引き金は引かれる・前


ガタガタと横揺れがするほど舗装されてない山道に差し掛かった。いつもだったらここで合宿の段取りを打ち合わせしているはずだが、乗り込んだ直後からは半目で頷くことだけに徹するくらいには疲労していたので合宿所に着くまでリラックスしていろ、とのみ告げた。見た目よりもずっと神経質なきらいがある彼女は部の喧騒から逃れるようにイヤフォンをし、アイマスクをして窓に肩を預け眠り込んでいた。の部活動以外での集中力や注意力の低下は著しく、7月の期末考査が既に危ぶまれる。しかし、まずは今回の合宿と間もなく行われる県大会を念頭に置かなかればならなかった。緒環には先輩と別のバスに乗車してもらうことになり、先輩がどうにか緒環の険悪な態度を御してくれるといいのだが……の時よりも意思の疎通が取れていないあの二人のことだ、出来ていない可能性の方が高い。
席順は俺とで大体管理しており、部の取りまとめなどがある為マネージャーは前方に座っていることが多い。だが滅多にないの私情を挟んだ形で弦一郎の真後ろの席に俺達を追いやった。大いなる戦力として部を率いる弦一郎や精市が前方部に座るのに何ら問題はなく「一番前なんて久しぶりだ」だなんて精市は童心を思い出したように喜んでいた。マネージャーとしての責務は果たしたいが、弱っている自分を弦一郎の視界には入れたくないという私情の挟み方がなんともらしいが、彼の彼女としての立場を考えるといささか疑問に思う対応である。

それはさておき、約20分後に合宿所に着くことを知らせる並木が見えてきたので、深く眠り込んでいる彼女の肩を驚かせない程度に軽く叩いた。突如首を震わせ紙のアイマスクを勢いよく剥ぎ取り、ポータブルミュージックプレーヤーを止めて眠気などなかったかのように瞳を大きく開かせ瞬いた。


「着いた?!」
「まだ18分はあるぞ」
「ああ、そうなの……ありがとう」


彼女の性からすれば早めに起こして良かったのだろうが、明らかにまだ休み足りていないのであろう、大きな欠伸を噛み殺して弦一郎に気付かれないようせめてものあがきを見せていた。弦一郎はさておき、精市はそれにしっかりと気づいていたようで幼馴染へ意味ありげな含み笑いを込めた視線を窓越しに送っている。


「もう片方のバス、大丈夫かな……」
「心配するのは着いてからでも遅くはないだろう。休むのも仕事のうちだぞ」
「蓮二は男子だからそう言えるんだよ。女子一人しかいないんだよ、ここ」


からここ最近の不満からの正論が繰り出されたので、ぐうの音も出なかった。ここまで弱気な台詞が出るのも最近の疲れがたたってのことか、と黙り込んでいると「ううん、ごめんね。大丈夫」と眉を下げ目を逸らしながら気まずそうに謝ってきた。俺は小さく笑い、気にしていないと首を振る。彼女が「あーあ」と声に出して大きくため息を吐いたところを弦一郎が斜め後ろの彼女に何が起きたかと席と席の間から目線をよこしたのでは不自然にも「で、点呼のあと荷物を部屋に置きに行くけど~」と明るい声で誤魔化しつつ最終確認をしだす有様なのだった。


それはそれとて無事合宿所に着き、思い思い部員達は荷物を下ろし、俺と緒環に先輩との二手に分かれて点呼を取った。しかしそんな簡単とも思えることにも、魔手が潜んでいた。


