それは遅効性の毒
これを……嫉妬というのだろう。
俺は以前からから感じる違和感を徐々に募らせていた。思い返せばが仮入部をテニス部に決めかねていた頃かもしれない。剣道の市民大会で準優勝したことを報告されていなかったことから、小さなわだかまりが生まれていたように思う。のことをよく知らない、長年一緒にいたはずなのに彼女自身を知っているかといえば……、幸村と蓮二に比べれば毛の先ほどもない。
そうだ、蓮二だ。
幸村は彼女の幼馴染であり、随一親しい友人でもある。よく一緒に他愛もない話で大笑いしていたり昼食も頻繁に一緒に取っていたりなど俺よりも親密度が高いように見え、それが羨ましいとは密かに思えど、俺と幸村がそうであるというように幼馴染二人にしか分かり得ぬ特有の世界があると感じている。しかし、蓮二は違った。蓮二と俺のスタートラインは同じだ。同じクラスに同じ部活、を我が部のマネージャーとして育て上げる教育係だったことも一緒だったはずだ。
それがこうもかけ離れたもののように思えるとは……。が合宿へ向かうバスの中で無防備に寝ている姿を横目で見た時から……嫉妬の怪物が心を荒れ狂わせた。
すやすやと蓮二の前で無防備に眠る彼女を見るのはその一度だけではなかったからだ。
クラス替え、蓮二とが同じクラスとなり俺とは再び別々となった。幾度か用事があり、の下を訪れば蓮二が傍に座っておりがその横で安らかに眠っている。そういうことが、一度だけでなく二度三度あった。蓮二は特に意に介せず、「疲れているようだ」と言ってを起こそうともしなかったし、起こそうとする俺をやんわりと制止もした。彼女の身の回りで俺の知らない何かが起きている、という確信はそれだけでは得られずにいた。静かな違和感が、小さく降り積もっていく。
マネージャーとして慌ただしく日々を過ごすと俺には、隔たりがあるようにすれ違いの日々を過ごしていた。選手とマネージャー、役割が違うので当たり前のことなのだが昨年の一体感を考えると彼女がこうも遠く感じるのには不思議でたまらなかった。昼休み、一緒に昼食はどうだと言えば蓮二と打ち合わせなの、ごめんねと何度か断られたことも記憶に新しい。これから県、関東、全国大会へ向けて互いに切磋琢磨し最高の試合で勝ち抜いていこうという気持ちは同じだった、だから彼女の気持ちを疑うことすらなかった。
だが蓮二は違った。の事情を詳しく知っており、それもまたおかしなことではなかった。蓮二はマネージャーの仕事もいくつか兼任しているのだから。それでも俺はそのことにいつも納得していたし、そういう役割なのだからと割り切っているつもりだった。しかし……人間の心はそう簡単に思うようにいかぬようだ。殊更、恋い慕う者の事となると。
の傍にいたいと、その時間をどうにか増やせないかと思いを巡らせど、忙しそうにしている彼女の姿を見てはその言葉を飲み込む。
が俺のことを想ってくれているという事実は、U-17の合宿以降にくれる手紙でもしかと感じていたし、帰国してからも変わらぬ彼女の笑顔に温もりを覚えていた。親に紹介すると言った時も驚きさえすれど、嬉しそうにしていたし俺もまた彼女の家にお呼ばれになった。そんな事実は積み重ねていたのに……、交際とはそういうものだと思っていたが何かが決定的に違っていた。歯車は狂いだしていた。
珍しく二人で帰宅した際も手を繋げば満足そうには微笑み、いつもと変わらず元気に明るく日々のことを楽しそうに話してくれた。そして、それでいいと俺は思っていた。彼女を深く追い求める自分の欲求とは裏腹に、明るく笑いかけてくれる彼女と過ごす時間以上の幸福が必要あるかどうか分からなかったからだ。それに……強くを欲する俺はひどく不埒な獣だと分かっていたからだ。だが俺は……彼女の体だけでもなく心も欲しかった。そして、高等部へ上がってからというもの、の心の方には蓮二が俺よりも近い場所にいるのではないかと感じたのだ。の隣に蓮二がいなかった時などなかったように感じる。いつも二人で部について真剣に審議しており、相変わらず部活熱心な二人だったがそこに入りきれない絆が出来つつあるように見えた。俺の前で肩の力を抜かず微睡むこともないは蓮二の前では安らかに寝息を立てて眠り込めたのだ。にとって必要な何かを蓮二は持っていたかのように思う。それでいて蓮二は……未だにに想いを寄せているのかもしれないという事実。
それでは俺との関係性の方が歪なのではないか?
