張りつめた弦と行く知れぬ縁


ゆっくりと、厳かに足取りを運ばなければならない。……はずなのにヒーターがガンガンに効いてる上に人口密度の高い中でどうしてもぼんやりとしてしまう、なんとも緊張感のない卒業式だ。ヒソヒソと飽きた連中がくっちゃべっていて最早卒業するという自覚がないのも同然だと思う。
あたしだって模範生というわけではないけど、じっと我慢して前だけを見据えていた。生活指導の先生が目を光らせながら周回してくれば静けさは戻る。あたしは話を聞いてるフリだけは得意だから、そういうので先生に怒られるってことなかった。

しかしその中でむっつりと顔をしかめている生徒がひとり。もちろん、それは我らが風紀委員長の弦一郎!
けしからんだかたるんどるだかを思ってるのかは知らない。きっとこのやる気の無い集団を一喝したい気でいっぱいなんだろうけど。喋っちゃいけないもんだから拳を握って堪えているって感じだ。この三年間のおかげで背筋を伸ばして、規律に従うことだって服務規程以外ならまぁまぁ覚えられた……と思う。なにより、これが中学生活の締めくくりなんだし。だからいつもはおちゃらけてるかもしれないあたしだってこうやって真面目にキビキビと立ったり座ったりしているわけですよ。それにあまりにも脳みそを空っぽにしとくと在校生起立の指示で一人だけ前傾姿勢になってどうにもならなくなるしね。
それにしても弦一郎は勢いよくなおかつスマートに立つし、それが何とも凛々しくてカッコいいなぁ好きだなぁだなんて見とれていると隣の席の子に冷やかしの意味も込めて小突かれたりする。なんだろな、あたしも襟を正さなきゃみたいな気持ちにさせてくれる弦一郎はいつだって励みなのだ。そりゃ弦一郎みたいな優等生ではないけど、やっぱりこういう場ではちゃんとしなきゃなって思うので膝を揃えて斜めに足を流し少しでも女の子らしくする。本番の時に弦一郎のお母さんに行儀の悪い子だと思われても嫌だもんね!それにしても、先生の話が長いこと長いこと長いこと。ああ、なんだか少し眠くなってきた……。


起立と着席の反復をし、ようやく卒業証書授与が始まった。ウチのクラスはA組だから一番乗りだ。代表は、やっぱりあたしの自慢の彼氏。肩の辺りがアイロンで糊づけられたようにパリッと張っていて、堂々と勇ましい。中一の頃は彼のそういう姿に頼もしさとうっとおしさしか感じなかっただけなのに人間って不思議。彼に恋しちゃったら壇上に登る力強い足取りさえも全てが愛おしい。


C組の代表はせっちゃん。あたしの列を通り過ぎる時、すれ違いざまに小さくほくそ笑まれた気がする。はいはい、どうせ彼氏に見とれて目をハートにでもしてたことでも見抜かれてたんでしょ!あたしの恋人なんだもん、別に何も悪くないじゃんね。そういえば仁王の姿が全然見えないけど、アイツ卒業式さえもサボったな……。先輩も学年の生徒もあまり変わらない高校生活、一体これ以上の何が待っているんだろう。もう不安や仲間の病気は充分味わい尽くしたんだからきっと希望に満ちていればいいな。そんな期待を胸に、わたしはこれまでを振り返りながら三年間を共にした校歌を声高らかに歌う。あれ、なんか生温かい雫の粒が頬に。……なんだか柄にもなく、しみじみと泣けてきちゃったみたい。










* * *










花の盛りを迎えている、春。海風が運ぶ冷たい風の中でも梅の花は紅い顔を覗かせ、光は雲から降り注がれ柔らかく影を落とす。俺達は無事卒業式を迎えた。三年間、仲間と共に築きあげてきたものは高校生活にても活かされることであろう。高等部になっても俺の目標は変わらない。我が立海大附属を全国優勝に導き、U-17選抜に選ばれ世界で戦う場に集中する意気込みである。しかしここ数日は現役の頃よりは代替わりした関係もあり、明らかに練習量が減っていた。春休みに高等部のテニス部に通うにしても手続き上では正規の部員ではないのでスケジュールも高等部の先輩方とは違い、何日か休みがある。……そこで俺は以前母さんに言われた言葉を何度も反芻していた。皆と記念撮影されることに勤しんでおりまさに俺の頭に浮かんでいた彼女がタイミング良く卒業証書の筒を握りしめたまま、小走りで俺の下へ駆け寄ってきた。


