少年は少女にキスをする
こんなに、体中が甘い疼きを覚えるほどのときめきを感じているのはあたしだけなのかな?正直、真田の腕に再び抱かれた時はもうキスシーンあったっていいやって思えたのに。確かに、真田はたまに石で出来てるんじゃないのって思うくらいには硬派である。でも、もう付き合ってるし……、この年でキスしたって別に何も悪くないよね?!そういうのチャラチャラしてるとか思うのかなぁ……、思ってそう。あたしだけが前のめりになってしまうのは嫌だ。真田は……キスしたくないのかな。考えれば考えるほど落ち込んでしまう方へ思考が逸れていくので、練習があった日だとしても劇が終わるまで真田と必要以上に接触することは避け(しかしあくまでも自然に)、帰宅する時は台詞合わせをせっちゃんに頼んでみんなで台詞を読み上げる機会にし、真田と二人きりにならないようにした。当然かのようにせっちゃんにはわたしの魂胆を見透かされていたので、呆れられたけど。
話は変わって、学園祭の準備もクライマックスを迎えていた。クラスでの出し物の執事・メイド喫茶ではあたしは裏方を希望したんだけど、くじであっさりメイド役に決まってしまった。午前と午後でメイドと執事が入れ替わるっていう時間制の喫茶店だ。だから休みもまとめて取りやすい構成なはずなのに、あたしと真田の休憩時間はほとんど重ならないので中学最後の学園祭を一緒に回るのは残念ながら無理そうだ。でもどっちにしろ劇の方にかかりきりで、クラスの手伝いはほとんど出来なかったんだよね。学園祭当日もあたしと真田は劇のリハーサルがあるし、基本的に準備期間もクラスを抜けていつも通りのメンツと毎日顔を合わせ、今回はテニスじゃない『演劇』で新しい目標に向かってチーム一丸となってとりかかるのであった。そしてなんと、三年男子テニス部の舞台は一度切りで大トリ。しかもせっちゃんの才能が遺憾なく発揮された、このふざけたビラときた。
表だけではなく裏にかかれたビラの宣伝文句が『世界一お堅い王子、ロマンスを駆け巡る!眠り姫の呪いはその唇で解けるのか?!』だなんて呆れを通り越して乾いた笑いしか出ない。このビラ自体はせっちゃんが水彩で描いたもの。せっちゃんの描く色彩は優しくて温かいから大好きなんだけど…………、いやいやポスターの美しさに絆されてはいけない、とあたしはこのビラと家でしばらくにらめっこしていた。親には「劇に出るんだって?」とせっちゃんのお母さんから仕入れてきたであろう情報に有耶無耶に答えるので精一杯だったし、家族が寝静まってから自室でブツブツ呪文を唱えるように台詞を練習し、ため息をついては真田とのキスシーンのことを思い出していた。まるで恋の重症患者だ。
悔しいことに、台本はかなり面白いんだよね。コメディ要素もうかがえる。流石去年賞取っただけあるって感じ。ファンタジーの異国の世界だというのに、せっちゃんなりの創意工夫で日本人なあたし達(ジャッコー以外)の名前で劇するところとかも、これが地味にスパイスが利いててなかなかに面白い。笑いあり、涙あり、感動ありが一番客を惹き付ける要素だとせっちゃんは言う。お前はいつベテラン舞台監督になったのかっていうツッコミはお断りらしい。
そんなこんなで文化祭最終日。劇以外では二人きりになって恋人らしい会話を交えてない真田とあたしは今日、メイドと執事の入れ替わり制のおかげで結局本番直前のリハーサルまでほとんど顔を合わせることがない。というわけで今はせっちゃん達とお昼ご飯を広げているところです。友人の噂で真田の執事姿も結構女子にウケてるらしいとのことを聞き、あたしは今ご機嫌ななめです。
「アハハ、じゃぁも真田の執事姿を見に行けばいいじゃないか?今いるんだろ?」
「そーだけどさー……」
「まだ時間あるから、俺が一緒についていってあげるよ」
「いやいや、せっちゃんリハーサルと本番まであと1時間半しかないよ?早くお昼食べちゃわないと」
「精市、面白がるのはいいがの言うとおりだ。毎年クラスごとの記念撮影があるから、はそこで弦一郎の執事姿を見られるんじゃないか?」
