Perhaps, perhaps, perhaps...
人の口に戸は立てられない、を実感した今日。別に秘密にしろだなんて蓮二に言った覚えはないけどね。昼休み半ばに仁王が隣のクラスから訪れ、片足を戸口に引っ掛け体を扉に預けながらつんけんと「お前さん、テニス部を裏切るんか?」とか人聞き悪いことを言ってきた。それも心なしか少し突き放したような冷たい目線で。
「ううん、テニス部へ行くわよ」
「なんじゃ、つまらんの」
「裏切るなんて物騒な言葉使ったのあんたじゃん」
「しかしそれにしてもどうして気が変わったんじゃき?」
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弦一郎があたしの家を訪れた日の晩。あたしは色々と悩んだ末にせっちゃんに電話をかけた。そろそろ寝る頃だとは知っていながら。自分のこういうところが愚図でずるいとこだとは分かってる。だって例え寝しなでもせっちゃんはあたしの電話に出てくれるから。
「どうしたの、。夜ふかしは美容の大敵だよ」
「……せーっちゃん」
「茶化して悪かったよ。真田の訪問はどうだった?」
「良かったよ、パパも弦一郎のこと褒めてたし。話は変わるんだけど、相談したいことあって……」
「何だい」
「あたし……。明日、剣道部に仮入部に行こうかなーと思ってるんだけど……」
「……ふうん。の自由だと思うけど、何で?」
「なんでって……」
せっちゃんに改めて問いかけられた途端、一体どうしてそんな気分になっていたのか自分でもよく分からず言葉に詰まってしまった。言葉に詰まった上に胸のつかえが取れないのもまた事実だった。初めて電話にて、重たい間を作ってしまい更に困惑する。時計の秒針がカチコチと立てていく音がいつも以上にゆっくりと脳裏に響いていく不思議な錯覚に見舞われた。
「なんでって……他の部活体験が出来て楽しそうだから?」
「そうか。それだけ?」
「それだけって……理由としては充分じゃない?」
「にとって充分ならいいんだけど」
「……」
二の句が継げないということはこういうことか。電話の向こうで、何もかも見透かしているかのように幼馴染が穏やかな微笑を浮かべているのだろう。しかし、それとは裏腹に声色は心配そうに労るようないつも以上にソフトなトーン。瞼の向こう側に浮かぶのは物憂げにベッドに深く座り込み未だ冷え込む夜のせっちゃんのすくんだ肩。
「ううん、やっぱり大丈夫。初日からテニス部に行く」
「そうか。流石に眠いから寝るよ。……じゃあ、おやすみ」
遠慮なんてものはなんのその、噛み殺していたように大きな欠伸をひとつする。それに小さく笑いあたしはおやすみの挨拶をして電話を切った。鈴蘭型のランプの灯りを切ると、壁の隙間から漏れるほどしか入らない月明かりが仄かにベッドを照らしていた。果たして胸のつかえはこれで消えてくれたのだろうか。浅い眠りに落ちていき、その時に感じていた大きく膨れ上がった不安も萎み始めていた。
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「どうせマネやるなら行かなくてもいいかなーって」
「ほう、そうか。それはよかった、俺のクラスにマネとして入部希望者がいての」
「マネージャーの?!え、ウソ~?!嬉しい~!」
「ほう、テニス部を裏切ろうとした奴の言葉には思えんのう」
「あんたもしつこい男ね~、さっきテニス部に行くって言ったじゃん」
「ほんまかのう?」
仁王とあたしの間でならいつもの何てことのないやり取りだ。それなのに昨晩の正体不明の不安が膨れだす。思い出させないでよ、あたしの部屋の椅子に座っていた弦一郎の切なげな眼差しを。それにせっちゃんも含め、あたしのこと試すような問い方しちゃってみんな大層失礼だこと!
「それよりわざわざ来るってことは、その子の見学申込書持ってきたんでしょうね」
「ピヨッ。ウチのマネージャーに抜かりはないねぇ」
「早くちょうだいよ」
あたしが手を差し出すと、どこに隠していたのか背後からマジックのように見学申込書を取り出した。三年以上の付き合いなのでその手さばきに特に驚きもせずに、それを受け取り無くさないように四角に折り生徒手帳に挟もうとしようとした矢先だった。仁王が颯爽とあたしの手から生徒手帳を奪ってしまった。
「ちょっと、返してよ!」
「おお、おお。健気なもんじゃ」
あたしが手帳に大事に挟んでいた、写真部から直々に頂いた修学旅行時の弦一郎のベストショット写真をありありと見せつけてきた。あたしは顔がカアッと熱くなるのを感じ、取り返そうと背伸びをするも仁王が手帳を持った手を上げればあたしとの身長差で全然届かない。遊ばれている。またもや、遊ばれている。
「随分と彼氏にご執心な彼女じゃ」
「あたしで遊ぶなって言ってるでしょ!!」
中学生気分が抜けてないのか、手帳を奪い去ったまま口笛を吹きのらりくらりと駆け足で西階段へ向かう仁王を漫画のように「待て~!!」と言いながら追いかけるあたし。新学期ながらにバカバカしい。人気のない薄暗い階段に差し掛かり、非常用のシェルターがある角を曲がるとあたしはこちらへ向かってきた人物と正面衝突をした。固い胸板に鼻をぶつけ衝撃で前のめりに倒れ込んでしまった。ぶつかった相手は優しいのか、あたしを抱えながら下敷きになるように倒れてくれたのだ。
「いたた……す、すみません。前を見てなくて」
「廊下を走るとは何事だ!ぶつかった相手が俺だったからいいものの……」
耳馴染みがある、深く通る大好きな声。昨日聞いたよりもずうっと怒りん坊の声。弦一郎は上体を起こしながら、いつもながらにあたしを叱り始めようとした。しかしすぐに息を呑んで、苦しそうに声をくぐもらせた。
「っ……」
「ご、ごめん!怪我はない?!」
「……、手を……っ」
「えっ……。ん?」
苦悶の表情を浮かべる弦一郎。あたしは弦一郎の辛そうな顔に気を取られ、どこに手をついていたのか全く気に留めてなかった。あたしの手の下にあったのは弦一郎の体のどこよりも柔らかく、そして触れたことのない独特の感触。
あたしはなんと、弦一郎の股間に思い切り手をついてしまっていたのだ!
