夕凪の水先案内人


が休んでから四日目の金曜日。様々な出来事がこの週で起きた。
月曜に倒れた日に確かに俺の言った通りは俺に『着いた』と一言だけメッセージをよこした。あれから連絡はない。真田なんてもってのほか、何も聞いていないらしい。担任の先生に聞けば、「体調不良で休みと母親から連絡が来た」の一言で片付けられてしまう。柳には『今日休みます』と同じ文言が立て続けに四日来たという。本当に調子が悪くメッセージを打つ気力もないのだろうという想像は容易かった。しかしがこんな風にあからさまに寝込むことはインフルエンザ以外ではあり得なかった。保健室で彼女を言いくるめた時のように俺の忠言に従って休んでいるわけではないという確信はあった。あの時は休むという返事は貰ったが、俺と真田を早くコートに戻したいが一心の生返事だったことは彼女の性格上分かりきっている。

彼女の不在二日目で素直に、早朝から弾ける声で「おはようございます!」と皆々に声をかける彼女を恋しく思った。三日目でそろそろ登校してきてもおかしくないのに、と思いメッセージを送ったがそれを読んだようにも思えない。電話をかけようかとも少々迷ったが、金曜まで彼女の帰りを待つことに決めた。

柳に周期を把握しているんじゃなかったのか?と返せば「面目ない」と現実から目を背けるように気落ちした呟きで返答される。説明によれば、周期は個人差でも変わることもあり今回はその予想を上回る程前倒しに周期がずれ、ちょうど柳が病院の受診を勧めようとしていたところの騒ぎだったと居た堪れない様だった。俺の件然り、人体の異常を柳が正確に予測できるわけではないことは重々承知の上で俺も苛立ちを抑えることが出来ずにいた。しかし彼を責めたところで何の利点もない。俺の感情のやり場がないだけだ。柳にはがいない分増えてしまった業務を肩代わりしてもらわないといけない。いくら立海大附属が例年通りシードで有利に進めるとはいえ、関東大会までの勢いをつけるため万全を期す状態でありたかった。

昨年は俺で、今年は……か。今度の関東大会、昨年の悔しさを笑って過ごす彼女の思いに答えるためにもがいないことはどうしても避けたかった。 果たしては医者へかかったのだろうか。同級生の急な不在に俺の下への友人が彼女は大丈夫なのかと尋ねに来もしたが、当たり障りのないことしか言えなかった。
だって、俺は何も知りもしないのだから。俺が入院した当時もこんな風に真田や他の部員は様子を人に尋ねられたのだろうか。……いや、正しくは知っていることがあった。の不調の決定打となったのは真田の一言だ。あとはから時折聞く、俺では想像も出来ない少しばかり耳を疑うような事実が語られた愚痴の数々。俺は相槌を打ったり、線香花火のように怒りを散らす幼馴染を宥め賺したりしか出来なかった。だって俺には到底理解し難いことだったから。そんなの小説やドラマで聞くフィクションでしょ、とでも言いたくなるような事柄に巻き込まれている彼女に度々俺は胸が痛くなった。そして緒環の件もまたその一つとして捉えていた。もしの休みがこれ以上長引くようなら早めに謹慎を解き緒環を部に呼び戻すとまで話が出ている。

相容れない事実その一、緒環だ。その謎を解くために俺はラリー練習試合を終えた足で夕方の涼しい風に晒され冷えたベンチに仰向けで寝そべるそのまま丸井の下を訪れていた。


「丸井、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「おっ、なんだ幸村くん。改まってよ」
「新マネージャーの件でね」
「ああ……緒環のことか。幸村くんの気になることでもあるのか?って俺には気になることだらけだけどよ」


丸井は起き上がりながら被っていたタオルを左手で引っ張ってそれを首に回した。ふー、と溜め息をつき胡座をかいて肘をつき「困っちまうよな」と文句を垂れていた。


「ハッキリ言うと俺、緒環の件が解せないんだ。でも丸井は俺よりそういうことに詳しいかと思って」
「えーっと……今週の件?」
「今週……というより、これまでの彼女自身のことが全然理解できない。どうして皆緒環一人に振り回されているんだ?俺が部長なら彼女を即座に辞めさせるから、こんな事にはならなかったと思うけど」
「あー、まあな。幸村くんにはそう見えるだろうよ。アレでもあいつ、部長と副部長の前では猫被ってたみてーだし。そうだよな。緒環みたいな人種、幸村くんとは一生関わり合いがねーもんな」


