行くなと口にしたかった
春の芳しい花の香りが風によって運ばれる。暦上は春とはいえ三寒四温の寒い日にあたるのか、花冷えが続く。蕾から解き放たれた衣のない桜の花びらもさぞかし寒かろう。次の句会に良いヒントを得られた。
そんな冷たい春の中、俺達は立海大附属高校へ進学するのだった。
「あー、先生の話やっと終わった!」
「が話を全部聞いていた確率、52パーセント」
「もう、蓮二うるさい。……でも概ね正解」
なんと、クラス替えは久々に蓮二と同じなりました。流石に生徒数も多いだけあってせっちゃんとももなんて階段を挟んで向こう側だし。弦一郎とも離れてしまったけれど。隣のクラスに仁王と一緒にいてくれるから寂しくないかも。制服のデザインと高校の校舎を使ってるくらいしか変わりはない。外部からの入学生もいるけど、やっぱり中入生の方が多いし。その上何度も来てる校舎だし、敷地も変わんないしで特別進学したって気分はなかった。中一のときに蓮二に散々面倒を見てもらったから今年は少し大人しくしてよっと。
仁王は高校見学の時立海大付属工業高校の方に行ってたけど結局あたし達と同じ立海大付属高校に進学したし。何はともあれあたし達、高校一年生です。
「、……?」
「……うん?」
「今の俺の話を聞いていたか」
「ううん」
「上の空の理由は仮入部の件90パーセント、家族について45パーセント、弦一郎については78パーセント……」
「概ね正解」
「ではもう一度言うが、来週の月曜のから仮入部期間が始まる。お前もテニス部に行くのだろう?」
ま、蓮二はたいていあたしが何考えてるか分かっちゃうよね。あ、でもあたしのデータは平均と比べるとなかなか集まらないらしい。アメリカにいた頃のデータが取れないんだってさ。そりゃそうだ、アメリカにいた頃の友人とはもうクリスマスカードのやり取りさえ途絶えてしまった。
「あたし、来週は剣道部見に行こうかな」
「……そうか」
「なになに、あたし今度こそ蓮二を出し抜けた?」
こうやって思いついたこと口にして蓮二を出し抜くのは楽しい。けれど蓮二はそれにも動じず、涼し気な顔でパラパラとデータノートをめくる。
「28パーセント、といったところか」
「あら、なかなか低め」
「それより、今週の日曜に弦一郎がお前の家を訪ねると聞いたのだが」
「そうなの。この前あたしが挨拶に行った時、弦一郎から是非とも家族に会わせてもらいたいってなんかなっちゃってね。珍しくパパも予定空けといてくれたし、みんなに会うんだ」
「そうか」
蓮二の顔色は読み取れない。淡々とあたしから情報を聞き出していってる、といった感じ。そう、パパが4月に海外赴任から帰ってきた。それを弦一郎に伝えたら、挨拶したいって。まああたしだけ向こうの家に挨拶行ってるってだけなのも確かに変な話だし、仕方ないかとパパに掛け合ったところ二つ返事で良いとのこと。うーん、こういうこと家族と話すの苦手なんだよなぁ。
わたしが再び自分の考えに入り浸っている間に前の席に座っていたはずの蓮二は跡形もなく姿を消していた。まあ、なんとかなるか。あたしは剣道部の練習を見に行く時の脳内シミュレーションをしながら、H.Rの先生の話は再び上の空だった。
こればかりは緊張しないと言えば嘘になってしまうだろう。俺は手土産の紙袋を下げ、が熱を出した時に訪問して以来に来たマンションを見上げた。ふう、とため息をつき深呼吸する。堂々と、それでいて謙虚でいれば良い。俺はそう自分に言い聞かせ、部屋番号を押した。ピンポーンとチャイムが鳴ると、すぐに応答が有り「はーい、今行くね」との明るい声で扉が開く。彼女の声がせめてもの緊張緩和剤となってくれた。はエントランスまで迎えに来てくれ、にこやかに俺を迎えた。そしてそのまま階段で記憶と違わない景色を見ながら彼女の家へと案内されるのであった。玄関に入ると、彼女の母親の趣味なのか西洋の家の形をした可愛らしい置物達が並べられている。廊下に通され、そこには『忍耐』と筆で書かれたの書が意外にも掛けられていた。お三方が、狭い空間に押し込められたようなダイニングテーブルの椅子に着いて迎えてくれた。