ただ手を取り合って彼女の本音も知らず笑いかける関係の方が薄っぺらなのではないか。
よしんば蓮二がに想いを寄せていようとも、の俺への想いに微塵も疑念はなかったが……。それでも蓮二の方が俺よりもずっとの一番に近いのではないかと不安が尽きなくなったのはいつのことだろうか。何故ならば、彼女を支えているのは明らかに蓮二の方だった。それは紛れもない事実であり、俺は到底それには及ばなかったのだ。
ただは、俺への好意のある表現は欠かさずしてくれていたし、その好意が真っ直ぐ己に向けられたものと信じられる程恵まれた愛を俺は享受しているのにも関わらずーー。
己が未熟なあまりか、がどんどん蓮二との独自の世界を創り始めているように錯覚を覚えたのだ。
そうだ、俺は嫉妬していた。
マネージャー業で、中学生以来のパートナーシップを育み、それに準じていただけであろう二人に俺は嫉妬していた。何も口出し出来ない己に歯痒さを感じ、マネージャーとして口利きの出来る蓮二との二人の関係性に筆舌に尽くし難い思いを抱いていたのを否定出来なかった。それが立海大附属を優勝へと導く道だったとしても……。いつからこんなに己は仲間への猜疑心を抱えることとなってしまったのだろうか。なんと情けない。なんと邪な。なんと破廉恥な。
だが自分を責めたところで事実がどうなるわけでもなく、自身の醜い感情を認めざるを得なかった。何故そんな大事な情報を共有してくれなかったのだと、何が問題でひどく頭を痛めているのだと。どうしてがそれを一人で背負い苦しんでいるのかと。俺は、独りぽっちで力の無い人間だと知らしめられたかのようだった。
……そして、それは彼女の一滴の涙を見た瞬間に、心の臓を突かれたように痛く思い知らされた。彼女が俺に涙を見せたのは、後にも先にも幸村の病や手術に纏わる事のみだった。
そうしてよくよく考えてみると、自身、彼女自身が抱える悩みや弱音を吐くことは……出逢ってから今まで一度たりともなかったのだ。
合宿の次の日、放課後に緊急ミーティングが開かれ結局新マネージャーは謹慎を一週間言い渡された。それに決定を下したのは部長、副部長とマネージャー達だ。が傷ついているのは鈍いと揶揄される俺でさえ分かりきったことだった。顔色も優れなく、俺と目を合わせようともしない。今朝に話しかけようとすれば、「なに?」と震えた力のない笑顔を見せる。それが無理して笑っている顔なのだと、今日になって初めて気がついた。まるでマネージャーとしてだけなら、話を聞くと言われているかのようだった。
そして、にそのような他人行儀な態度を取られるのは己の発言が原因であることは明々白々であった。
「どうして何も言わなかった」
「何を」
白々しい。緊急ミーティング直後に俺は蓮二に詰め寄った。こんなにも分かりきったことを尋ね返す者がいるか、と言いたいところだった。こういうことが起こる可能性を、蓮二は分かっていたはずだ。自宅待機を言い渡したのも蓮二だというし、新マネージャーには問題だらけだというのもわずかに幸村の証言を聞くことが出来てようやく判明したのだ。
「この件をお前に伝えなくとも、事の顛末は変わっていなかったはずだ。むしろ悪化する可能性の方こそ強かった。緒環はお前を上手く避けていたのがむしろ不幸中の幸いとも言える。お前がみだりに怒鳴り散らせば彼女の苛立ちが部全体へ波及したことだろう」
「それでは最初から緒環をマネージャーにする危険性を考慮すべきではなかったのか?!」
「充分考慮した。そして俺は反対した。しかしが彼女を自分の下につけると言い出した。昨年の人手不足の件もあってか、なかなかその姿勢を譲らずといったところか。それに弦一郎、俺に怒りをぶつけたところで事態は何も変わらない」
「俺がお前に?」
「ああ、お前のはただの八つ当たりだ。部の内情を把握出来ず、マネージャーとして部に尽力してくれているを深く傷つけたことへのな。と交際しているのはお前なのだから、今後はお前も自身をその目で見ておくことだな」
蓮二の言葉と、鋭い眼差しが己の胸の鼓動を一段と重く響かせた。ぐうの音も出ない。蓮二の言うことは頭から尻まで正しく、そして俺のやっていることは彼の言う通りただの妬みから来る見苦しいもがきだった。後悔先に立たず、としか言いようがない。喉に言葉が詰まり、普段よりも友人の苦い忠告に口を開きかけた。
「……お前はのことを好きなのか、と俺に言う」
「……それでは」
「そんなことを気にしている場合か、と返したいところだな」
ーーそうだ。こんな自分のちんけな思いに振り回されている場合ではない。
、は何処だ?!ふらついた足取りで、いつものように真っ白な洗濯物の山を一人で抱えていたはずだ。一昨日抱きしめた肩が、以前のよりも薄く感じた感覚は間違っていないはずだ。
謝らなければならない。謝って……、だがそしてどうする?謝って、彼女の心が……それを受け入れてくれるというのか?そうだ、受け入れてくれはするだろう。そうしてまた俺を許すのだ。いとも簡単に俺は許される。彼女は、いつも俺にそうしてきた。俺がをひどく傷つける言葉や態度を取ったとしても……は、いつだって笑って許してくれるのだ。何故、そんなに俺を甘やかす?激しい怒りを覚え叫びたくなった時、悲しみで深く傷ついた心の癒えを必要とする時、何故俺にそう言わなかった?!