そうだ、一生関わり合いのないタイプの人間だっただろう。部活内でも、緒環は俺と真田の前や厄介事を起こしかねない人間の前では比較的大人しくしていた。緒環がしょうもないことをすると思ったのは、入部当初に彼女が球拾いで集めたボールを入れたカゴに八つ当たりして蹴り倒しまた一から球拾いし直していたところをこの目で見た時からだったのだけれど。よく仕事をサボっていたこともあり業務量は全体の一、二割程度だったのはが汗水流し彼女の分までコートを慌ただしく駆けずり回っていたから分かる。高等部に上がり、部員の人数も一段と増え先輩と二人でのマネージメントでギリギリだったのだ。蓮二もいて、ようやく成り立っていたところか。緒環が仁王を追いかけ回していたところから見ると、もしかしたら他の男子部員を付け回していた可能性もある。


「そもそもが理解出来ないんだよ。緒環が謹慎を言い渡された朝礼であからさまに動揺した部員が何人もいただろう。なんで皆気づかないんだ?」
「んー……、男はバカだからじゃね?って言いてえところだが……。幸村くんや俺みたいに全員バカってことでもねーからなぁ」
「そんな簡単な答えで分かるのなら、俺がここまで彼女のことを七不思議の一つのように思わないしね」


七不思議か!そりゃ面白えと丸井はカラカラと笑い声を上げた。しかし、その笑い声も空回っていたのか次第にすぼんでいった。


「俺の感覚だと、あいつは痩せた野良猫でか細い甘い声上げて思わずミルクあげなきゃなんねーって気にさせるのが上手いヤツって感じだな」


うんうんと己をも納得させるように頷きつつ丸井が上手い例えを上げる。


「仁王もそのクチで捕まったんだろうな、あいつらクラスも同じだろぃ?緒環はどいつがミルクをくれるか鼻が利くんだな」
「俺にはそうは見えないけど」
「それは幸村くんがターゲットじゃないからだろぃ。ああいう女子たまーにいるんだよな。俺は近づかねえようにしてるけど」
「なるほど」


俺は素直に感心させられてしまった。哀れにも選ばれし者だけが甘い声で鳴かれるのか。仁王は彼女を一言たりとも擁護はしなかったけれど、ここまできっぱり批判もしていなかった。のらりくらりとかわすだけだったのは、緒環に変な情があったからなのだろうか。


「そういや猫といえば、この前ダチんちでキジトラと遊んだんだけど全然懐かねえんだよ、すげー警戒心強くてさ。でも飼い主のダチと二人きりになるとしつけーくらいに着いてきてめっちゃ甘えるんだとよ。白のキジトラだから雑種だと思ってたけど、聞いてみたらジャパニーズなんとかって血統書つきだってえの。……なんか、今思えばみてえだなと思った。幸村くんにしか懐かない猫」
「フフ、そうかな?そんな風にの隠喩をするのは丸井が初めてだよ」
「昔はもうちっと……愛嬌振りまく犬みてーだな、と思ってたんだけどな。なんか、思ったより全然誰にも悩みを話さないからさ……アイツ」
「最も当のは俺にまだ何も連絡してくれてないんだけどね」
「えっ、マジかよ。じゃあ幸村くんも今がどんな状況か知らねえの?」


残念なことに、と俺はかぶりを振った。月経痛が酷くてまだ寝込んでいるのかもしれない。平均的に月経の期間が三日~七日間あると本で読んだから、まだ苦しんでいる真っ只中なのかもしれない。一刻も早く、病院に行ってほしい限りだ。


最近ヤバかったろぃ。らしくもなくガリガリに痩せちゃってよ、緒環のことすげーストレスだったんじゃねーのか?」
の話か?」


割って丸井の相棒が会話に入って来た。人当たりがいいジャッカルは動揺を隠さずその瞳に心配の色を浮かべていた。


は大丈夫なのか?幸村は何か聞いてるのか?」
「俺にも分からないんだ。色々と分からないことばかりだ」
「そうか……、早く良くなるといいんだが」
「でも今日、見舞いに行こうと思うよ。それでわざわざ練習を早く切り上げてもらったんだし」
「だから練習試合少なめで早く切り上がったのか!変だと思ってたんだよな」
「どうやらマネジメントも行き渡っていないみたいだし、その方がいいってことになったんだ」
「……真田と行くのか?」
「ああ、そのつもりだ」


