クロスウィズユー
レギュラー全員とあたしは真田に呼び出され、ジリジリと熱線のような日差しが降り注ぐコートの端に立っていた。昨日の敗戦についての反省会だ。はっきり言って日陰もない灼熱の太陽の下で立たされて汗を流しながら話すよりは熱中症対策のために屋内で話したほうがいいのだけれどと、この時期になると熱中症になる部員たちを世話をする身としてはどうしても思ってしまう。
「次に俺達が目指すのは全国大会優勝だ。しかし、昨日の敗戦を許すことはできん。無論、チビ助に負けた俺も含めてだ」
真田はその鋭い視線をあたし達に向け、口を真一文字に結んだ。拳も強く握りしめている。あたしは部室の使われていないロッカーに隠したトロフィーのことが脳裏によぎった。きゅっと心臓が苦しくなった。
「我が立海大附属の三連覇を絶対に成さねばならん!だからけじめをつける為、俺も制裁を受けよう。……ジャッカルお前から始めてくれ」
「あ、ああ……行くぜ」
ジャッカルは真田の気迫で言われるがままに手を振りかざした。あたしは目を薄く開いて、顔を歪ませた。ペシィ……。鈍い音だけがその場に響く。ジャッカルの手は震えている。それはそうだ、真田が鉄拳制裁を受ける側に回ったことはない。副部長である真田は負けない、だから彼が鉄拳制裁を下すのだから。
「何だ今のは……?」
真田のジャッカルを睨めつけた。その声にはいつも以上の厳しさを感じさせるものがあった。
「俺は無敗での三連覇を掲げた、幸村が戻ってくるまでな。だが昨日の関東大会決勝、ルーキーのチビ助に負けた。きっちり制裁を受けんと俺の気が済まん!!もっと強くこんかぁ!!」
すると、静かに仁王が前に進み出て思いっきり真田の頬を引っ叩いた。あたしは瞬間的に目をぎゅっと瞑ってしまった。真田は次!と促しレギュラー全員が真田の頬を打っていく。先程のように薄く目を開いて見届けることしかできない。これを見届けないのは、皆の戦いざま見届けられないことだと思うからーー。
「次!!」
「えっ……」
「お前も最前線で戦ってきたチームの一員だろう」
「あたしは……」
真田は言い出したら聞かない。それは分かっているけれど……。あたしはうまく力が入らない右手を自分の前に掲げる。そんなことは……できない、でも。今まで皆の目の前で泣かないようにしていた反動もあってか、熱い涙がとめどなく流れ出した。大粒の涙が、地面にシミを作っていく。
「そんな……そんなことあたしにさせるくらいなら、もう負けないでよ!!あたしの手は真田をひっぱたくためにあるんじゃない、みんなを支えるためにあるの!!」
あたしは涙でぐちゃぐちゃになっている顔を隠すことなく叫んだ。でもこれが、あたしの本音だった。負けた時、誰も責められないと思った。でも違った。せっちゃんとの約束を果たしたくて、必死にチームの勝利のために働いていたのはあたしもおんなじだったのだ。あたしは荒々しく顔を腕で拭った。頬を赤く腫らした真田は、これまで以上に険しい顔をしている。
「もういいだろう、弦一郎。の涙がお前への制裁になる」
「……ああ」
珍しく、柳の言葉に真田は引き下がった。あたしはしゃくり声をあげていたら、柳生がハンカチを差し伸べてくれた。再びごしごし瞼を拭くと、赤くなりますよと気の利かせた言葉を残して。爆発した思いをぶつけてしまったけれど後ろめたさが残る。でも自分へ人一倍厳しいあなたが好きだから、あなたのこんな姿はもう見たくない。それはどんな角度から見ても紛れのない事実なのだ。あたしは溜め息を深くつき、急いで真っ赤に膨れた真田のほっぺのためのアイシングの氷を取りに行った。
「柳ここ二重にチェックしてくれる?何回やっても数が合わない~」
「ああ、そこの脇に置いておいてくれ」
俺はそう言うと、は乱雑に重なっていた書類を丁寧に揃えてまとめておいてくれた。は次の資料に目を通せば、やるせなさそうに窓の外を見やる。
「……弦一郎のことか?」
声に出して肯定するのが嫌だったのか、は小さく首を振った。俺はそうか、と様子を察し明らかに肩を落としているへの言葉を探した。精市に頼まれたとはいえ、間接的に関わっている上に俺にも責任がある話だ。
「きっと、あいつもお前に何も言えないことが歯がゆいのだろう……だが、今がその時ではないと思っている」
「……うん、わかってる」
「あの時の告白が悪くないとあいつは分かっているはずだ。お前が待っているということも。の働きぶりは皆よく分かっている」
「……うん」
「しかしやはり自分の気持ちをの前で抑えきれない。弦一郎は単純だからな。テニスに集中するあまり、マネージャーではないを意識しないようにしているな。……決勝前日に勝手なことをした。すまない、」
