サンクタムの醜聞
「へっくちーん!!」
「いつ聞いても変なくしゃみだな」
うるさいな、と鼻を啜りながら文句をつけられたことに更に文句を重ねてやった。蓮二はくしゃみの感想を述べただけだろうし、その言葉のニュアンスには愛情がこもっているようにも聞こえるので許してしんぜようとフンと軽くあしらった。このように、あたしと蓮二は入部したてなのにも関わらず時間さえあればミーティングをしている。同じクラスになったから、連携プレーが中一の時のようにスムーズにいくのはありがたい。とはいいつつもあたしは机に肘をついて、噛み殺すことのできない欠伸を連発してしまう。咎められるような視線を感じ、あたしはついつい言い訳をしてしまった。
「パパ、帰ってきたでしょ。お風呂の時間がかち合っちゃって、あたしが朝に入ることになるのよ~」
「地区予選も始まるし夏に向けて踏ん張りどころだ。髪はもう少し念入りに乾かすといい」
「はーい」
あたしが言い訳するまでもなく、朝大慌てでシャワーに入ってるのも蓮二にはお見通しってワケ。……多分シャワーの中で半分寝てることも。大の大人一人増えれば生活スタイルが変わるのも当たり前かもしれないけど我が家の場合は激変。加えて部活は中学よりも長い時間拘束されるので、帰宅時間が21時とかはザラにあるって感じ。そのせいか最近は家に帰ると夕飯も食べないで気絶したように寝ていたりする。
それも仮入部期間からあたしは既に怒涛の業務量をこなしていたからだった。先輩マネージャーも一人いるにはいるんだけど、今日から本入部の緒環さんって子の指導にかかりきり。外部から入ってきた子で、指導に時間がかかってる感じだけど……あたしもかなり手がかかった一人なので人のこと言えないし。でも、マネの運営自体は中学の頃から蓮二とあたしで回していたので問題こそないのだ。
問題はないのだけれど……。
「やーっとマネの仲間増えるよ~、緒環さん本入部してくれるといいなー」
あたしは肩を大きく回しながら、ため息をついた。ちゃんとまともに寝れてないから体のコンディションが良くないな、だなんて呑気なことを考えながら。
「。その緒環の件なんだが……」
「え、何か問題でもあった?」
少し躊躇うような下唇を噛む仕草の蓮二に、あたしは首を傾げた。周囲を警戒しているようで、左手で口を覆う蓮二。ああ、あたしの声は大きいもんねと不貞腐れたよう頷きながら右手をひらひらと差し出し続きを促した。
「言うのが遅くなってしまったが、彼女の本入部は考えてもらった方がいいと俺は考えている」
明らかに不可解な顔をしてしまい、小さい声で「え、なんで」と呟いた。蓮二にしては消極的な姿勢なのも驚きだ。マネージャーを採用するにあたって、今まで弦一郎からあれこれ言われることは多かったけど、最初から否定的な意見を口にする蓮二ではなかったのだ。
「なんで?仕事、今ケッコー覚えてきてるところなんでしょ?」
「緒環の中学在学時のデータがようやく集まってきた」
蓮二がさりげなくデータファイルを机の上に置き、あたしはそれを恐る恐る開いてみた。緒環さんのプロフィール……は良いんだけど、大きく走り書きの朱が入ってる箇所二つもある。ひとつはお金にルーズで、もうひとつは……『痴情のもつれで問題アリ』って……痴情のもつれ?!