ジャッカルと丸井は示し合わせたように顔を見合わせた。思うところがあるのか、心優しいジャッカルが慎重に口を開いた。


「それで……大丈夫なのか?」
「そうだといいなとは思うよ」


本望を口にした。空気に放った途端溶けてしまう泡のように、心許ない言葉だったにも関わらずだ。でも、そうだといいと強く願わずにはいられない。皆の綺麗事を実現させようとするの甘ったれた平和主義を語らう自己犠牲の精神に……そこにの幸せはなかったのかと思うと俺の怒りや悲しみの態度を隠せずにはいられなかったけれど……。俺を含め今まで皆、その船のような大きな愛に救われてきたんだ。じゃあ、前も後ろも見えない海を渡って皆をその船に乗せ人一倍救ってきただって、救われる時が来たっていいじゃないか。
でもそれを出来るのは俺じゃない。俺と彼女は……近すぎる。俺が救難信号を出したを探しに潜水し救出しようとしても、気持ちの齟齬が生まれた瞬間には途端拒絶反応を起こし再び傷つくだろう。

相容れない事実その二。冷たく深く、暗い海の底に沈んだ難破船のような悲しみの欠片を一つ一つ陽の下に掬い上げる人間は、腹立たしい事に今回彼女を誰よりも傷つけた相手……。

ーー真田なんだ。


さあ、そろそろ帰り支度をしないと切り上げた時間が無駄になってしまう。謎を一つ解決した俺は二つ目の謎を解明する準備に部室へと急いだ。








* * *










「幸村、行くぞ」と沈痛な面持ちで真田が俺に部室で声をかけて以来道中、会話の一つも交えなかった。お通夜にでも行くのかとでも言いたいくらい真田は陰鬱に目を伏せ視線も落とし、唇を固く結び陰気くささをこれでもかと醸し出している。きっと本人が自覚しているよりずっと悲愴な姿だ。正直隣にいたくない気持ちでいっぱいである。見るのに忍びないからだ。特にそれ以外思うことも言いたいこともあるわけではないし、部活以外のこととなるとお喋りな性質というわけでもない気難しくだんまりを決め込む幼馴染とこちらが気遣わなければならない煩わしい沈黙を保ったままの最寄り駅へと着いた。痛々しく悲哀が漂う肩を落とした真田が罪を犯した者で、それを署まで何食わぬ顔で連行するのが俺、という構図にも見える気がしないでもない。
それはそれとして、ただただ本当に真田を連れてきてしまって良かったのか?との思いだけを自分の胸の中に秘める。いや、彼に着いて来ているのは俺の方なんだけれど。

でもの担任の先生から溜まったプリントや宿題を届けてくれと声をかけられたのは同じクラスの彼女の友人達と真田だけだ。きっと昨年出回った中等部での文化祭のゴシップから、教師陣の間でもと真田の交際は周知の事実なのだろう。俺にまで話が回ってこなかったのは、真田がの家にプリント類を届けると言い出したからだ。
しかし、今の真田の姿を見れば彼はまるでお呼びでない気もしてきた。まだ、彼にはに投げかける言葉が見つかっていないように俺には見えた。俺自身が着いて行くと言ったはずなのにこれで良いのだろうかと、自分にとっては珍しく優先順位のつけられない二択の間で淡い戸惑いと迷いが生じた。

の家は駅から徒歩約5分にも満たない立地のマンションだ。ここに来るのは、約一年ぶりだ。正確に言えば、の家を目的に赴くまでとなると約三年ともなる。どうしてこんなに足が遠のいてしまったかというと、やはり自分の病が大きな原因ではあるがに彼氏が出来たのも大きな理由の一つであった。久方ぶりに郊外の真ん中に聳える背の高い白い建物を見ると、記憶の中のよりもこじんまりとしている。なんだかとてもつもなく大きなビルのように昔は見えていたはずなんだけどな、俺も三年で随分身長が伸びたものだ。あの頃の俺はのこととなれば男子と女子の違いの意識もせず、右も左も分からない幼気な少年で純粋に彼女の家で楽しく遊んでいたっけ。の家はゲームや漫画なんかに厳しくて古いゲーム機しか置いておらず、今の時代では信じられないような歪な形のポリゴンのゲームで遊んでたっけな。なかなかそれが目新しくって、一面をクリアするのも難しかったものだから、お互いのプレイングにケチをつけてはくだらないことで笑い合って何だか楽しかった。