「……柳はなにも悪くないじゃん」
俺が蚊帳の外にいるかのようなの口ぶりに苛立ちを覚えた。にだけではない、俺自身にもだ。精市の言う通りにタイミングを合わせ、決勝前日に弦一郎を病院へ行くよう仕向けたのは俺だ。とかち合うのにも時間の狂いはなかった。だが……。
「あの状況に追い詰められれば、お前だろうと口を滑らせて思いを告げてしまうだろうと、俺は知っていた」
「知ってる。せっちゃんに聞いたよ。でも、そのおかげで真田から本当の気持ちが聞けたんだし……」
「だがしかし、このような事態を招いたのは俺達だろう」
「でもこれはあたし達の問題なんだし……。もともとあたしは部活を引退するまで真田に気持ち、伝える気はなかったんだから」
「とはいえ、引退した後だとしても伝えるかどうかは分からなかったのだろう?」
「うーん……。全国大会優勝してから……考えようかと?」
口をへの字にして一生懸命考え込んでいるの姿は、少し苦しくもあった。俺だったら、こんな思いをさせないのにという考えさえ浮かんでしまう。眉間に皺を寄せ、俺の問いかけに揺さぶられるは真っ直ぐであり、脆い。
「……なんだかさ。自信なくて……真田が、あたしのこと好きだったって夢だったんじゃないかなあ、とか思っちゃう時もあって」
「……夢ではない。弦一郎がお前に惚れ込んでいることは周知の事実だ。分かりやすい奴なのはお前も分かっているだろう?」
「う、うん……。でも……夢だった、って思った方が今は少し楽なのかも」
は「こんなのただの逃げなんだけどね」と言い自嘲的に笑って資料に目を落とした。一度は確認できたはずの弦一郎の気持ちが今、弦一郎の行動によっての中で僅かに揺らいでいるのは分かった。統計的にみれば、結ばれた直後の行動が原因で冷めるカップルも少なくはない。しかし正直に言えば、彼らを心配する気持ちよりもどこかで安心した自分がいるということ感じていた。この気持ちに名前をつけるのならば……否、既に俺はその名を知っているだろう。
「夢だった、といえばこの前のことは起こってないことになるが……」
「……そうだけど」
「本当に起きていないとしたらお前はどうするんだ?その想いを抱いたままでいるのか?」
俺は意地悪く冗談を交えたように笑いながら問いかけてみると、はうーんと短く唸る。そして穏やかな微笑みを浮かべ、小さく頷いた。やはり、そうだろうな。
「あの日のことがなくても……きっと好きでいると思う。簡単に捨てられる思いじゃないから……あたしは、好きって言えるんだと思う」
「……耐え忍ぶ時期が長くともか」
「ちょっとしんどいけどね」
「……恋とは、得てしてそういうものだ。仕方のないことだろう」
俺は早口でそう言うと、嘘つき、と誰かに囁かれた気がした。はその声に気づくはずもなく、ふっきれたようににこっといつもの愛らしい笑みを俺に向ける。「ありがとう」と言う形の良い唇に部室の匂いも、蛍光灯の黄ばんだ光も、外から聞こえる油蝉の鳴き声に混じって聞こえる部員の掛け声、そして湿っぽい暑ささえも、すべてそれに攫われていった気がした。そう、恋とはこういうものなのだ。全ての論理をも無効化し、そして人の感情を狂わせる。俺は知っていたはずだ。けれども彼女の幸福を俺の物にしようとも思えなかった。の一途さも思いの丈も、俺は十二分に知っているからだ。昨年、データではの想い人は俺でもあるという可能性を計算していたはずだ。確率は低くなかった。それが初めて、人間関係において計算が無意味だと思わされた時だった。
「幸村くん、復帰おめでと~!!」
ブン太の声を皮切りに、クラッカーがパンパンと鳴った。皆が小さく拍手をしてくれるなか、だけが一人盛大に拍手をしていた。感極まって少し涙ぐんでいるのを一生懸命隠そうとしているのがいじらしい。ブン太は三段もある素晴らしいケーキをこしらえてくれたのだけど、祝賀会が始まったと同時にすごい勢いで一人で食べてしまっている。赤也とジャッカルはケーキの美味しそうな部分をブン太から取り合っているし、真田と柳は少し機嫌良さそうに話し込んでいる。柳生はにハンカチを差し出していて、仁王がそれをからかっている。この部に帰って来られて、自分がその一部になれているとひしひしと感じる。すぐに泣き止み、お情けで分けてもらえたケーキの一ピースを嬉しそうに頬張るを眺めながら、俺は久しぶりに心の底から笑っていた。しかし、それと相対して真田との間に流れる気まずい空気に、俺は全身の血が燃えたぎるような怒りを覚えていた。俺がテニスに集中するためにも、この気持ちは解消しておかないといけない。それに、彼女のためにもーー。俺は祝賀会が終わった後に真田に声をかけた。いつものように部室の片付けをするなどを、柳が空気を読んで人払いをしてくれた。