「弦一郎?ねえねえ」
「どうした」
「あのね……ネクタイ貰っちゃダメ?」
「……ああ、我が校の言い伝えのことか。しかしあれは在校生に贈るものでは……」
「だって、弦一郎のはあたしが欲しいんだもん。ウチは学ランじゃないから第二ボタンの風習もないし……」


左手で右腕をつかみ、体をもじもじと落ち着きなく揺らす衝撃的な愛らしさ。そんな彼女の提案をどうして拒否できようか。唇を噛み締め一呼吸置いてから「いいだろう」とネクタイを引き抜き快く差し出したと同時には瞳を喜びで輝かせた。そんな彼女を今すぐにでも自分の腕に閉じ込めたいという気持ちとここは学校の敷地であるという意識が葛藤せざるを得ない。は無邪気にくるくると回りスカートをはためかせた。しかし途端に、はて、といった風に止まり俺があげたネクタイを見つめていた。な、何かまずかったのだろうか?しかし次の瞬間彼女は大胆に後ろ髪を上げ、自分のネクタイを首元からするりと解いた。


「あたしのは弦一郎にあげるね。交換っこ!」
「あ、ああ……ありがとう」
「あ、いらなかったら別にいいんだけど」
「……誰がそんなことを言った。貰おう」
「ほんと?!嬉しい!大事な思い出にするね」


俺のを自分の首元に結び直して、ネクタイの先を恍惚と見つめるの横顔に高鳴る胸が落ち着いてはくれなかった。生唾を飲み込み、のネクタイを大事に手のひらに乗せたまま未だネクタイに夢中になっている彼女に深呼吸をして春の陽気で肺を満たして呼びかけた。


……」
「ん?」
「お前を俺の家族に紹介したい」
「えっ?!いきなり?!」


いささか急ぎ足だったか。は、大きな瞳を更にかっ開き手で口を覆っていた。俺は気まずい思いをしながら目線を落とし「嫌か?」と尋ねると、「嫌なんてことあるわけないんだけど……」と彼女の表情とは裏腹に微かに弾んだ声で返事を貰った。おずおずと困った顔をしている彼女はいつ何時目にしても可愛らしい。再びの照れくさそうに伏せられた睫毛に愛おしさと同時に胸の奥から形容し難い熱が込み上げてきた。季節外れに胸を焦がす蛍、か。


「もっと早くに家に招待するつもりだった。世界大会などの関係で遅くなってしまったことを詫びる。すまない」
「いやいや、そんな謝ることは何もないし……でもあたし本当に行っていいの?」
「良いに決まっておろう。だからこうして話しているのだ」
「う、うん。勿論。あ、ご家族は何が好きなの?お土産とか用意しとかないと……」
「和菓子なら何でも良いが、そこまでお前に気を遣わせるつもりはない。母さんがお前に会いたいと言っていたのだ」
「えっ、お母様が?」


は卒業証書の入った筒を片手に早咲きの桜のようにぱあっと笑顔を散らした。戸惑った様子とは打って変わっての喜んだ顔を見ると俺は胸を撫で下ろす。この三年間、と共に成長できて本当に良かった。そして出来ればこれからもずっと、お前の傍で共に切磋琢磨し日々を過ごしていきたいとしみじみと思うものだ。


「三年間世話になった」
「うん。こちらこそ!」
「これからまた、よろしく頼む」
「あたしの方こそよろしくね」


は小さく頭を下げた後に悪戯っぽく微笑んだ。思わず頬が緩んだが、これはこれでいいのだろう。俺とは校舎から共に眩しい太陽の下へ出る。は空を仰ぎ、出逢った当初のように風に流れる雲を眺めていた。その横顔は入学した当時よりずっと大人びており、鼻筋から口元まで嫋やかな線が結ばれていた。背後にある中等部の校舎を振り返り、筒を大事に抱えて眺めているその肩に、その頬に触れたい。爽やかな春風がの柔らかい髪を靡かせた。名残惜しそうに眉を下げ、可憐に笑った彼女はすぐにいつもの調子を取り戻したように「行こ!」と溌剌とした声で俺を呼びかけ、二人で校門へと向かった。の小さな歩幅に俺も少しペースを落としてこの瞬間を忘れぬよう心に刻んだ。彼女の「焼き肉でなに食べようかなー」と相変わらずな呑気な声は既に俺にとっての日常だ。こんな風にお前と過ごせるようになったのはいつ頃からだろうか。がいなければこの気持ちを知ることは出来なかったのだろう。だからいつまでもこの笑顔をお前の傍で見ていたい。ロース肉を食べるぞと宣言をし気合を入れる俺に「ばっかり食べはお行儀悪いんだよ」とが軽口を叩くこの幸福を永遠に噛み締めていたい。