それがこんな用事で来ることになるとは、とマンションのエントランスの扉を真田が開く。すぐに閉まりかける扉に手をかける。重みはあのままだ。時が止まったかのようなエントランスだ、と俺はいつも思っていた。ガラス張りの向こう側に和モダンな小規模な庭があり敷石の中に苔が生えた景石が佇み、その苔はいつ見ても丁寧に形をビクとも崩さなかった。興味が湧いて、昔できる限りそれを近くで見てみたけれど、フェイクグリーンではなかった。吹きすさぶ中揺れる竹もあるのに、何故だかここに人が住んでいる息遣いなど感じられないと幼心に感じている時があったことを思い出す。
大理石を基調としたロビーでは大きな声を出してはいけない、とが真剣な顔で大真面目に囁き声になっていないよく通る声で俺に注意していたことも、そのどれもがまだ鮮明に頭に残っている。

管理人室を通り過ぎ、俺は真田を早足で追い越し割り込む形で厚い肩を追いやり、俺は慣れた手つきでオートロックのの家の部屋番号を押した。


「はい」
「幸村と真田です。さんの見舞いに来ました」
「あら、精市くんと真田くん!わざわざありがとう。ちょっと待ってね……今に伝えてくるから……」


小刻みな足音がオートロックの通話越しに聞こえてき、そうして間もなくその足音が再度近づいてきた。


は良いか分からないんだけど、せっかく来てくれたんだから上がっていって。美味しいお菓子もあるし」


久しぶりにの母親と話したが、歯に衣着せぬ方だという印象の記憶は寸分違わなかった。そう言われたらこちらは家に上がるのを遠慮することだろう、しかしこの人の場合はそういうわけではない。本当に言葉の裏などがない母親だ。普通ならばここで怯み出直すところだがしかし、今の俺に迷いはなかった。


「ではお言葉に甘えて、そちらに向かいます」
「はい、どうぞ」


相変わらずせっかちなおばさんだ、俺の言葉に躊躇うことなく二つ返事で了承しすぐに扉を開け通話を切った。扉が開き、あちらとこちらの境界線のようなエントランスを何の躊躇いもなく通り過ぎた。しかし、彼女から快い返事とは言えない言葉を宣告されたことに目を見張り、唇を震わせ踏み出そうとする一歩が重そうな阿呆を置いて行きたい気持ちが強まった。


「いくら母親に招かれたとて、から良いと承諾を得ていないのに会いに行くのはいかがなものかと俺は思うぞ」
「じゃあ真田、俺一人で行ってくるからロビーのソファーで待ってなよ。帰っててもいいし」
「なっ、帰るだと?!」
「静かにしてくれよ。とりあえず、俺一人で行くから」
「幸村ッ!」
「……は今、真田と一番会いたくないだろうから」


そう言えば彼の威勢もみるみるうちになくなり、ガクリと余計に肩を落とした。そうだ、置いていけばいいんだ。今のが真田の前で弱音を吐くわけがない。かといって、本来ならば脱兎の如く逃げ出したい気持ちをひた隠しにして必死で逃げ出そうとすまい彼女に対して真田が正面切って話し合いの場を無理くり展開するのを避けることもできない。すなわち、彼女は容易に四隅のどこかに追い詰められてしまうこととなるだろう。俺の説得の言葉が効いたのか、真田は無言で握りしめていた紙袋を差し出してきた。革張りの黒いソファーに腰を下ろし、ガラス張りの向こうを見つめていた。ガラスに反射して見える彼の瞳は、絶望に近い暗さを帯びていた。
がこれまでに他人を拒絶したことがあっただろうか、否、俺の観測史上一度たりともない。俺の記憶の中にある、幼稚園の頃からのはどんな人間でも自ら話しかけ輪を作り人々を受け容れていた。アメリカにいた頃の話を母親越しに聞くこともあったが当時から年下の面倒を進んで見る彼女は保護者受けも良く、俺が入院していた際もお年寄りと茶飲み友達になるなど子どもから大人まで彼女と親しみ深かったように俺自身も感じている。