「真田」
「何だ、幸村?」
俺のもうひとりの幼馴染はいつもより一層気難しそうな顔をしていた。彼も思うところがあるのだろう。それでも。
「今まで何をしていたんだ?」
「何をしていたって……何の話だ?」
「何の話って……。たまに、お前のそういうところがたまらなく嫌になるよ」
本当に、お前のそういうところが嫌いだ。心の中でもう一度悪態をつく。俺がよほど険しい顔をしていたのだろう、真田も神妙な顔つきで俺の問いかけに応じた。
「話が見えないのだが」
「いいや、お前は分かってるはずだね。関東大会で無様な負け方をして、に甘えてるお前自身を。俺は失望させられたよ」
真田は何も言い返す言葉が見つからず、下唇を噛んで眉根を寄せた。固く握られた拳を震わせている。いくら鈍いとはいえ、その様子から俺が何の話をしているかは理解しているようだ。そうだ、俺は怒っているんだ。
「なんであんなことになったんだ?そんな風に彼女を無視するならそれはお前が間違ってるよ」
「だがしかし全国を控える身に邪念があっては……」
「じゃあ何、のことは邪念だっていうのかい?ああ、そうかい。じゃあのことは諦めるんだね。お前なんかにを任せられるとは思えないよ」
「……」
俺はひと息でそう言いながら厳しく真田を睨めつけると、俺自身もきつく拳を握っていることに気づいた。己を巡る血潮がどくどく脈打って熱い。その時の俺は、きっと苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「勿論今は全国制覇のためにテニスに集中してもらいたい。だってそうしなければいけないことぐらい分かってる。ただ、それでいいなんてことはない」
「……ああ」
その物言いさえも苛立ってしまう自分が抑えられない。お前には分からないだろうね、俺が守ろうとしているとの関係。今と真田は……チームメイトとして、友人として対等に関係を結んでいるんだよ。それが俺達にとってどれだけ難しいことか、お前が分かることはないだろう。そのことで、真田のことを少し憎く思ってしまうことも……それを真田が理解できる日が来るとは思えない。だからお願いだ、せめて信頼のできるお前にを託したいんだ。
「全国大会三連覇は俺達にとって絶対だ。一つの負けも許されない。ハナからお前が器用にとの関係を進展させることができるだなんて思ってない。むしろそっちにエネルギーを割くことは今は控えてくれ。だが……今のと君は脆い関係の上に成り立っている。そんなところに、いつ柳がをかっさらってもおかしくない状況だ。それは分かっておいた方がいい」
「蓮二が、か……?」
「本人は隠しているつもりだろうけど、柳はに惹かれていると思う。あの二人は仲良いし、お前とがこんな状態なんだからが真田から柳に乗り換えるのだって俺はアリだと思うけどね」
そう冷やかに言いのけると真田は俯き、黙りこくった。当然の報いだ。自分で仕組んだとはいえ、俺からを奪ったのだから。それなのになんだこのザマは。は今、余計に傷ついているんだぞ。
「もう一度言う。今は真田にも皆にも試合に集中してほしいし、そうすべきだ。両立できないのならば……。理解のあるマネージャーでいてくれるの温情に甘えるしかないだろう。だが、全国大会を終えれば話は別だ。その後は自分の頭で考えてくれ」
「……ああ」
言葉少なに、そして真っ直ぐ俺を見据えて真田は返事をした。この二人はまだぎこちなくて不器用で、ここのところまだチームメイトとしてしか言葉を交わそうとしかしておらずチームの外では心が通っているとも言い難い。だからが幸せになってくれるのなら、柳と一緒になる道を選んでも俺は一向に構わない。……でも、それをは望まないから。どうにもならない苛立ちで、音が立つほど部室のドアを乱暴に閉める。真田が追って出てくる気配はない。ゴミ捨てを終えたがいつものように上機嫌で「せっちゃん!」と柔らかい声で俺を呼ぶ。その肩を前のように抱くことはもう易易とは叶わない。けれど、君が俺に笑いかけてくれるだけで……、それでいいんだ。ずっと君にとってたった一人の特別な人でいたかったけれど、これでいい。蝉がジーッと鳴く音、体温を上げていく熱気、じんわりと吹き出す汗。そしてそよ風に揺れるのポニーテール。すべては俺が求めていたことだ。ただ、この胸は締め付けられるような苦しい思いをなかなか忘れはしないだろう。君が心の底から愛した人と幸せになるまで。
(200731 修正済み)
(090405)