敗者の矜持
関東決勝、せっちゃんの手術当日。心地よさをはるかに超えた緊張感があたし達の間に張り詰める。皆青学のルーキーを意識して、コート上の挨拶で睨みつけていたのは傍から丸わかりだった。それに、青学の大石くんがタンカを切って会場全体がざわついていた。一、二年生の声援も割れるように高い。この決勝戦への不安はほとんどないし、あたしはせっちゃんを信じてる。昨日の告白のことだって今はもう遠く彼方のように感じてしまう。それだけあたしは目の前に広がるコートだけに集中していた。大事な決勝戦を前にあたしと真田は朝からその話題は一切していない。決勝戦が終われば、という気持ちが暗黙の了解になっていると思う。ただ、何かを予感しているかのように胸がざわめいていた。
「、お前本当に病院に行かなくていいのか?」
無事勝利を収めてベンチに帰ってきたジャッカルにタオルとドリンクを手渡しながら、顔を強張らせていたあたしに気を遣うように言った。三脚を立てて動画を撮っていたあたしは手をカメラにかけたまま、何を言われたのか即座に理解できずうまく声が出せなかった。
「え……。でも、ご家族がいるし」
あたしはふうとひと息ついて、頬を軽く叩いた。試合直後のジャッコーに気遣われるなんて、試合に集中しすぎて選手より力が入っていたかもしれない。あたしは自分の眉間の皺を指でほぐした。
「お前はあいつの家族も同然だろ。試合は俺達が勝つぜ」
「そうだけど……」
「何言ってんだ、ジャッカル。もチームの一員なんだからここで試合を見届けるに決まってんだろぃ」
ブン太は勝利を勝ち取ったからか、乱雑に顔を拭きながらケロッと言いのけた。他のメンバーもそれに小さく頷いている。ジャッコーは少しバツが悪そうに、そうだなと言ってあたしの肩をぽんと叩いた。コートに立っている柳生と仁王もきっと同意するであろう。あたしがこの場を離れたって、せっちゃんに出来ることはなにもない。
「うん、ブン太の言う通り!大丈夫。せっちゃんの手術が終わる頃には病院に行けるように、残りの選手に頑張ってもらうからね」
自分に言い聞かせるように言うと、柳がそれに深く頷いていた。腕時計ばかり見つめることはやめた。あたし達は王者立海大附属、全国大会三連覇を果たすためにここにいる。そして、せっちゃんと交わした約束も……。前をしっかり見据えて、めいいっぱい空気を吸った。せっちゃんから、手術を受けてくるというメッセージが来た携帯電話をしまい、あたしも応援団や下級生の応援に負けないぐらいの大きな声でエールを送るのだ。
試合が終わり、両校が挨拶を交えている今も会場には熱気が渦巻いている。中学テニス界でも屈指の試合だった。真田も、青学一年の驚くべき進化と目まぐるしい攻防を前に負けを認めた。自分のスコアノートに書かれた結果はダブルス2・6-1、ダブルス1・6-4、シングルス3・6-7、シングルス2・5-7そして先ほどの試合、シングルス1・5-7。ダブルスのみ強いと思っていた青学のはずなのに。随分と手こずらせた上に、黒星をつけることになってしまった。ただ……あの青学の越前リョーマというルーキーの最後の打球はバウンドせず、そのまま真田を通過していったのだーー。以前に赤也が挑発されて勝負を仕掛け、負けたと聞いた時点でまさか、と頭にちらついた最悪のシナリオがすでにそこにはできあがっていた。
ーーーー負けた。
我らが王者立海大附属が、青学のルーキーに。心の奥底でせっちゃんの顔を思い出す。手術、手術はどうなったのだろうか。ベンチに戻ってきた真田にタオルを差し出そうとした途端、真田に急に手でそれを撥ね退けられてしまった。
「さなだ?」
「す、すまない!大丈夫か、ーー」