コートにの姿が見えない。洗濯場には旗のように干されたタオルが所狭しと並べられている。風に煽られ、一枚タオルがひっくり返り、飛ばされそうになった。俺は慌てて洗濯バサミでそれをつまみ直し辺りを見回す。休憩時間は終わり、もう練習に入る時間だ。でもの姿が何処にも見えない。水飲み場やベンチの辺りを回ってもいない。ゴミ捨て場にもいない。足が必死にが普段居る場所場所へと駆けて行った。
俺達の練習の間、は大抵コートに居る。しかし、ここまでいないとなれば、最早探すところは一つしかーー。
そして向かった先は、いつもの部室だった。自身の焦りが見えるように力強く叩くように拳でノックをする。返事はない。誰もいないということか、俺は躊躇わずに勢いよく扉を開いた。しかし、目の前には想定し得る以上の最悪の光景が広がっていた。
が床に身を投げ出し、その身体を痙攣させていた。頭の付近にバケツが一緒に転がっている。下腹部を抑え、血走った目には涙が滲み、顔には脂汗をかきその周りに髪が貼りつき苦しそうに呻いていた。
その瞬間、無意識にも自分の幼馴染が倒れた瞬間がフラッシュバックしたーー。
「ウッ……アアッ……」
「、どうした、!!」
「アッ……ウッ」
「喋るな、救急車を呼ぶぞ!!」
「まっ……、いい……」
苦悶の表情を浮かべ下腹部を抱え必死で肩で呼吸を激しく繰り返し、は何とか立ち上がろうとしていた。俺が「いや、呼ぶぞ!」とロッカーにある携帯電話を取りに行こうとすると、凄まじい力で抑えつけられた。爪が俺の脚の肉に食い込む。その手は汗でびっしょりと濡れていた。
「せーりつー……、……ほけん、しつ……」
「せーりつー……せいりつう……。せ、生理痛?!」
床には錠剤が入っていたであろう屑と水筒も転がっていた。俺はの尋常じゃない姿を見て、その上全く身の覚えがない言葉と共に錯乱していた。今、は生理痛と言ったのか……?いや、その前に……毎月来るはずの月経痛でこんな風になってしまうのか?