* * *










、ただいま駅で真田弦一郎を待っております。弦一郎の最寄り駅は隣駅だっていうのに、どう考えても早く着きすぎた。だって集合時間25分前だもん。流石にあと10分はしないと弦一郎も来ない。 早く着きすぎたということはあたし、もしかしなくてもめちゃくちゃ緊張してる。お洋服も体のラインを拾いすぎず綺麗に見せてくれる紺地にエッジだけに大判のチェック柄が入ったプリーツのシャツワンピに春色のモカブラウンーのアウターにもなるカーディガン。そしてレースの透け感ある靴下とすぐに脱げる焦げ茶のローファーでキメすぎず、お母さんから借りた革のトートバッグだしアクセもゴールドのワンポイトネックレスだけで年相応に上品かな。オシャレには手を抜いてないと思う。服もそうだけど、昨日美容室へ行って毛先を整えてきてもらっちゃったし美容師さんに教えてもらったとおりに編み込みを入れてきた。振りかけられたいい香りのヘアスプレーに念入りに塗り込まれたボディーミルク、眉毛と爪の手入れ。手土産は親戚が営んでいる百年続く老舗和菓子屋の自慢の菓子。そんなことしてたら準備にトータル三日もかかっちゃった。
弦一郎の家にあがるなんてそんな!!とか言っても焦っても今更なんだけど……やっぱりそれだけ緊張してるってこと。


、待たせたか?」
「弦一郎!ううん、今来たとこ。弦一郎も早いね!」
「お前こそまだ15分前だというのに……」
「まあまあ。すぐ会えたから良かったよ、ね?」
「……では行くか」


実際私服で弦一郎に会うのはかなり久しぶりだった。いつだったかな、中二の時遊園地でみんなと遊んだ時まだあたしは全然なんにも考えてなくてボディラインがぴったりしてるVネックのTシャツとデニムのショートパンツに真っ白なスニーカーという出で立ちで弦一郎に露出が多すぎると怒られたんだったなぁ。それ以外はほとんど制服デートだったし、夏祭りは浴衣だったし。
今日の弦一郎は黒字の幅のあるストライプの入ったポロシャツにインナーは緑、濃い色のジーンズ。トラッドだし、シンプルで大人っぽい。腕にはいつも着けてるパワーリスト。どうしよう、正直すごく、かっこいい。あたしはちょっといつもよりももっと大きく見える弦一郎の背中にドキドキしながら後ろを歩く。弦一郎はあたしの歩幅に合わせて歩いてくれるけど、なぜかこっちを見ようとせず、口数もいつもより少ない。不思議に思ってちょっと前を歩いて弦一郎を覗くと弦一郎はハッとしたようにあたしを見た。


「弦一郎?」
「ど、どうした
「なんでもない!手、繋いでいい?」
「……ああ」


あたしの奇行とも言える突然の行動に慣れている弦一郎はあたしの手を取るとそれ以上言及しなかった。弦一郎が黙るのって別に珍しくもなんともないんだけど、少し緊張してるのかな?手が少し汗ばんでる。とかなんとか思っている間にふと気がつけばなんだか大きい平屋の日本家屋が。弦一郎が立ち止まり門を開く。地面には砂利が敷き詰めてあり、渡り石が引き戸の玄関へと続く。玄関までの関とした空間に鹿威しの清々しい音が鳴り響く。あたしのお祖母ちゃんの家も似たような雰囲気だけど、山に囲まれた祖母の家とは違って向かいの道路から隔たれた世界がここにはある気がした。ここが、弦一郎の育った場所。


「どうした?」
「ううん。なんかキンチョーしちゃって」
「何も緊張することはない。お前も母と何度も会ったことがあるだろう?」
「うん……でもおばさまだけだし」


弦一郎がグイと力強くあたしを引っ張った。そのままゆっくりと渡り石を伝っていくごとに心拍数も早くなっていく気がした。玄関へと辿り着き、弦一郎が引き戸に手をかけるの待つ。