「ちぇっ。でものメイド姿は今日の模擬店が閉まる前に絶対見に行くからね。昨日はクラスの当番で見に行けなかったし」
「えっ、ちょ、来なくていいよ!」
「ふむ、俺も興味がある。精市と後でA組を訪ねるとしよう」
「柳まで!」
「蓮二お父様、だろう?」
柳が軽口を挟む。あたしは一層機嫌を悪くして、お弁当のおかずのウィンナーを箸でつついていたのを投げやりな気分で口に運んだ。最近あたしが柳、と呼ぶたんびに柳は意地悪くこの文句を述べる。そういえば、あたしは未だに真田のことを名前で呼べてない。意識してるわけじゃないんだけど、いや、めちゃくちゃしてるんだけど……。劇中で何度も「弦一郎」と呼んでいるので、うっかりそのまま下の名前で呼びそうになる時もある。でもこういうのは自然な流れでスマートに流しちゃってもいいかもしれないけれど、なんとなーくちゃんと向き合って彼の名前を呼ばなきゃいけない気がする。これはあたしの中での問題なんだけどね。
ちなみに今あたしたちは屋上にいる。文化祭の期間中屋上は閉鎖されてるはずなんだけど、ところがどっこいせっちゃんが職員室から鍵を拝借してきてあたし達は秘密裏に屋上でお弁当を広げているというわけ。
「?どうしたんだい、箸が止まってるよ」
「また考え事でもしているんだろう」
「……キスシーンのこと?」
「え、い、いや、別に?」
「……がそこでまで嫌なら、別にフリでも構わないよ」
「え?!」
「だって本当に深刻そうにしてるからさ。俺も今回ばかりは少し無謀だったかなーと思ってたし。シャイなと奥手な真田にそんなこと、要求してもね」
せっちゃんはいつもながらに柔らかく微笑んで、あたしの頭を大きな手で撫でた。今更かよ、いや皮肉に挑発の意が込められている気がしなくもない……と、ちょっと思いもしたけどせっちゃんなりの心遣いだったのであたしは何も言わなかった。それにちょっと泣きそうだった。あたし自身のことは、もういいんだ。真田はそういうことまだしたくないみたいだし。ただ、あたしだけ舞い上がってなんだかやんなっちゃう……。いかんいかん、本番を前にして涙を滲ませるわけにはいかない。泣きたい気持ちをぐっと堪えると、せっちゃんはあたしのブルーな気分を打ち砕くように声を張り上げた。
「さぁ、はそのブロッコリーの茎達をやっつけないと、着替えにいけないよ!」
「げ。なんであたしが茎が嫌いなのわざわざ覚えてんの。あ。柳、いる?」
「のためにここは断っておこうか」
「せっちゃん、意地悪な蓮二お父様のせいで食べるのにあと30分はかかりまーす」
「仕方ない、半分だけ食べてやろう」
「わーい!柳くんだいすき!」
あたしが器用にひょいひょいとおかずを柳のお弁当箱に移動させていると扉の方で気配を感じたので振り返ってみれば、真田が棒立ちで突っ立っていた。い、今の聞かれちゃったみたい?真田の場合、こういうの本気で受け取るからなァ……ど、どーしよ……。それにしても、真田、執事姿のまんま来てる?!あたしは不覚にも自分のしでかしてしまった失敗になんとなく浮気してしまった妻のような背徳感を抱きつつ、真田の厚い胸板を包む燕尾服姿にうっとりと見惚れてしまっていた。
「……もうすぐ集合時刻ではないのか?」
「ああ、真田。俺たちも行くところだよ」
「む、!好き嫌いせんでちゃんと食わんか!」
「えー……。だってこれだけはどうしても嫌いなんだもん」
「蓮二もそうやってを甘やかすな」
真田は矛先を柳に向けて、彼をきつく睨んだ。でも流石の柳はそれに物怖じすることなく、淡々と次のような反撃の言葉を繰り出した。
「では弦一郎、お前が食べればいいだろう。結局お前はそれが気に入らないのだからな」
「それでは結局のためには……」
「もう二人共ごちゃごちゃうるさいよ。さぁ、。それだけたいらげちゃったら行くよ」
「え?あ、うん。……え?」