「おねが……ほけん、しつ……」
「分かった、保健室だな?!」
俺は必死の思いでの上体をゆっくり起こし、背と脚に腕を回して抱え上げた。行儀は悪いがそのまま足でドアを引っ掛け壁に扉を叩きつけるように開き、をすぐさま保健室で休ませなければという思いの一心で、痩せた彼女の重みを忘れまいと部室棟から手っ取り早くテニスコートの間を突っ切り二号館にある保健室へと駆け抜けて行った。その間、はウッと苦しげに喉を詰まらせながら、屈んで腹部を抑え込んでいた。
両手が塞がっているが故、再び足で引き戸の保健室の扉を開けるとガシャンと凄まじい音が立ってしまい「何事なの?!」と回転椅子でこちらに振り向く保健の先生が声を荒らげた。
「急患です、先生。生理痛で倒れていました」
「まあまあまあ、それは大変。薬は?飲んだの?」
「飲んだと思います」
「ほとんど空きベッドだから、一番手前のにおろしてあげなさい」
息を切らしながら、涼しい保健室のベッドへをそっと下ろした。先程は痙攣に加えひどく強張っていた体だったが、今度はひどく疲れたようにぐったりと力無く四肢を投げ出している。抱えている間は顔が見えなかったが、未だ痛みは続いているのか眉間の皺が濃く、目は固く瞑られ睫毛が震えていた。上下する胸は速く、呼吸が浅い。
「名前と学年は……」
「高等部、一年のです。先生、救急車は呼ばなくても大丈夫なのでしょうか?!」
「生理痛なら呼ばなくても大丈夫だわ。あら、あなたそういえば以前もこの子と……」
俺達が来た時刻と症状を紙に書き込みながら、俺との顔を見比べ、先生は何か合点が行ったのか宙に向かって一人頷いていた。
「君、あの有名なテニス部の真田くんね。もしかしてさんの彼氏?」
「ええ、そうですが、そんなことより……」
「あ~、やっぱりそう。この前も一緒に来てたものね」
「それよりも先生、応急処置は……」
「薬飲んだのなら今は休ませるしかないわ。こんなに生理が重いのなら病院へ行った方がいいわね。顔も真っ青だし、意識も朦朧としてるみたいだし……」
「は病気なんですか?!」
俺はつんのめって先生を問い詰めると、先生は「落ち着きなさい」と手を振りながら微笑み、穏やかに言い放った。交際している大事な彼女の意識が混濁しているというのに、一体全体どうやってこの事態に落ち着いていられるというのだ?!
「それは診てもらわないと分からないわねえ。でもこんなに酷い様子じゃ、普通の生理痛ではないわね。それで、倒れた当時はどんな様子だったの?」
「今よりもひどい顔色で痙攣していました、えずいた様子もありました。先生、普通ではないとはどういうことですか?!」
「私にも判断つきかねることよ。ここまで酷い症例だと専門家に診てもらわないと……」
「専門家に……」
「飲んだ薬は何か分かる?水は?」
「倒れた後に彼女を見つけたものですから……、水は飲んだ形跡がありました」
「そう、ありがとう。じゃ、後は任せてちょうだい」
「いえ、が落ち着くまでここにいさせて下さい」
「そう?じゃあ椅子を用意するわね。くれぐれも静かに」
先生はそう言ってパイプ椅子をのベッドの傍に設置してくれた。椅子を引き、言われたとおりそこに静かに腰を下ろす。心なしか、ベッドへ運んできた時よりも眉間の皺も和らいでいる気がする。いつも俺の頬に口づけを落とす愛らしい唇も幾分か緩んでいる。以前はふっくらとしてよく赤くなっていた頬は、今はまるで血色がなく肉がこそげ落ちたように痩せ肌は透けたように青いまま。毎日顔を合わせていたからこそ、その変化に気づけなかった。彼女を抱えた時に掠めた思い……、果たして彼女の体に栄養はきちんと行き渡っているのだろうかと疑う程の頼りのない骨ばった肩。俺の掌で掴めそうなくらいの小さい顔。それをこんな状態になるまで気づかなかった俺は……無様だ。
汗の引いた彼女の柔らかな手を取り、さすった。カーテンから透けて入ってくる僅かな光の中で後悔の念に苛まれ、彼女の寝顔を見つめてしばらく、ようやくは俺が傍にいることに気づいたのか薄目を開けてか細く声を上げた。弱々しいが光を宿し、生気を取り戻した目だ。
「げんいちろ……」
「いいから今は休め。まだ痛むのか?」
「めいわくかけて……ごめんなさい、もう……いいから」
「迷惑なんぞ思うわけがなかろう。お前が良くなるまでここにいる。だから、とにかく休め」
「はやく、れんしゅ……」
未だ眉根を寄せたままは小さく首を振り、手を引っ込めするりと俺のから逃れた。そして間もなく、保健室の扉が開かれる音がした。馴染みのある声が先生へと挨拶をする。ほどなくして薄く揺らぐカーテンの向こう側から声がかかった。俺は呼ばれるがまま、カーテンの向こう側へ出た。
「の荷物を持ってきたよ」
「助かった。しかし何故ここにいることが分かった?」