「ただいま戻りました」
「はーい」


奥から馴染みのある弦一郎のお母さんの声が聞こえてきてパタパタと足音が鳴る。一度小さくお辞儀をして靴を脱ぎ揃えスリッパに履き替える。普段弦一郎からほのかに香る白檀の香りが鼻をくすぐった。祖母の家と似たような造りの大きな玄関だ。


「いらっしゃい、ちゃん」
「お久しぶりです。今日はお邪魔します」
「久しぶりにちゃんの顔を見れて本当に嬉しいわ、こっちへどうぞ」
「はい、どうもありがとうございます」


弦一郎のお母さんとはそれはもう三年前からの付き合い。授業参観の都度に挨拶しているし、大会にもいらしてるし。あたしは何故か保護者受けが良く、おしゃべりなのもあってかテニス部員のお母様方とは仲が良かったりする。それでもこうやって彼氏のお母さん、っていう関係になってからちゃんと話すのは初めてだ。卒業式では会釈しただけだったから。弦一郎のお母さんはいつもと変わらず柔和な笑みを浮かべて、居間へと通してくれる。いつお会いしても弦一郎のお母さんは可愛らしい方で、物腰も柔らかで優しくて本当に素敵だなあ。


「普段女の子の話なんてしないのに、昔からちゃんのことだけはよく話していたから、付き合うことになったって話を聞いた時それほど驚きはしなかったのよ。それにちゃんのことは私もよく知っているしね」


手土産を渡せば「まあ!」と素直に喜んでくれ、弦一郎のお母さんはお茶を淹れながら心の底から喜んでいるように穏やかに微笑みながら話してくれた。お構いなく、と断ってもニコニコと愛想よく笑いながらお菓子も食べてね、と気遣ってくれた。隣でむっつりと胡座をかいて座っている弦一郎をちらりと見遣ると不気味な程に静かにお茶を啜っていた。


「弦一郎くんは家でもこんな感じなんですか?」
「そうね、いつもこんな感じにしかめっ面よ」
「……ふふ」
「母さん、何を言うのですか!」


あたしとお母さんが砕けたように笑い出すと弦一郎は困ったように双方を見比べる。先程まで自分の中で張り詰めすぎていた緊張感は心地よいほどになっていた。通された居間からはよく手入れされた庭園見えて、今日のような快晴の日には爽やかな風が入ってきて気持ちいい。平屋は風通しがいいから好きだ。なんだか空気まで美味しく感じるような気がした。


「そうだ、ちゃん夕飯ご一緒にどう?今日は牛肉の金平牛蒡に山菜の和え物なの」
「いえいえそんな、お夕飯までご一緒になんて……」
「一緒にどう?なんて言ったけれどもうちゃんのお母さんには連絡は取ってあるの。いいわよね?」
「あ、そうなんですか……ではお言葉に甘えて」
「そうだわ弦一郎、お祖父様にちゃんを紹介してきなさいよ。こんなに可愛らしくて良い子だもの、お祖父様もきっと気に入るわ」
「そうですね……、離れへ案内しよう」
「うん」











* * *










情けない。何が情けないといえばいいのかは分からん。しかし、最近に抱いてしまう欲情を俺はどこにぶつければいいか分からずにいた。一心不乱に瞑想をし、稽古をし、汗を流せども一度休憩を取ってしまえば桜舞い散る中で霞がかった幻想的な光の中、俺を見て微笑んでいるのしなやかな姿が浮かんできてしまう。そしてどうしてもその肩を抱き寄せてしまいたくなるのだ。そのうなじに、顔を埋めてしまいたくなる。今日は以前よりも露出の多くない服で、楚々としており美しい。しかし、胸のボタンが少し弾けそうに留まっているのを見ると茶を喉に詰まらせやしないかと落ち着きがなくなってしまう。無言で離れへと案内される彼女は俺の胸中など露知らず、嬉しそうにお喋りを続けていた。


「今日ご家族はお祖父様とお母様だけ?」
「夕飯には父さんが帰ってくる。それに左助君が遊びに来ている」
「あの左助くん?!わぁ~、あたし会いたかったんだ!子ども大好きだし」
「そうか」
「うん!お祖父様、気に入ってくださるかしら」
「……お前なら大丈夫だ。胸を張れ」


自分で言って、愚かなことを想像してしまう。文字通り胸を張ればそのシャツのボタンは弾け飛んでしまうのだろうか。いや、そんな馬鹿げたことを考えてはならない。今はお祖父様への挨拶だ。俺がここまで異性に取り乱していると知られたら……知られたらどうなるというのだ?俺は自分の思考では到底処理しきれぬあらぬ妄想や目の前の出来事が渦巻いてしまい再びだんまりを決め込んだ。
には「大丈夫?」とむしろ心配されてしまう羽目となる。情けない、情けないぞ真田弦一郎!