だからきっとこれは、彼女の体から発信された初めての拒絶なのだ。


俺は項垂れる真田を振り返ることなく、彼女と昔よく鬼ごっこをした懐かしい道を進んだ。待つと決めたのならば辛抱強く待ってもらおう。
白い壁も、足音が妙に響く廊下もそのままだ。郷愁にかられるがまま階段を上がり、迷路と見紛いかねない道順を思い出す。の家の目印は、門にかけられた木で出来たカントリー調のウェルカムボードだった。音が遠く聞こえる静けさの残る廊下で、門を開けた時にキィと音が響くのが子どもながらにドキッとしたものだ。インターフォンを鳴らすと、家の中から忙しない足音が聞こえてきてすぐさま扉が開いた。そこには人の良い笑顔を浮かべる記憶の中にあるおばさんの顔がそのまま目の前にあった。


「精市くん、こんにちは」
「お邪魔します。お久しぶりです、おばさん」
「さあ上がって上がって、わざわざのためにありがとうね。あれ、真田くんは?」


の為にか……。本当にの為と思っているなら嫌がっている娘をよそに友人を上げたりしないんじゃないか?この様子だと娘を病院に連れて行かなければいけない事態かと把握しているのかも怪しくなってくる。の話から家族の話を切り貼りして自分を埋め尽くしていたこれまでの思いが疑念から確信へと変わっていく瞬間だった。俺は一応真田の体面のことを思い、すぐさま厄介事が起きないようおばさんが気に入るような答えに事実をほんの僅かにすり替えておいた。


「気を遣って俺だけをよこしてくれました」
「そうなの……。そんなに優しい子があの子の彼氏で良かったわ」
「おばさん、は部屋ですか?」
「ええ、精市くん達が来ることは伝えたのよ。でも返事がなくて」
「失礼します」


ここで事の深刻さを分かっていないおばさんと駄弁を弄している場合じゃない。代わり映えのない金縁の額に収まった味のある風景画が飾られたリビングにてお茶を淹れてもらったけれど早々と撤退した。


狭い廊下が、昔遊んでいた時よりもより狭く感じられた。の部屋に進むに連れ廊下は暗くなっていく。そうか。明かりが届かない世界に、普段から彼女はいたのだ。

鞄を肩から下ろし、灰色の扉の前に立つ。俺は少し溜め息をついて、右手を慎重に掲げた。音がなるべく響かないよう小さくノックすると、扉がダンッと大きな音を立てて揺れた。そして開く気配など微塵もなかった。思うところがあって扉に手を這わせると彼女が……扉のすぐ向こう側に座り込み必死に侵入者が入ってこないよう拒絶しているのだとすぐに分かった。もう一度彼女の心に呼びかけるようにノックを三回、先程より小さく鳴らした。


「……?俺だけど」
「……」
「……俺だけだから開けてくれないかな」


が扉の前から退いたのがこちら側まで発せられている圧迫感のある警戒心が遠のいたことで分かった。返事はないままだけど、再び扉を触り扉にかけられた彼女の体重がなくなったことを悟るとようやく彼女の心にあるドアの取っ手に手をかけることが許されたのだと知る。俺は音を立てないよう緊張しながら扉を開けた。電気が点いていない。カーテンから微かに透ける光だけが、俺の視界に映る明かりだった。しかしそれも心許ない。

昔は日が暮れ始めた時のの部屋は、長四角に狭くて秘密基地みたいだと思っていた。彼女の好きな物ばかりが溢れる雑然とした手狭な部屋。広い自室を持つ自身にとっては対極的な空間なのに妙に落ち着けて、よくカーペットの上で寝転がりながら天井に向かって好き好きに話をしていたっけ。

でも今は……。改めて今この部屋に入った今、ここは彼女の箱庭で牢獄なのだと感じた。ここに彼女は閉じ込められているし、自分の意思で閉じこもってもいる。唯一彼女の心を避難させることの出来るシェルターでもあるし、迫る白い壁で囲われた魂の獄所でもある。だって、部屋の奥にある窓がこんなにも小さかっただなんてあの頃は思いもしなかったんだーー。


薄暗闇の先、最奥にあるベッドに腰掛け扉側にいる俺から壁に飾られたカラフルな服を着た異国の人々のポストカードに目を背け、だぶだぶなTシャツとシンプルなショートパンツ姿の彼女がいた。





俺の声は、彼女に届くだろうか。


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