あたしはその軽い反動で尻もちをついてしまった。真田は先ほどの行為が無意識なのか、珍しく慌てふためいている。真田から手を差しのべられてそれを掴み立ち上がったのだけれどお互いの手に触れていることに気づいた真田はすぐさま視線を外してしまった。ズキン、と胸に衝撃を受けた気がした。
「ほら、皆。表彰式だよ。すぐ帰れるよう支度しとくから」
「ありがとうございます、さん」
柳生を初めみんなぞろぞろとコートへ向かう。手術は一体どうなったんだろうか。試合が終わり、心配事がひとつとなった今、始まったばかりの表彰式に苛立ってしまう。しかし青学に優勝旗が渡った瞬間、昨年の栄光を思い出した。彼らが負けたことを責めることなんて出来ない。ただ、自分の力添えが足りなかったのかと自分自身を責めるだけだ。
表彰式にて、真田は準優勝のカップを受け取らなかった。準優勝を讃えられるのは、今のあたし達には屈辱以外の何でもなかったからだ。真田の目を盗んで、柳とあたしはとりあえず運営の方々に頭を下げカップを受け取ってきた。
「弦一郎にも困ったものだ」
「真田にトロフィーのこと分からないようにしとかないと。今日の挨拶終えたらあたしは病院に向かうから。コレ包んどくから、柳に持って帰るの頼んでいい?」
「ああ、病院に着いたら連絡してくれ」
「うん」
「……すまない、」
柳が急にそんなことを言うものだから、あたしは何でもないフリが上手くなくて苦笑いしてしまう。柳はそんなあたしの様子に小さく頷いてあたしの肩を軽く叩き、あたしが目立たないようタオルでくるんだトロフィーを運んで行った。
手術は無事成功した。そう、せっちゃんの両親から伝えられた。せっちゃんの妹も、涙目であたしに抱きついてきた。あたしはほっと胸をなでおろす。せっちゃんは数パーセントの確率に勝てたんだ。
「」
せっちゃんが目を覚ましてからの第一声があたしの名前だったという。本当は手術の直後の面会は家族だけと、釘を刺されていたのだが、せっちゃんのお母さんとお祖母さん、そして本人のたっての希望であたしとの面会を特別に許可してもらった。
「せっちゃん気分は?」
「なんか変な感じかな。麻酔がまだ少し効いてるようだ。試合は?」
「……負けちゃった」
せっちゃんはまだ麻酔が効きすぎていてうまく動かすことのできない手足をぴくりと反応させた。そっか、と一言告げればふうと、せっちゃんの口から溜息が漏れる。
「ごめんね、せっちゃん……」
「負けたものの取り返しはつかない……。でも、も充分頑張ってくれたのは俺も分かってる。それより、詳しく試合内容を教えてくれないか?」
あたしはせっちゃんにスコアノートを頼りに、細かいところまでを詳しく話した。赤也にまで話が差し掛かると、せっちゃんはどこかひっかかりがあるのか、顔を顰めていて、記憶にある全てを話し終えると、せっちゃんは再び深く溜息をついた。
「分かった。そうか、青学のルーキーか……」
「柳のデータによると、あの子、あの伝説の越前南次郎の息子みたい」
「侍と呼ばれた男、か」
せっちゃんは何やらうんうんと、頷けばコンコン、とノックの音がドアから聞こえる。そろそろ時間だ。
「じゃあせっちゃん、また来るね。撮影した動画は共有ファイルに入ってるから。手術成功、本当におめでとう」
「ああ、も皆によろしく頼むよ」
「うん。リハビリ、頑張ってね」
あたしが控えめにほほ笑めばせっちゃんも寝たきりの状態で微笑み返す。せっちゃんの両親とお祖母さんに挨拶し、妹さんにまたね、と言いながら昔のようにい頭を撫でてあげるとせっちゃんに面影がある優しい顔で無邪気に笑いかけてくれた。次に待つは全国大会。あたしもおちおちのんびりしてられないな、と家までの道のりを駆け出した。
(200709 修正済み)
(090405)