悶々とした思案に耽っているうちに離れへと着いた。詰将棋をしていたお祖父様は晴れやかな笑顔で俺達を迎えてくれた。


「おお、やっと来たか!弦一郎、待ちくたびれたぞ」
です、初めまして」
ちゃんのことはよく聞いているぞ!弦一郎も隅に置けんのう」
「からかうのはおやめ下さい、お祖父様!」
「カッカッカッ、本当のことを言っただけよ」


お祖父様は愉快そうに笑うと、お祖父様の背後に隠れていた左助くんが顔を覗かせている。いつもならば人見知りもせず怖気づく様子もないがここまで恥じらう彼も珍しい。は母親らしさを想起させる優しい眼差しを左助君に向けていた。


「おじさんのかのじょー?」
「……そうだ。しかし左助くん、誰がおじさんだ?」
「ゲンイチロー!」
「こら、待たんか!!」


全く、俺は叔父だが彼が言うオジさんという年ではないというのに……!!ちょろちょろ動き回る6歳児を追っかけ回し、なかなかのすばしっこさに少し息を切らす。ふと縁側を見れば、放ったらかす形となってしまったとお祖父様は打ち解けたようで談笑していた。


「いいですね、可愛い曾孫さんがいらっしゃって」
「そうじゃな、この年でもう曾孫ができるとは思わなんだ……。しかし、弦一郎が彼女を連れてきてくれるとは本当に驚きじゃ」
「挨拶が遅れてすみません。夏の頃からお付き合いさせて頂いてて……」
「いやいや、よく来てくれた。わしも本当に嬉しいよ。弦一郎から話をよく聞いてたから初めて会うとは思えんのう」
「この度はお招き頂き、どうもありがとうございます。わたしもこうやってご挨拶することができて本当に良かったです」
「ん?そういえばちゃんと言ったの?もしかして橋口先生の……」
「えっ、先生をご存知なんですか?」
「お祖父様は警察学校で指導されているのだ」
「ええっ」


俺の補足説明には目を丸くして、俺とお祖父様の顔を見比べていた。


「おお、やはりそうじゃったか!この前の春の市民大会で準優勝だった子じゃろ?カッカッカッ、弦一郎も見る目があるな!こんな可愛らしいお嬢さんにあの気迫、気に入った!今度一緒に稽古でもどうじゃ?」


困ったように「いえいえ、そんな」と婉曲に断るを余所目に俺は混乱していた。市民大会?準優勝?剣道の大会でか?俺はから何も聞いてないぞ!


「真田先生もお越しだったんですね、そうとは知らずご無礼を……」
「ああ、いやそんな固くならなくてもええんじゃよ、お祖父様でよい。これからちゃんとながーい付き合いになると思うしの、弦一郎?」
「お祖父様ーッ!!!」
「ほれほれ、弦一郎男の嫉妬は醜いぞ。いつまでもイタチごっこなどしとらんで左助を紹介せんか」


俺は何が何だかわからなくなってしまい、一度も俺に見せたことのない形で素早く礼をしお祖父様に敬意を払うが突然知らない人に見えた。隠し事をする性格ではあるまい。しかし何故……。俺はお祖父様に言われたとおりに左助くんを捕まえ、渋々に紹介した。


「これが甥の左助くんだ。挨拶しなさい」
「初めまして」
「初めまして左助くん。っていいます、よろしくね」
「……?」
「こら、お姉さんと呼ばんか!」
「……ちゃん」
「左助くん!!」
「アハハ、弦一郎なんでもいいよ」


寛容にもはいつくしみ深き笑顔を向け、左助くんに手を差し出した。左助くんはその手をそろりと握り返し、彼女の温かい手にホッとしたのか幼気のある顔つきに戻っていた。そうと思えば、すかさず真後ろに隠れ彼女を盾にしていつもながらの憎まれ口を叩きだした。