「緒環」
「……ぃ」
「緒環」
「……ぁぃ」
「緒環はいないのか」
「ハイって言ってんしょ、あんた耳悪いの?!」


開幕早々、前途多難である。点呼の時点でこれだ。と約束をした一月は優に超え、未だに緒環は部のマネージャーの座に居座っていた。そろそろマネージャー業のハードさに根を上げ辞める可能性もあったが、仁王に思った以上に執着し意地で部に留まっているようにもみえる。何度か彼女を試すよう仕事量を増やすなどの調整を行っていたが、ピンチとなると人の良いに彼女が泣きつくことが定番化してしまい更にの仕事が増え無駄骨に終わってしまっていた。
此度は先輩と二人きりにされ仁王と離されてしまい機嫌が良いとは言えない緒環は、意中の人間が近くにいないからというもの油断しきっている様子である。元々声が小さく全く聞き取られないことに苛立ちを隠せていなかったがこうもまた噛みつかれるとはな。俺の点呼だからなのか、このような余計につけあがった態度といえる。普段からこのくらいの威勢で声を張り上げればいいものの……。部員の規模が中学の時よりも断然多く、二グループに分けて点呼しているが離れたもう一方のグループを見やればは先程の気怠げな態度など物ともせずいつものように張り切って大声で皆の名前を読み上げている。部員の返事も聞き逃さない。全く、この二人にもあれくらいの気概があってほしいものだ。


「じゃあみなさん各々の部屋に荷物運んだらコートに一旦集合です!15分後に集合お願いします!」


遠くからでもよく聞こえる通ったの声掛けに男子部員の揃った返事が揃い駐車場に轟く。三年生までいるというのに、須らく皆の言うことを聞く状況に先輩があまり良い顔をしていない状況は充分把握していたつもりではいた。だがしかし、この後に起きる俺でさえ想像の範疇を超える破廉恥極まりない無秩序の悲劇が起きるとは想像だにしなかった。








* * *









高校初めて合宿、なんだか昔みたいにはっちゃけられたのも呑気なもんだったんだなと感じる。もう疲れすぎて疲れすぎて、普段絶対できないけどバスでの爆睡。それも弦一郎に見られる不安のない彼の後部座席を確保し、ホットアイマスクとイヤフォンのせっちゃんの鉄壁ガード。せっちゃんが何でガードだって?弦一郎の注意をずっと引きつけてくれる役だよ!メッセージで『寝たいから弦一郎がこちらを見ないようお願いします』と打てば、『わかった』とシンプルに一言のみで返された。何でこっちを見ないでほしいのか本当に分かってるのかどうかを普段だったら不安すぎて理由までつけて駄目押しでもう一度説明するけど、疲れに疲れ果てていたあたしは諦めてせっちゃんに任せることにしたのだった。


結果、少し寝られたし山奥まで来て爽快な空気をたっぷり吸い込むとなんだかやる気がみなぎってきた!合宿の部屋割だけがめちゃくちゃネックだけど……、と自分の荷物を置いて内心深いため息をつきながら隣のベッドに眠る予定の緒環さんの荷物を見つめる。先輩が一人部屋を勝ち取るのは当たり前のことなので、あたしは必然的に彼女のお守り役、ということなのだと思う。何か起きるだなんて考えたくもないし起こさせないけど、ここは山奥の合宿所!やることと言ったら部活動、青春、汗と涙よ!!


と思い気を張りながら準備運動、素振り、ランニングにフォームとステップの確認、サーブ練習、リターン&ラリー、練習試合とトントン拍子に進んでいっていたのに大満足していたところに、トラブルの種と言わんばかりに冷や汗をかいた柳生があたしの元を訪れていた。顎を擦り、眼鏡のつるまで落ち着きなく触るのでこれは何かあったのだろうと思いはした、が。彼のダブルスパートナーじゃなく柳生だったので、あたしも落ち着いて笑顔で「柳生、どうしたの?」と声をかけた。


「それが、どうやら緒環さんの機嫌を損ねてしまったみたいで……」
「ああ、緒環さんのことか……」


まあ、機嫌はどちらかというといつもそこまで良くない彼女だから驚きはしなかった。ただし、柳生は少し焦った様子で視線を外している。


「私が少々厳しく言い過ぎたのが問題なのかと思います。仁王君のことばかり尋ねるので、マネージャー業に専念してほしいと痺れを切らしたのが悪かったのでしょうか……」
「いや、柳生は全然悪くないと思う。そんなに気にしなくて大丈夫だよ。ていうか、ダブルスパートナーの柳生にまで……ごめん、あたしからちゃんと言っとくね」
「お手数をおかけします。彼女にもさんを見習ってほしいものです。部員とマネージャーの関係と個人的な好意は別物だと」
「アハハ、ありがと。全国優勝はあたしの目標でもあるからね」
「心強い限りです、それでは練習に戻ります」