「真田がすごい形相でを抱えてコートを突っ切って行ったんじゃないか。柳に監督へ報告させてある。今日はもう早退でいいそうだ」
「……そうか」
「、入るよ。体調はどう?」
幸村は俺の座っていたパイプ椅子に座り、優しくも悲しそうな声色で幼馴染を気遣った。
「せっちゃん……だいじょぶだよ……」
「これを大丈夫とは言わないよ。の大丈夫は信頼ならない。痛みが和らいだら大事を取って家で休むんだよ。おばさんには連絡した?」
「……してないけど……ひとりでかえれる」
「それはならん!俺が家まで送り届ける!!」
「君達もう少し静かに話しなさい」と保健の先生からお小言を食らってしまった。注意されたことを意に介することなく幸村は神妙な顔つきで、の顔を覗き込んだ。
「真田に送ってもらった方がいい」
「だから……おおごとにしすぎだって。って、イチチ……」
「ほら、良くない。おばさんに迎えに来てもらうか、真田に送ってもらうかだね」
「さん、起きたの?症状の詳細を教えてちょうだい」
俺は気まずく黙ったまま腕を組んで俯いていた。きっと蓮二もの不調を知っていたに違いない。あいつが手際よく早退の手続きをしたとなると、原因は分かっているということに違いないのだろう。……となると、本当に何も知らずにいたのは俺だけとなる。
……とんだ大馬鹿者だ、俺は。
深い罪悪感を覚えながら、幸村から預かったのチャラチャラした装飾がついた鞄を抱える手に力が入った。見た目にかまけているようでいて、全ての教科の参考書にノートや部誌を几帳面に毎日持ち帰る彼女の鞄の重みが俺の胸にのしかかっているような気さえした。
「痛み止めを飲んで……約20分、と。目眩と、震え、手足の痺れ、下腹部の鈍痛、吐き気……ね。本当にひどいわね。さっきお話してたみたいにお家の人に来てもらうか、彼氏くんに家まで送ってもらった方がいいと思うわよ」
「いえ……いいんです。もう痛みは大分引いてきてるし、彼には練習があるので……。あと少し休んだら、一人で帰れます。母には連絡しておきますので……」
「そう。でもそこまでひどい痛みが痛み止めだけで収まるのかしら?病院で診てもらうことを強くお勧めするわ」
途端、は押し黙ってしまった。保健の先生はため息をつきながら、「長居しないで話すこと話したら出ていくように」とだけ俺達に言い残してベッドが並んでいる部屋の隣の方に引っ込んでしまった。
「じゃ、ふたりとも……練習、もどってね」
「だがしかし、……」
「県大会もあるんだからね。マネージャーの厳命です」
「でも、せめておばさんには今すぐにでも連絡しなきゃいけないよ」
「連絡するする。はい、練習戻った戻った。ほら、もうこ~んなにペラペラ喋れるし、だいじょうだいじょうぶ。もう痛みもマシになってきたし、我が代の期待のホープ達は早く練習戻ってよね?」
ほんの少し前に倒れた張本人は未だ優れない顔色のまま、ぱんぱんと軽く手を叩き俺達に半ば無理矢理コートへ戻るよう促した。こうなったに口を出すのは幸村でも難しい。
確かに半刻前に喋るのが困難だった状態とは打って変わって口調は、いつも通りに近い。しかし、かといって幸村の言う通りの言う「大丈夫」を容易く信じていいかは判断がつかなかった。だとしても、ただただ彼女の傍にいたいという今のこの気持ちはこの場を去るのを躊躇いたくなるくらいには強かった。
「あたしのために誰かが練習を休むなんて言語道断、あってはなりません」
「、こういう時は休むこともまた仕事なんだ。何よりも体が資本だってことは分かっているね?俺達を100パーセントのコンディションで支える為には休む時はしっかり休むこと」
「はい、ちゃんと休みますのでお二方は練習に戻って下さい」
幸村は甚く呆れた様子でため息をつき、「家に着いたらメッセージをくれ」とつっけんどんに言い放ち早足で俺を置いてとっとと出ていってしまった。幸村にしては珍しく、感情を顕にして怒っているようだった。
「……また今度話したいことがある」
「……はい、じゃね」
今までで感じたことのある彼女の言動の中で一番他人行儀にピシャッとカーテンを閉められ、追い出されてしまった。「荷物はここに置いておくぞ」と近くにあった椅子に鞄を置き小さな声で伝えると、「んー」と低く唸ったぞんざいな返事しか返ってこなかった。薄布一枚の隔たりが、俺にとの距離を感じさせていた。風に揺られる黄ばんだ布地が、の心をも覆い隠していた。
「それでは宜しくお願いします」
散々騒いでしまったことを少々悪く思いつつ会釈をし、今度はゆっくり静かに戸を開け引いた。ぱたん、と小さな音を立てて保健室の扉が閉まった瞬間、の心の扉も閉ざされたのかもしれない。
それから一週間、は学校を休んだ。
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