「言葉のチョイスがすごいっていうか……っていうかなにこれ?」
「そのままの意味だ。聞き込みを続けた結果、そういったエピソードが後を絶たなかった」
「でも……蓮二があたしの更生プログラム作ってくれたみたいにイケるかもしれないじゃん?」
「……俺はお前を更生したわけではないし、お前には適正があったからだ」
「見てる分には仕事出来ないってわけじゃないと思うんだけど。一応、体育会系気味の管弦楽部の出身なんだし仮入部期間も音を上げなかった貴重な一人……」
「そこだけ見れば、根性がないわけではないがな」
「蓮二がそういうタイプの人が嫌いなだけじゃん?会計はどうせ蓮二がやるんだし、雑用はあたしとあの子でやればいいんであって……。蓮二のリサーチ力の腕は確かだけど、偏見から入るのはよくなくない?」
更にハッキリと意思表示をする蓮二に、いや、なんでよ?!と睨みをきかせる。蓮二はあたしと目も合わせてくれない。こんな風に蓮二と意見がぶつかるのはせっちゃんの入院以降からはなかったのだ。
「ほら、部内での恋愛禁止ってことはないんだし。あたしと弦一郎だってそれで上手くやってるワケじゃん?」
「お前と弦一郎は別として考えろ」
いやいや、何で別?あたしと弦一郎は別ってそれはえこひいきなのでは?あたしはせっかく増えるはずのマネージャー仲間に辛口評価をつけ、何食わぬ顔をする蓮二に疑問を抱かずにはいられなかった。
「まあそれ目的で来られるっちゅーのはダメなんですけどね」
「緒環も色目を使う人間は選んでいるようだがな」
「えっ、そんなことまで分かってるの?!誰かターゲットになってるとか?」
「確定ではない。可能性として30パーセント下回るところか」
「うーん3割以下かぁ……」
「お前こそ性善説を信じ過ぎだ。悪人などこの世にはいないと思っている節があるだろう」
せっちゃんにも昔言われたことある言葉、「、知らない人からお菓子もらっちゃダメだからね」と冗談交じりの忠告が頭の中で蘇る。いや、お菓子はもらわないよ大丈夫だよ!そんなバカじゃないよ!と反論すればベルばらや西洋中世の暗殺や謀略が張り巡らされた映画の見過ぎだからそこは大丈夫だと思うけど、だって。 けれど、蓮二の発言にはぐうの音も出ない。だってだって、殺人者だってシリアルキラーじゃなければそれ相応の背景とか理由とかあるわけでしょ?!と答えれば今度はミステリー作品の読みすぎとツッコまれるのであった。
それにしても蓮二、相当緒環さんに不信感あるようね。マネもあたし達の代で3人体制になってかなり業務の負担も軽減されると思ってるんだけど……夏以降には先輩もいなくなるんだし。それにひしひしと肌身で感じるけど、先輩もあたしのことを可愛がってくれてるということはない。先輩の顔を立てるとか、そういうことを他の部員には考えてほしいとは思うんだけど。実力派の我らが立海大附属は有り難いことにあたしの功績はしっかりと覚えてくれてるらしく、どの部員もいの一番に頼りにしてくるのがあたしなのは間違いなかった。
「正直言って一人はキツいよ。蓮二がいても、実際のマネ業は夏以降はあたしが率いていくんだし……今のうちに人材育てておきたいんだよね」
「危ない橋を渡りたくはない。適任は他にもいるはずだ」
そう言って、三年間適任が見つからなかったでしょ!!とあたしは半ば怒りの声を上げたいのを我慢した。蓮二と喧嘩したくなかったからだ。蓮二があたしと仕事をするのに不満はないという評価をくれているのは大変嬉しいことだと思っているし、光栄でもある。でも結局新マネージャーを探すのに骨を折ったのはあたしだし、マネージャーの募集をかけるのはあたしの仕事なのだ。バチバチの駆け引きをするのに疲れたあたしは「じゃあ様子見ってことで、一ヶ月猶予をください」とニコリともせずに返事をした。
「……最大限の譲歩として一ヶ月ならばいいだろう。お前もそれで見極めろ」
「蓮二もね。逐一データの更新お願いよ」
「抜かりはない」
これまで楽天的に仲間が増えると喜んでいたのに……、そんな。でもでも、あたしがちゃんと見張ってれば大丈夫だよね?そういえばこの情報って先輩は知ってるの?9月で引退する上に最近カリカリしてる先輩にこの情報共有を蓮二がするとは到底思えないし……。あたしから言えってことなのか。いや~もう、なんで嫌な仕事あたしに押し付けてくんの?!尻拭いはあたしがしろってか?!も~!!