小さく会釈した柳生はコートへ駆けていった。彼女が来てからそろそろ二ヶ月、流石に緒環さんが仁王を追い回してるのは何人かの部員が気づいていた。その中でも部内の空気の淀みにすぐ気づいた柳生やブン太は何かとあたしに緒環さんの問題行動を報告されていた。ブン太は一度注意したところめちゃくちゃでかい舌打ちを返されたといっておかんむりだったこともある。
不機嫌なのを全く隠そうともしない彼女に呆れつつ、彼女もそういつも不機嫌なわけではないというのも知っているのも事実だった。あたしと二人で仕事してる時は普通に受け答えしてくれるし、雑談を交えながら言ったことはやってくれる。でもその分、言い方を考えなければならないのだ。わざわざあたしの仕事量を多めにアピールした後に「お願いしてもいい?」と緒環さんに尋ねるのが指示する時の常套手段だった。決してあたしの方の立場が上ではなく、むしろちょっと下なんじゃないかと思わせると緒環さんの機嫌を損ねにくい……気がする。舌打ちの頻度が下がった気がする。この裏技を覚えたあと蓮二と共有したのだけれど、蓮二の方はどうやらうまくいっていないらしい。
……ハッ、もしやあたしはバカにされているのか?!
ま、でもそれで仕事してもらえるんだし自分の手で転がしてるようなもんだし~とやり口が汚いことを棚に上げる始末。それにあたしは先輩とだっていがみ合う気なんてさらさらない。どうしてこう仲良くうまく協調性を持って仕事できないのかなぁ?!ストレスをぶつけるように洗い終え陽に透ける真っ白なタオルを勢いよくパン、と張った。グループワーク、グループワーク!そう我らは立海大附属、全国ナンバーワン!!


、疲れとるんか?」
「へ?」


どこからともなく現れた仁王にいきなり心配されてしまい、思わず間抜けな声が出ずにはいられなかった。


「"我らは立海大附属、全国ナンバーワン!"って大きな独り言、口から出とったがの」
「え、口に出てた?」
「……よっぽど疲れとるんじゃな。心配しなさんな、言われなくとも分かっちょる。おまんは自分のことだけ心配しときんさい」
「そうだけどさ……」
「文字通りじゃき、俺はこの通りピンピンしとるからの」


緒環さんのターゲットにされてて疲弊してるのは仁王なのに?とは大きな声では言えなかった。仁王は軽くポンポンとあたしの肩を叩く。そしてひらりひらりと一つにくくった髪を靡かせて風のように去っていった。と、思えば同時に緒環さんがこちらに向かって猛ダッシュで駆けてきた。部活中の移動、いつもあれくらいの必死さで移動してくれればいいのになぁ……。我らは立海大附属全国ナンバーワン、だがしかしその道のりは険しい。








* * *









梅雨に入る前の夜風が涼しい。その上山の中を吹く風は、爽やかで心が洗われるくらい清々しかった。夜の点呼を終え、消灯時間1時間を切った頃彼にとって夜分も遅い頃でもあるというのに呼び出しの連絡があった。そう、珍しく弦一郎から。
ペンションの一階に、窓から出られる庭があった。そこのベンチにて待つとの言葉があったので、あたしは何か用事あったかしらだなんて思いながら弦一郎にずっと渡そうと思って忘れていた差し入れを手に少し暗い廊下を照らす自販機を通り過ぎ、月明かりの中Tシャツを着た弦一郎の背を確認した。……なんだかいつもよりも少し淋しげな背なのはどうしてだろう。


「お月様、綺麗だね。でもこんなところに呼び出して……何か用事あった?」
「用事は……ないが」


弦一郎にしては歯切れの悪い返事だった。……頬を染め黙り込んでしまった弦一郎にベンチをぽんぽんと叩き座るよう促した。


「ここ最近ゆっくりお前の顔を見ていないと思ってな」
「え、そう?そうだったかな……ごめんね、最近忙しくて……」
「忙しいのは見ていれば分かる。お前のせいではない」