「パパとママとお姉ちゃん。こちらは、真田弦一郎くんです」
「やあ、真田くん。よく来た」
「初めまして。先程紹介頂いた真田です。そしてさんのお母さんはお久しぶりです。本日はお忙しい中お時間を作って頂き誠に有難うございます。皆さん、甘い物がお好きとさんから伺っておりましたので」
「あら!わたしここのお菓子好きなのよね~!ありがとね、真田くん。ここまで来るのわざわざ大変だったでしょー」
「いえ、そんなことはありません。家が隣の駅なので」
「と付き合ってるってこの人なんだ?なんだか私より年上に見えるねぇー」
の母親とは何度か試合で会っており面識はある。の声や喋り方は母親似だな、と思うことがあった。父親は大きな眼鏡をかけた恰幅の良い方だが、気難しい顔つきといったところか。しかし表情はにこやかだ。彼女の姉は初対面なのに馴れ馴れしく俺をじろじろと見回し、外見も態度も全くといっていいほど似ていない。いやむしろ……。
「お姉ちゃんッ、それパパのおしぼり!」
「アレ?あ、本当だわぁ。間違えちゃった~、アッハハハ!」
「……パパ、代えのおしぼり出すね」
「私がやるからは座ってなさい。騒々しくてやんなっちゃうわ、ごめんね真田くん」
「いえ、賑やかで良いと思います」
ガサツな笑い声を上げるの大学生の姉とは真逆のタイプのようだ。には申し訳ないが、初対面にも関わらず馴れ馴れしく配慮に欠ける印象を受けた。目上の人間だとは分かりつつも、茶を一気飲みする姿もとは対照的に品性を感じる事は出来ない。からは度々「困った姉だ」と聞かされていたが、こういうことだったのか。俺も兄さんの間でも色々と違いはあるものだが、姉妹でもこうも違うとは。
「、茶を淹れてくれるか?」
「うん」
「実は家内が淹れるより娘が淹れる茶のが美味いんだ。真田くんのは家内が淹れた茶だが、私のお気に入りの知覧茶でね。味わっていくといい」
「はい、有難うございます」
「何、緊張しなくともいい。こうしてしっかり挨拶に来てくれるような真面目な少年で私は嬉しいからね」
「そうよ、真田くんなら安心だーって思ってたのよ」
の母親は顔に感情が出る非常に分かりやすい人物なので、この言葉に嘘偽りないと素直に受け止めることが出来た。父親は娘の淹れた茶を頷きながら満足げに啜る。どうやらのことは一番可愛いらしい。
「昨年の夏からさんと交際しております、真田弦一郎です。挨拶が遅くなったことをお詫び申し上げます」
「私も海外を飛び回っていたからね、あまり気にしなくともいい」
は珍しく大人しく家族の様子を窺っているようだった。彼女の姉が手土産の最中の破片をボロボロに机にこぼしているのを見て顔を顰めていた。
「それにしてもこの年の頃でなかなか立派な男の子だ。全国大会に優勝する程なんだろう?は優秀な人を選んだものだ」
「まあね。……でも昨年は準優勝なんですけど」
「はは、我が娘は照れているようだ」
は打って変わってつっけんどんに答えた。父親はーー。彼女の父親かと疑うほど、絵に描いたような日本の古き父親像、そんな印象がある。そしてはいつもと比較して非常に言葉少なである。俺は初めて見る彼女の姿に驚きつつ、の父親の話に耳を傾けていた。
「我が家は代々教師の家系でね。父は教頭だった。私だけが会社員だが、私の実家は室町からずっと寺子屋だったんだ。曾祖母も国立大学へ行き、教師だったんだよ。大正生まれの女性にしては珍しいと思わんかね?」
「確かに、その時代で大学に通われる女性は珍しいですね。さぞかし教養ある御方なのでしょう」
「おお、話の通じる子だ。私自身もラオスの支社から帰った今、社からの派遣で私が卒業した大学で講義をする機会があってね。この前は貿易業の環境政策についてラジオにも出演させたもらったんだがなかなか好評だったよ」