「おじさん、うるさいよ」
「なんだと?!」
「うむ。弦一郎うるさいぞ」
「なっ、お祖父様まで!」
「あら、弦一郎もうおじさん呼ばわりされてるの?」
「そうなんじゃよ、弦一郎もこの年でもうおじさんになってしまったもんでの……」
「お祖父様!」
「でも早々と未来の嫁さんを連れてきたから安心したぞ。カッカッカッ!!」



お祖父様は再び大笑いなさって、は茹で蛸のように真っ赤に顔を染め上げ「お祖父様、気が早すぎますって」と言いながら笑い、照れに照れていた。そんな彼女の態度こそに絶大な信頼を置いていると言えるのだが、先程知った彼女のなんてことのない話にどこか引っ掛かりを感じすにはいられなかった。そしてつい先刻握っていたの手の感触を思い出す。彼女の白魚のような滑らかな左手を取った時、以前なかった小指の根元にざらついた小さなマメがあったのだ。彼女も俺には言いたくないことの一つや二つあるのだろうとは頭で分かりつつ、動揺している自分の思いがあるのは否めずにいた。

左助くんと無類の子ども好きのはすぐに打ち解け、今やアルプス一万尺をやっている。お祖父様も「手塚に自慢せにゃ」と携帯電話で写真を撮りご満悦のようだ。しかし、その光景の中一人取り残された感覚に陥るのは一体どうしたことだろうか。まるで薄い硝子一枚の隔たりがあるかのよう。ざわつく思いはそう簡単に凪いではくれない。不穏な波のような波紋が心に広がった気がしてならなかった。


「ねーねー、ちゃんはゲンイチローのどこが好きなの?」
「こら、左助。ちゃんを困らすでない」
「えー、だって気になるんだもん」
「そうねえ……」


もどうやら子どもにはお姉さんのように振る舞えるようで、普段だったらどうしようもなく恥ずかしがって茶化してしまう質問にも一生懸命答えを考えているようだった。視線でぐるりと円を描いた後、何か閃いたように「あ」と小さく口を開いた。


「左助くん、うさいぬ好き?」
「うん。可愛くてモフモフしてるよね」
「それと一緒だよー」
「……うさいぬとゲンイチローが同じなの?」
「うん、そんな感じだよ」


な、何を言うか!彼女が素っ頓狂な事を言うのは今に始まったことではない。しかし大真面目な顔をしては大きく頷いてみせた。左助くんは言われたことがよく分からないようで「ちがうよー!全然似てないよー」と至極全うである意見を述べていたがその傍ら、お祖父様は「ほう」と興味深そうに声を上げていた。俺には到底理解が出来ない状況で黙りこくってしまったが、それもが改めて「でもそれとおんなじなんだよ~」と持ち前の芯の強さを失わなわずに優しげに語りかけると、左助くんは「ヘンな人だ」と率直に失礼な返答をした。それにも関わらず「そうだよ、変な人なんだよ~」と調子を合わせるもんだからもう俺の手には負えそうにない。お祖父様はより感心したように静かに頷きを繰り返し、「本当に良い娘さんを選んだのう、弦一郎」とお褒めの言葉を頂いた。がそう褒められるに値するのは確かだが、どこでそうお祖父様の合点が行ったのかは分からず立ち尽くす俺の目は点になっていたのだろう。面白くない答えに疑問に思うのも飽きたのか、左助くんの興味はとうになくなっておりにおんぶを迫っていた。ワンピース姿の彼女を気遣ってかお祖父様はそれを制し公園に左助くんを連れて行くからと、を俺の自室に案内するよう快く促した。


「ほんとに弦一郎って感じの部屋だねえ」
「どういうことだ」
「想像通り、和室に簡素な部屋の確率100パーセントってとこかな?」


襖を閉めてから発せられた彼女の台詞に更に穏やかではない波紋が己の中で広がるのを感じた。蓮二はが好きだ。しかし彼女にその自覚はない。ほんの少し動揺を覚えた俺は、何も言わずに座布団を彼女に用意してやり「母さんに茶を用意してもらおう」とその場をすぐに後にしようと思った。するとは俺の服の裾をつまみ、心配そうに呟いた。


