ることが出来ないでいた。壁に飾ったお気に入りで大人っぽくあたしが背伸びしないと買えない服のブランドのポストカードを見やる。上の空ではなかった。むしろ全神経が、せっちゃんの存在に注がれていた。扉を閉め、立ち尽くすせっちゃんの気配が現実だと感じると、自分の声は驚くほど弾けるように出てきた。
「せっちゃん!ありがとうね、ここまで来てくれて……。心配かけちゃってごめんなさい。ここ、座って」
電気点けるね、とあたしは電気をつけた。目が痛い、眩しい。無防備にあたしを光が突き刺す。いきなり立ったのもあって立ち眩む。しかしそんなことは悟られてはいけない。
「あ、お茶なかったね。ママに淹れてきてもらうからちょっと待って……」
「!」
「な、なに」
あたしを遮る声には怒りが含まれているのか、再び部屋に気まずさが訪れた。次に何言われるかが分からなくて、あたしは思わず乾いた笑いを上げた。
「お茶、いらない?」
「……今の俺に気遣いはいらない。代わりに見舞いの品もない」
「……あの」
「どうして誰にもの本当の姿を見せようとしないんだ?どうして逃げるんだ」
「せっちゃん、何言ってるか分からな……」
「分かっているはずだ。どうして自分に嘘を付くんだ、どうして誰にも心配をかけることを許そうとしないんだ!」
荒々しい声だった。せっちゃんが、声を震わせている。表情は硬い。怒りと悲しみがせっちゃんから溢れていた。あたしにかける言葉のひとつひとつが、あたしを思いやっていた。
「だって許せないよ、そんなのマネージャーがすることじゃないもん。せっちゃんだって、今はまだ練習試合してる時間でしょ?どうして来たの?!」
「どうしてそんなことを言うんだ、それが見舞いを来た者への礼儀だと思っているのか?少なくとも俺はそんなことしなかったと思うけどね」
これには黙るしかなかった。あたしは数え切れないほどせっちゃんのお見舞いに行っている。その中でせっちゃんがあたしみたいな屁理屈を並べ心の外へ追い出そうとしてしまうことなど、一度もなかった。
「自分を大切にしないを俺が怒らないわけがないだろう?」
「だって……せっちゃん達をサポート出来ないあたしに……価値なんてない」
「」
「そんな自分のことを大切に出来ると思う?何も出来なくなって、部の足枷になって、大会も控えてるのにこのザマで!!明日も行かないかもしれないんだよ?!サボって逃げ出したんだと思われてるんだよ?!」
「そんなこと、誰も思っていない。勘違いも甚だしいよ。皆、の心配をしている」
「それが申し訳ないの!!あたしのことなんて気にしないで欲しいの!!でも仕事が……あたしがやらないといけないのに……」
涙が際限なく溢れて止まらなかった。顔がぐちゃぐちゃだった。でももう止められなかった。せっちゃんは気を利かせティッシュ箱をあたしに差し出しながらも、その目はあたしを強く見据えていた。
「何がそんなに許せないんだ……?」
「何もかもだよ。……神様も。せっちゃんのテニスを邪魔する者は誰一人として許せない」
「……俺のテニスを邪魔する者はもう誰もいないよ、。……」
握りこぶしを作り、せっちゃんは顔を歪ませた。あたしがせっちゃんを苦しめている。……だから、そんな自分を許せないのに。
「もうあの時のようには勝利への戒めを背負わなくていいんだ……いいんだよ、」
「でも今度こそ……立海大附属は負けられない、それはせっちゃんだって分かってるでしょう?」
「どうにも……話が通じてないようだな……」
だって、実際にそうでしょ?!完璧な布陣で、立海大附属の力をせっちゃんが揃った今見せつけてやらなければいけない、そしてそれをサポートするのはあたしの仕事なのに……!せっちゃんは頭を抱えて、座り込んだ椅子に項垂れて大きく溜め息を吐いた。あたし、何もおかしいこと言ってない。なのにどうしてこんなに伝わらないの?
「……体調の方はどうなんだい」
「えっと……うーん……」
「寝ていた方がいいんじゃないのか、また具合悪いのをやせ我慢しているんじゃないのか?」
「せっちゃんが来たくれたから元気出たよ。大丈夫」
「また大丈夫っていうのか……。もう手がつけられないな。……病院は行った?」
今度はあたしが前屈みになり、溜め息を深く吐く番だった。保健の先生からも勧められていた病院への受診。それがいかに難しいことだったかをどう伝えればいいのだろう。あたしは頭がこんがらがって、言葉を失ってしまった。
「……これくらいのことで病院に行かなくてもいいって」
「本気でそう思っているのか?!ついこの間倒れたっていうのに、どの面下げてそんなことを俺の前で言えるんだ?」
「あ……」
手痛い失言だった。せっちゃんは拳を膝の上で固く握っている。あたしは再び俯くと、今から言おうとしていることで声が震えるのに何故かショックを受けていた。抉られた傷跡を野風に晒すような思いだった。
「……ママが、そう言うから……」
「……おばさんが?」
「だって、こんなのは普通だから我慢しろって!ママも今、パパの方のおじーちゃんの看病で九州まで行ったり仕事もあって忙しいから仕方ないよ……」
「……それで娘が倒れる程の症状を見過ごす理由になるっていうのかい?」
「それでって……おじーちゃんは脳梗塞でリハビリ中なんだし……、ママがいない日にパパは家事も一人で出来ないし、おねーちゃんは知らんぷりだし……。それに今年またお盆でも忙しくなるんだろーし……。だから病院ならあたし一人で行ってくるよ、ね?」
「そんなことを子どもに言う親がいるだなんて……俺は信じたくないよ。そんなに聞き分けが良すぎる子どもであろうとする君も……おかしい、おかしくなってる」
おかしいと言われたことで自己の正当性を失いそうになったあたしはママが飛んでくるんじゃないかくらいには自分を見失い絶叫していた。
「だってしょうがないじゃん、誰かが我慢しなくちゃならないんだよ?!ウチはパパもそんなことは全部ママに押し付けてきたの!パパがやるわけない、ママがやらない、おねーちゃんは関わりたくない……じゃああたしはどうすればいいっていうの!!」
熱い涙がこみ上げてきた。嗚咽が漏れた。喉が焼けるようで、声がひしゃげた。せっちゃんの顔は見れず、あたしは自分の膝を見つめていたから、膝が雨受け皿のようになっていた。せっちゃんは足を組むわけでもなく、ただただジッと佇んでいた。足先すら揺れない。それでも今度はせっちゃんが泣いていた。せっちゃんの制服のスラックスに一滴のシミが出来ていた。
「、もうこれ以上……苦しまないでくれ……」
絞り出したように小さく掠れた言葉が耳に届いた。祈りのような深い沈黙が夜の静寂に溶け二人を象る輪郭がぼやけた。
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