あたしのこと見ててくれてたんだ、と嬉しくなった。でも確かに言われてみればここ2ヶ月近く弦一郎のクラスに会いに行くこととかほぼなかったかも。弦一郎が数度クラスに訪れたこともあったけど、それも部活関連の用事だったりしたし。部活中、あたしはだいたい部長や蓮二と話し込むことはあって弦一郎とは両手の指に満たない程度にしか一緒に帰っていない。朝の通学は仕事柄、あたしの方の到着時間が早いことが多いので部活が始まるのに丁度いいオンタイム通学の時でしか同じ通学路を歩くこともなかった。それでも部活中、隙があれば弦一郎のことばかり見ていたのは変わらずだったと思うけれど。……その隙も最近は少なかったんだっけ。


「県大会終われば関東大会もすぐだし、忙しいのはみんな同じだもんね」
「そうだな」


弦一郎の笑顔は少し安堵の色を浮かべていた。


「あ、これ。渡そうと思ってたんだけどなかなか渡せなくて。日焼け止めスプレー、弦一郎帽子被らなくなったでしょ?そのままだと地肌が日焼けするかなと思って……」
「そうか。それは気づかなかった。ありがとう、いつも気が利くな」
「いえいえ。伊達にマネ歴4年目やってませんから!」


あたしがわざと得意げな顔をして笑うと、弦一郎は目尻を緩めて薄着のあたしの肩を引き寄せた。ちょっとちょっと、あたしまだ心の準備できてないんですけど。というかおちゃらけていたつもりなんだけど……、弦一郎ってばどうしちゃったの?ドキドキと高鳴る鼓動が、全身を熱くさせる。弦一郎の大きな手があまりにも肩を力強く抱くものだから、あたしはそのまま弦一郎の背に腕を回して就寝前の汗も綺麗にさっぱり流した新鮮な石鹸の香りのする弦一郎の胸に顔を埋め擦り寄った。


「……寝る前のセロトニン生成」
「全く、またお前はそんな事を」
「……ダメ?」
「……咎める気はない」


小言を言いつつも今日はいつもよりも積極的で素直だ。ほんとに、どうしちゃったんだろう?でも正直言って嬉しいから、そのまま月と気持のいい夜風に揺られる木々を見つめあたしを包んでくれる弦一郎の体温を感じていた。……あったかくて安心する。それと共に弦一郎から香るいつもと違うフレッシュな匂いが景色と相まって非日常感をより醸し出していた。今までの疲れや怠さが嘘だったかのように消えていく。ああ、あたしに必要だったのはこれだったのかもしれない。こんなに静かで穏やかな夜を過ごしたのはいつぶりだったっけ。


……」
「うん?」
「……新人教育に手間取っているのか?」
「え……、え?」


このロマンチックなシチュエーションで、それ?いや、それよりもしや緒環さんの男癖の悪さが弦一郎にバレ……?いや、そのことは本人への誹謗中傷にも繋がりかねないし、部に支障をきたす可能性があると蓮二と話し合った判断で先輩とあたし(とせっちゃん)だけに情報共有を留めておくことにしたはず。ちゃんと見張ってるし大層なことは起きてないはずだけど……、でもあんなに彼女の態度が悪いのに今まで気づかなかったの?!などと一気に慌ただしく思考を巡らせながら懐疑的に弦一郎を見上げると、諌める口調とは裏腹に真剣にあたしを見つめていた。「ちょっと大変かなくらいだけど……」とおずおずと答えると射抜くような眼差しを向ける弦一郎に思わず、『本当はね……』と、このちょっとどころじゃない大変さを理解してもらいたい自分を抑えながらのけ反る。その燃え滾る瞳から逃れるように勢いのままあたしは弦一郎の熱い頬にキスをした。誰に見られてるわけでもないというのに弦一郎は慌てて「が、合宿中だぞ!」と今更なことを言い出したと思った瞬間、携帯電話のアラーム音がちょうどよく鳴った。ディスプレイを確認してアラームの音を止める。


「消灯時間20分前だし、部屋戻ろ?」
「……ああ、部屋まで送ろう」
「ほんと?ありがとね」


帰路にて弦一郎の送ろうって言葉を聞くたび大好きが大きくなる。あたしを大事に思ってくれるんだな、と感じて胸がじんわり熱くなるの。名残り惜しい気持ちは同じなのか、弦一郎はあたしの髪を優しい手つきで撫でてくれる。いつまでもこのままでいたい気持ちを振り切ってあたしはベンチから立ち上がった。その時あたしは弦一郎に振り返って、久しぶりに心の底から笑えた気がした。


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