あ゛~~~~!!!!と大声を出して頭を掻きむしりたい衝動を抑えて、肩を落としゴンと音を立てて机に突っ伏した。ひんやりとした机の表面は熱が上がったあたしの額を優しく冷やしてくれた。
「緒環、がボール拾いをしているから手伝ってきてくれないか」
「チッ、やっぱりそういう雑用はアタシの仕事なんかい」
「そう反抗的な態度でいられるとこちらも困る。指示には速やかに行動してほしいのだが」
「あーあー、うるさいうるさい。やりゃーいんしょ」
このように緒環は容赦なく舌打ちをする。つけ込みやすい人間が緒環にとってはやりやすいようで、彼女に肩入れしない俺にはこういった面を見せることを辞さない。対しては誰にでも友好的なので彼女とも悪くない関係を築けているようだ。対して緒環は嫌いな人間にはその嫌悪感を隠すこともせず先程のようなあからさまな態度を取るのだ。マネージャーらしからぬ態度である。
精市は今のやり取りを横目で見ていたようで、普段の穏やかな笑みは崩さずともその眉間は少々強張っていた。
「新しく来た女子、なかなかだね」
「ああ、おかげで頭が痛いぞ。そういえばお前に報告がある」
春眠暁を覚えず……といった麗らかな春の陽気のせいか眠りこけている時間が多く、が舟を漕いでいる様子が多いことを簡潔に説明した。
「自習で居眠り?あのが?」
「最近寝不足なようでな」
「あまりクマが出来るタイプじゃないから気づかなかった。けれど、は授業中に眠れるほど神経が太い人間じゃないのは柳も分かってるだろう?」
目の前の同胞はどうしたことか、と首を傾げ思い当たる理由を探しに真剣に考え込む。すると精市は顔を上げ俺を射抜くように見据えた。
「のお父さんが帰ってきただろう、それでか」
「本人もそう言っていた。しかし部でのパフォーマンスにおいて、影響は誤差程度しかない。授業でも自習の時だけに深く眠り込んでいたのだが……」
「状況はあまり芳しくないな」
精市は神妙な面持ちで球拾いに勤しむ彼の幼馴染の小さい背に目を向けた。最近のからは大きな欠伸が絶えない。朝は前ほど早く来ることはないが、問題ない程度に部員より早出しているし新しく入った緒環の世話もよくしている。しかし、彼女の授業態度には影響が少々出始めていた。
「体調管理をするよう俺からも促しときはするけど……柳の方でも見ておいてくれ」
「ああ、それを承知の上で報告した」
「真田は知っているのか?」
流石に痛いところを衝いてくるな、精市は。俺が未だ弦一郎にこの件について報告していないのは彼には隠せない事実ではあった。しかし、報告しようにも弦一郎の怒鳴り声がに対して浴びせられる光景しか頭に浮かばず、あまり報告しない方がいいと自分の心の何かが警告を放っていた。
「いや、まだ伝えてはいない」
「部での真田の役割を考えれば報告をしない判断は正解だ。でも、彼氏としては知っておいた方がいい事実ではある……のは柳自身がよく分かっているね」
釘を差されたのだな、俺は。最近のといえば、弦一郎との距離を少し計るようになり以前に比べ無防備に近寄らなくなった。弦一郎もどこかぎこちない態度でいるあたり、二人の間で何かあったのだろう。察しはつく。俺は無言で頷き、何事もなかったようにもう一つの大事な報告を精市に伝えた。
「緒環はまだ問題行動を起こしてはいない」
「そうか。今ののことを考えると、そう簡単には辞めさせられないしね」
「ああ、俺は早急に退部させた方がいいと思ってはいるが……」
「俺もよくよく見張っていようとは思う」
流石に俺の報告書や先刻のやり取りを見ていた精市も苦い顔をしていたのだ。緒環の部活での態度は良いとは言えない。仕事はするが、先輩に敬意を払う素振りは見せずから言われた仕事は無難にこなすだけといったところか。しかし同級生が偉ぶっているように感じているのか、その点にいい思いをしていないのは確かだった。
「彼女は真田をうまく避けているみたいだね」
「そういうところは鼻が利くようだ」
彼女が元いた中学の卒業生は何名か立海に入学していたので、聞き込み調査を行ったところ「授業中は当時付き合っていた彼氏と手を繋いで授業を受けていた」、「同じパートにいた男子とはほとんど体の関係がある」などの醜悪な噂ばかりだった。しかし、の言う通り体育会系寄りの管弦楽部に在籍し大会で金賞を取るなどの事実もあった。授業での成績は良い方ではない。俺にとって見目麗しいとは言い難い特徴の数々。痩身でまるまった猫背、見下すような目つきにか細く聞き取りづらい声に反して横柄な態度。それが彼女の印象である。それが一介の男子生徒にはどこか蠱惑的に映るのだろうか。
「しかし偏見が過ぎるのは良くないのも俺はと同意見だ。柳、君は何をそんなに恐れているんだい?」
精市は問いかけながら興味深く俺の瞳を覗いた。精市の目は俺の思惑まで見透かすようだ。しかし、俺はまともに精市を見返すことができなかった。決してやましい気持ちがあるわけではないが、俺の心が胃も捩れそうな抵抗を覚えたのだ。
「柳の勘、ということかな」
「そういうことにしておいてくれ」
「じゃあそうしとくよ」
ふふ、と茶目っ気溢れ小さく笑む彼に俺は敵わないなと苦笑せざるを得なかった。居心地の悪い空気をやり過ごすようにデータブックに目を落とした。人を視るのに長けているのは精市の方だ。
温かい陽射しの中、既に汗をかいているだろう彼女に視線を送る。案の定空いた左の手で額の汗を拭っているようだ。それに隣り合わせる細身の新マネージャーの姿。ああ、どうしても相容れることが出来ない。人のことをよく知るまでにこれほどまでに時間をかけず、負の感情にて心を激しく揺さぶられる初めての春だった。
(210511修正済み)
(010518)