「どうしたの、弦一郎。なんかあたしまずいことでもしちゃった?」


不安げな彼女の黒目の中には深く皺が刻まれた自分が映っていた。指でそれをほぐしてやると、同時にやっと俺を見てくれたという安堵感も生まれた。


「あのね、別に隠してたわけじゃないの。小さな市民大会だったから……全然大したことないって思って。トロフィーも貰ったし嬉しかったんだけど、でも言うタイミング逃しちゃって……」
「そんな細かいことは気にしとらん。大丈夫だ」
「そう……」


よそいきの雰囲気から解かれた彼女は、先程の母さんやお祖父様と左助くんの前で気丈に振る舞う姿ではなくなっていた。俺がU-17合宿に行く前のように、煌めきの溢れた眼差しを俺に向けていた。瞬間、俺は彼女を自分に繋ぎ止めるよう引き寄せさらざるを得なかった。今日出会った頃から抜け出せずにいた夢想を遂にこの手にしたのだ。


……」
「久しぶり、ハグするの」


顔を俺の胸に擦り付ける彼女が素直に愛おしいと思った。髪から香る良い匂いが鼻にこそばゆい。体の芯がじんわりと温かくなると同時に全身に熱い血が迸るのを感じた。もしかと俺の背に手を回し、安心しきったように浅く呼吸を重ねていた。俺を駆り立てる煩悩が、それを如何ともし難い腹立たしさを訴えるがそんなけしからん考えは理性と共にしまい込もうと我慢した。


「ねえ、弦一郎」
「なんだ」
「座っていい?」
「……いいぞ」


少し体を離し、用意された座布団ではなく俺の隣に足を崩して座り込んだ。一瞬でさえその温もりが離れたことに名残惜しさを覚えると、不意打ちのようには俺の頬に素早く口づけをした。


「優勝じゃないけど、褒めて?」


花が恥じらうよりも慎ましい声で、しかし率直に欲求を表現する彼女の薄い唇に接吻をする。何を言えばいいかは分からなかったが、彼女も「ん」と可愛らしく小さく声を上げながら俺のを受け容れてくれる。柔らかく薄い唇に、彼女自身から感じられる甘やかな香り。忘れもしない、一昨年の全国大会。この香りが急に鼻孔に飛び込み、仄かだというのにいつまでも脳裏に焼き付いて離れない。唇を重ねては離し、重ねては離し。啄みながら、彼女を再び強く抱きしめた。円かな彼女の胸が俺の胸板に潰される。ああ、思ったとおりとても柔らかい。きっと白い肌のそれらを、この手で触れてみたい。自身の手で揉みしだいて、口付けを落としてみたい。
彼女の腕は首の後ろに回される。襟足を撫でられ、静寂に二人の想いが混ざり合い溶けていく。この声を、この顔を、この唇を知るのは俺だけなのだと幾度も口づけを繰り返していく。痺れていく思考とは裏腹に燃え上がる劣情がこれ以上暴走しないよう、彼女の肩に手を置いた。普段はぱっちりと開かれた彼女の天真爛漫な瞳も、濡れたような艶めく光を宿していた。思わしげなため息をつくと、は恥ずかしいのかいつもの調子でハリのある声を上げた。


「あのね、ハグって体に良いんだって。脳にβエンドルフィンとオキシトシンとドーパミンと……なんだっけ」
「……そうか」
「えっと……そうなの」


は気まずそうに、唇の端を上げた。彼女のこの策は有効打であった。あてのない情欲が彼女にぶつけられることはなかったのだから。長く感じられた数ヶ月、愛情をこの手で確かめ合いながらも腑抜けた姿を彼女に見せなくとも済んだ。それだけで充分だった。


「次は優勝を狙え」
「えっ、なにそれひどーい!褒めてって言ったのに」
「準優勝で満足するとはたるんどるぞ!」
「去年全国大会で準優勝したのはどこかの誰かさん達でしたっけねー」


うっ、痛いところを衝かれてしまった。しかしは冗談で言ったことで一枚上手になれたのが嬉しかったのかカラカラと笑った。いつものだ。それでも急に背に腕を回され、無邪気に「セロトニンだ!副交感神経の働きが促されてリラックスできるの」


彼女には食わされっぱなしだ。再び参った、と両手を上げるしか無い。俺の胸の中で首を傾げ、幸せそうに見える彼女に水を差すことはすまい。小さな背中に密着する彼女の女性らしい体つきに当てられっぱなしになり、頭は真っ白になりボーッとしてしまう。どこまでも膨らんでいく欲望を抑えつけることだけに一点集中し、彼女の抱擁を受け止めた。


(210419修正済み)
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