すぐさま手を放したのはいいものの、気づけばみるみる内にソレは主張を激しくしていき、ズボンの上からでも形が分かってしまうほどの大きさになっていた。あたしは身震いをし、急いで飛び起き膝立ちになって弦一郎の体から距離を取ろうとした。
「ご、ごめ……!」
こ、このシチュエーションをどうしたら処理できるのか最適解が見つからない。あたしは恥ずかしさのあまり顔を背け、勢いづいて強く打った膝をさすりながら立ち上がろうとすれば弦一郎に腕を引っ張られ引き寄せられた。
先ほど追いかけっこしていた仁王の存在も忘れ、その場から逃げようとしていたのにあっさりと彼の腕の中に閉じ込められてしまっていた。ドキドキと高鳴る鼓動はペースを落とすことを知らない。
「げ、弦一郎……、ここ廊下……」
「……収まるまでこうさせてくれ」
ぎゃ、逆効果なのでは?!弦一郎が口走っている台詞と矛盾した行動になすがままにされうるさく響く心臓の鼓動であたしは何も考えられなくなっていた。
いつもと様子の違う弦一郎が、あたしの首筋に顔を埋めもたれかかる。こんな、ここまで積極的にあたしを熱く抱きしめる弦一郎は初めてだ。胸が押し潰れちゃいそう。幸い、あまり使われることがない西階段のシェルターの陰のおかげで誰も通らない上に見られていない。けれど、いつ誰が来てもおかしくない。それなのに弦一郎は構わず大きな手であたしの髪を繰り返し撫でめいいっぱい呼吸をし、それに口付けを落とすように柔らかく唇で食みあたしは体温が上がるのと同時に背筋がむず痒く感じてしまっていた。
「げんいちろ……ちょっと……」
腰を控えめに押し付けられる。今までに感じたことのない熱暴走を続けるソレが腿に擦れる。彼のもう片方の手は腰に添えられ丸みを確認するように軽くさすられ、逃げられない。そんなことされたらあたしだって……変な気分になりそう。彼の大胆な行為にあたしは反抗するように身を捩ろうとするけど、なぜだか体にうまく力が入らない。うなじが震え、全身に甘い痺れが走る。日の当たらないひんやりとした踊り場に浮かされる熱。この感覚は……一体なんだろう?
「……」
「あっ、生徒手帳!!」
いきなり目覚めたように理性を取り戻したあたしは、自分が追っていたものを思い出し羞恥心も相まって叫んだ。飛び起きれば、弦一郎自身を象ったものは数分前に見た時よりももっと大きくなっていた。フーフー、と浅くも荒い息の弦一郎の瞳はわずかな光を取り込み強烈に何かを訴えるようにギラギラと輝かせていた。と思えばすぐにあたしから視線を外して目をつぶって深呼吸をし、下腹部を抑えながら前のめりになった。あたしはその隙に自分の求めていたブツが手元に落ちていることを確認した。大事な写真の入った真新しい手帳を拾い上げると、キーンコーン……とお昼休みが終わりを告げるチャイムは既に遠くで鳴り響いていた。
「……すまない」
「ええっと……うん、大丈夫」
「……足を擦りむいたか」
「あっ、ほんとだ」
じんわりと滲む血が膝に広がるのをあたしは今更ながら気づいた。痛みさえも先程の痺れで分からなくなってしまっていたらしい。弦一郎は申し訳無さそうに口元をきつく結び視線は落としたままで「歩けるか」と尋ねる。あたしは頷くと弦一郎はおもむろに手を取り、あたしは保健室への道へとグイグイ一方的に引っ張られていった。気まずい沈黙が流れたまま、張りつめた緊張感は解けないままだ。先程のことを思い出すと体の輪郭がぐずぐずに溶けてしまいそうで、今のあたしには弦一郎の広い背中をじっと見つめることしか出来ない。保健の先生に用件を述べあたしの膝の擦り傷が軽いことを確認すると、そのままあたしと目も合わせず弦一郎は「失礼しました」と保健室をさっさと後にしてしまった。
もう、なんなの!
結局、今日から本格的にテニス部で業務を開始することも伝えられなかったし。最近様子が変だし、最近の弦一郎が考えてること全然分かんない!……分かんないワケじゃない部分も大いにあるけど。
不可解な彼の行動に苛立つ思いと忘れがたい先ほどの疼きが掛け合わさった焦燥感。そりゃ弦一郎やあたし達年頃の恋心の向かう先はたかが知れてるわよ。でも……どうしてもこの胸のつかえはまだ取れないみたい。ドキドキと混ざってあたしの方こそわけわかんない。あたし……一体どうしたいんだろう。今回の仮入部の件といい、廊下で起きた出来事といいあたしには弦一郎の気持ちや自分のことですら皆目検討がつかない。
あたしが何を望んでいるのか。あるいは、もしかして、きっと……。
保健の先生が綿で丁寧にあたしの膝を消毒する間、おもむろに窓に目をやる。強い風が吹き、梢や葉が大きく揺れる。まだまだ、荒れた春は続くようだ。
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(010518)