柳と真田が不穏な雰囲気で会話している間に、いつの間にかせっちゃんがあたしの弁当箱からほとんどブロッコリーの炒め物を食べてしまっていた。真田は帽子もないのにそれを目深に被るような素振りを見せて、「たるんどる」とか「さしずめ、そうしたところで……」とかなんとかブツブツ呟いている。真田の挙動不審な様を眺めつつ、ほとんど一口となってしまったおかずをあたしはすぐに口に運び、念の為に口臭用のミントを食べる。せっちゃんは腿を叩いて少し苛立っている様子なんだけど、どうしてかしら。もしかしたらあたしが食べるの遅かったからいけないのかも……。本日の空の様子からすると客足は悪くないだろうことを予測できる。他校からもカッコいいという声が上がる元レギュラー陣だものね、きっとお客さんは多いと予想できる。……うー、そう考えると今から緊張してきた。それにこんな気持ちのまま本番を迎えるっていうのも、なんだかモヤモヤするし。一度切りの舞台だけどもう終わってることにならないかな、なんて思ってしまう。感情が先走り、やるべきことを見据える眼が曇り、事実と感情がぐちゃぐちゃになってどれが一番かって優先すべきことが分からなくなる自分が本当に、本当に、嫌んなる。
あたしたちは全員着替えを終え、そしてリハーサルに臨んだ。台詞をすぐ言い換えてしまうわたしにも大きなミスもないし、バミったところや立ち位置を確認するなどの細かな調整だったけど、せっちゃんからはあたしの発声も動きも悪いって割と厳しめに注意されてしまった。確かにケッコー緊張してるし、この心の中の最大限に膨れてしまったわだかまりを抱きながら最高の劇ができるだなんて思ってない。涙腺がゆるめなあたしは、ちょっとでも興奮したり感動したり、緊張状態になるとすぐに涙が溢れ出してしまう。だから、今は胸がはちきれんばかりの苦しさと、真田と密着していてもドキドキよりも虚しさで目頭が熱くなる。でもやっぱり、真田と舞台前に必ず向き合わなきゃいけないんだと思う。せっちゃんから言われたことを伝えなきゃいけない。やらなきゃいけないことはわかってるのに、こんなに悲しく切なく胸が縛られる思いをしてしまって、自分がどうしても甘ちゃんと感じずにいられないわけがない。
口がカラカラに乾いてゆく。声がいつものように出ない。控室であたしと真田は出番を待っている。控室といっても、体育館の舞台裏にある小さな放送室なんだけど。人前に出ることってこんなに緊張するっけ。何度も深呼吸して気持ちを落ち着けているはずなのに、全身が震えているのがわかる。あたしの出番は中盤からなので、あと10分はここで待たなければならない。出番の5分前には舞台袖に移動する手はずだ。平常心、平常心、と自分に言い聞かせてもなんだか胸がざわつく。音楽が流れ始めた。幕が上がった。音楽がなぜかやけに遠くから聞こえる気がする。うう、なんだかお腹がちょっと痛くなってきた気もする……。あたしと真田は先ほどから驚くほど会話を交えてない。真田も緊張してるのか控室内の空気が張り詰めている。でも、言わなきゃいけないことがある。舞台が始まる前に、必ず彼に言わなきゃいけないことがある。真田はあたしの向かいの机に腰かけていて、着替えた衣装は真田の引き締まったしなやかな体をさらに強調させていた。あたしは彼への想いのせいでぎゅうっと握りつぶされたような心臓の痛みを感じながら、重々しく口を開いた。
「真田……?あのね、少しだけ話したいことあるんだけど」
「……なんだ」
「その、せっちゃんがね。えっと……キ、キスシーン、フリでもいいよって、言ってくれたから……」
「……そうか」
「うん……」
今あたしが言ったことが頭に入ってないような煮え切らない真田の反応と自分の気持ちのすれ違いにいい加減苛立っていた。あたしはこの15分後、美しい姫になりきらなければならないのに!良い意味でも悪い意味でも、はっきりと自分の意見を言えるこの性格だってここで尻込んでいればそうではない。舞台上でのあたしの役は堂々とハキハキしてて、とせっちゃんがそれぞれの個性を出して脚本に書いてくれたはずだ。また瞼が熱くなってくる。でも、涙を流しちゃうとせっかくのメイクが取れてしまう。でももう……、なんとでもなるかな。というか、もうどうにでもなってしまえ!