「そうだったのですね」
「私はこの家の20代目でね、は21代目になるのだがーー」
は額を抑えながらも、父親の話を一生懸命聞いてますと健気に返事をしていた。確かに、先程の俺に対しての褒め言葉といい見栄っ張りな性格であるのは多少なりとも感じてしまう。しかし肝心の母親は微笑を浮かべつつ虚ろな目で宙を見上げ目が泳いでおり生返事、姉は軽く挨拶したっきり汚した机はそのまま途中退席をしどこかへ去っていってしまった。が困ったようにちらちらと母親に目でサインを送るも、娘の合図には気づかない。そのおかげもあり彼女の父親のお家話に約30分はかかり、ようやっとの母親が見かねて「もうその話はいいじゃない。真田くんも疲れたでしょ」と自身の夫に苦言を呈した。
居間には金縁の立派な額に収められた田園風景の絵画が飾られていたのだが「少し歪んでいるな」との父親が指摘すると、何も言わずに彼女は素早く絵画の位置を直しに行き「それで良い、流石だ」と父親が満足げに頷いた。そしてしばらく彼女の母親が部活にて俺の活躍話を続けてくれ、最後にようやく 「の部屋で話してくれば?」と声をかけてくれたので、それには安堵したように深く頷いた後、彼女の部屋に連れて行ってもらった。
は肩を回しながら欠伸を一つし、ようやく解放されたとでもいいたげな顔で俺はの部屋に通された。何の変哲のない灰色の扉が開いた瞬間、彼女特有の甘い香りが俺の体を包み込んだ。長四角の部屋には見事に彼女の世界観が広がっていた。訪問する前に幸村が「の部屋はなかなか面白いよ。お店屋さんを構えてるみたいなんだ」と言っていた意味がすぐに分かった。壁には洒落たポストカードがいくつも飾ってあり、長机には雑貨屋の店頭で見られるような小物入れに様々なアクセサリーや薔薇の形をした蝋燭等が置かれている。他にはテニスの参考書や応急手当ての本、そして彼女がよく読み込んでいると分かる洋書は手に取りやすい机の上に並べられていた。漫画本が巻数はきっちりと、それでいてずらりと本棚には揃えられていた。確かに、これらは幸村の言う彼女の面白くも新しい一面である。
「ごめんね。パパの話ったらいつも長くて付き合わせちゃって……。あ、この椅子に座って」
「ありがとう。それに、大体中年男性の話はあんなものだろう」
「パパは歴史好きだから……、弦一郎とそこで話は合うかもね。でも今日みたいにくどくど家の話が多くって。ウチの家なんて大したこと無いでしょ。だからテキトーに流して聞いといて」
「……分かった。お前は……ご家族の誰にも似ていないのだな」
「あー、それたまに言われるんだよね。お茶、淹れてくるね」
が席を外すと、俺がを抱きしめた時に香る彼女の香りを胸いっぱい吸い込み堪能させてもらった。狭いマンションだ、ご家族が近くにいるのは分かっているのだが理性で抑えつけている胸の高鳴りは否めない。部屋の一番奥にある彼女の眠るベッドを目の端で捉えると邪な考えがどうにも頭の中で渦巻いてしまうので、出来るだけ視界には入れず革張りの椅子に深く腰掛けそう広くはない部屋の観察に集中した。家具は主に白の木目調で統一され、毛足の長いカーペットさえも白い。カーテンもまたもや白地で控えめな花柄の刺繍が入っており、彼女の女性らしい感性を思わせる。海外の骨董品屋を想起させる鈴蘭のような形の洋灯が長机の端に、ベッドの傍に向け置かれていた。そして特等席とでもいわんばかりに、長机の真ん中には小さな木箱の上が置かれその上に俺がホワイトデーに贈ったうさいぬの小さなぬいぐるみが鎮座していた。囲まれた小物達とはいささか不釣り合いではあるが。それが誇らしくもあり、素直に嬉しく感じられた。
「お茶淹れてきました。あ、それ?嬉しかったからそこに飾っちゃった」
「そうか、それは良かった」
「えっと、物がごちゃごちゃしててビックリした?」