「真田」
「なんだ」
「真田は……真田は、キスシーンだけじゃなくて……キス……するのもいやなの……?」
あたしの声はやはり震えていて、きっと舞台に上がる時よりも緊張していた。そして、彼は少し俯き加減にあたしを見つめ返した。試合の時のような、真剣な目だ。そして、腰を上げてあたしの方へ歩み寄る。狭く薄暗い部屋で、余計に距離が近くなった。
「お前は……嫌、ではないのか?」
真田が質問に質問で返してきた上に、思わぬ角度からの質問を尋ねられたことにより緊張の糸が切れ、頬が燃えるように熱くなって早口でまくしたててしまった。
「あ、あたしは初めっから嫌じゃないよ!?むしろ、あたしは」
すると、ふわりと空気が動いたのと同時にあたしは顎に指を添えられ生温かいものが唇に触れるのを感じた。ぎゅっと押しつけられて、突然だったために息ができない。カサカサとした皮があたしの唇を揉む。反射的に目をつぶってしまい、それがキスだと気付いた時には既に真田の鼻筋が目の前にあった。あまりのことに何も出来ず、あたしは唇を離した後に大きく息をはいてしまった。
「ふぅ……、さな、だ?」
「す、すまない!お前が……嫌ではないと、言ったから」
「え、え、え?!」
あたしは言葉にならない声を上げ、立ち上る甘い空気にすっかり酔いしれて今しがた彼のものに塞がれていた唇を指で抑えた。さ、真田ってば……い、今、あたしにキスした……?!
「……真っ赤だぞ」
「……真田だって」
声が鼻にかかり涙声になる。自分でも分かる、だって涙が瞳の端に滲んでいるもの。
「い、嫌だったか?!」
「ううん、バカ!うれしいの……」
あたしはそのまま涙を流しながら、衝動的に真田の胸の中に飛び込んだ。前にも感じた温かく力強い胸で真田も、優しくあたしを受け止めてくれた。ドキドキと胸の鼓動がおさまらない。さっき感じていた緊張とは違う、心地よいドキドキ。こんな時でも頭に過る舞台の進行のことを考え、時計を横目で確認すればあと5分で舞台袖に行かねばならない時刻だった。でもこの胸からいっときも離れたくない。だからあと5分だけ、夢見たっていいでしょ?
「真田は……嫌じゃなかったの?」
「嫌なわけがあるまい。ずっと、こうしたかったのだ……」
「あたしもだよ。……しなかったのは、あたしが嫌がると思ったから?」
「そうだ。公衆の面前で求められたのにも躊躇いはあったが……。するならばに……、に意思を確認した上で、と思っていたのだ」
きゅん、と胸がときめいたのがわかった。真田があたしの名前を呼んでくれた!……しかもわざわざ言い直して。もう天にも昇ってもいいよ、あたし!涙が溢れるのをこらえつつ、あたしは彼の胸に顔を埋めた。だってこの胸を痛めて、あたしが嫌がることをしたくないと真面目に考え抜いてくれたんだもん。
「嫌ではないのだな?」
「ヤじゃないよ……。もっとして、好きな時に、して……」
「……」
真田はあたしの頭に手を添え、もう片方の腕で力強く腰を抱き寄せて、恥じらうあたしに再び口づけを落とす。先ほどより優しいキス。あたしの唇を味わうように、堪能するように、上唇を動かす。小説とか映画でしか知らなかった、誰も知らない甘い声が出た。
「ん……ん」
「苦しかったか?」
「ううん……。苦しくないよ……。……弦一郎」
あたしは自分で言ったのにも関わらず、頬の赤みが増したのを感じた。……弦一郎も、褐色ぎみの肌をぽっぽっと熱らせている。時計をもう一度見やると、舞台袖に移動するまであとわずか1分!ここを出る準備をしなくちゃ。あたしはとっさに鏡を見て、泣いた痕の支障がないかとティッシュで目尻をちょんちょんと拭いた。弦一郎の胸を離れるのは名残惜しい。もっと、くっついてたい。だけど行かなくちゃ。でもさっきよりずっと心が軽くなった。緊張なんてどっか行ってしまった。わたしの中で縛りつけられていたものが解かれたような気がして……。よくわからないけど、一言で言えば今のあたしはなんだかとってもいい感じ!
「じゃ、行ってくるね!」
自分でも声が弾むのが分かる。自分の中のとびきりの笑顔を弦一郎に向ければ、弦一郎もそれに微笑み返してくれる。扉を開けば、賑やかな舞台の音楽があたしを誘う。舞台のあたしは、森に住む恋を夢見る年若い娘。その正体は悪い魔女に呪いをかけられた、可哀想なお姫さま。でもなんてこたない、悲劇だってハッピーエンドに変えてみせる!だってこんなにも素敵な彼が、キスで永遠の愛に目覚めさせてくれるから!
(200926 修正済み)
(090730)