「驚きはせんが……。女子の部屋に入るのは初めてなものでな、色々と物珍しくはある」
「初めてじゃなかったらあたしがビックリしちゃうわよ。好きな物達をこうやって飾るの好きなんだよね」
「そういえば窓からは……外が見えないのか」
ベッドに腰掛けた彼女の背後の窓を見遣る。不思議とまとまりのある彩り豊かな棚や机からは想像できないほど、窓から陽光が入らない。建物の造りのせいか、陰りのある無機質なマンションの白い壁が見えた。自然の光が溢れる自分の家とは全く異なる、人工的な白熱灯に頼るしか無い手狭な部屋のどこかに違和感があった。
「そうなの。でも室外機の向こうに行けばお月さまが見えるんだよ」
「……外はベランダではないようだが」
「あっ」
明らかに人が立ち入ることの出来ない室外機の置き場を乗り越えは心許ない柵の上に座り物思いに耽っているのであろう。到底見上げた行為ではないと咳払いをすると「パパ達には内緒ね」とやっと彼女らしく茶目っ気のある笑いを見せた。
「見違えたぞ」
「え、今日のカッコ?あ、このシャツお気に入りなんだよね。でも今日はいつも履いてるスキニーだし……」
「そういうことではない」
そう、そういうことではない。しかし、何かが彼女らしくないと思わずにはいられなかったのだ。だがそれを指摘するのもおかしい気がした。彼女にとって家庭での姿も日常であるはずだからだ。言葉がうまく見つからず、思いついた適当な言葉を浮かべた。
「父親に可愛がられているのか?」
「うーん……?」
「……違うのか?」
「えー、んー。分かんない」
低い天井を眺めながら色々とうるさいけど、とだけ小さく呟いた。彼女らしからぬ不明瞭な返答だ。
「お姉ちゃんには厳しいと思う。でもパパはあんまり家にいなかったし……。けど、弦一郎のこと気に入ったんだと思うよ」
「ならば光栄だ」
「うん。弦一郎なら好かれるって思ったんだ~」
は手のひらを合わせて、漸く顔を綻ばせた。少しばかり固かった表情から、普段学校で見ている彼女の笑顔を見れて俺はほっと一息をつき先程は手を殆ど着けられなかった茶を啜った。確かに彼女の父親の言う通り、茶を淹れるのが上手い。
「そうそう。明日の仮入部の件なんだけど……あたし剣道部に行くことにしようと思っててね、どうかな」
いつもより多く口に含んだ茶を行儀悪くも吹き出してしまうところだった。ぐっとそれに堪え、香り高くも熱い液体が喉元から胃まで通り過ぎていくのに耐えた。の奔放な発言に自分の耳を疑ってしまった。彼女がマネージャーを続けると信じて疑っていなかったからだ。
「えっと……大丈夫?」
「……ああ」
「仮入部期間だしいいよね?今年はマネの先輩もいるし」
「確かに先輩はいるが……。……高校では剣道部に入るのか?」
「もちろんテニス部に入るよ、……たぶん」
彼女の口癖でもある『多分』がこれ程迄に不安を煽ることは初めてであった。俺達と彼女はインターハイ優勝を約束した仲ではなかったのか。
……それとて明確に言葉にして約束したわけではない。では約束を反故にされかねないと感じるが故に俺は動揺しているのか?否、はそんな奴ではないと知っている。
しかし……。いつもなら彼女の発言を信じることなど造作も無いのに、どうしてここまで彼女の今回の発言に不安が掻き立てられるのか。この前、市民大会の準優勝について話してもらえてなかったことと繋がっているのだろうか。よくよく考えれば学校生活以外でののことで知らないことは多い。そんなことは今まで気にならなかったというのに……俺は果たしてここまで狭量な人間だったのであろうか?
刹那に掠めた苦い思いはうさいぬのぬいぐるみを腹話術のようにして俺にじゃれるの無邪気な遊びで消えていった。
(210426修正済み)
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