ただし全ては必然だった
来る7月26日。関東大会決勝を控える明日を前に、あたしは再びせっちゃんの病院へと訪れた。チームの士気はいつになく高まっていて、赤也なんて追い込みすぎていつもの倍の練習メニューをこなしている。それもこれも明日当たるはずの青春学園の一年生に赤也が負けたからだ。挑発に乗り、勝手に未許可の試合をしたとのことだけど……。トラブル発生当日、あたしはせっちゃんの下に残れとの指示で病院にいたので、実際何が起きたかを目にしていなかった。だから、その後皆がいやに殺気立ってることしか分からなかった。赤也のことだから、躍起になってでもあの青学ルーキーを倒したいのだろう。あれから何度もせっちゃんの見舞いに来るうちに、皆の気持ちに呼応するようにせっちゃんも少しずつ手術に前向きになっていた。それでもどこか、手術に躊躇いがあるのは表情から見て取れた。
「明日はいよいよ決勝か」
「うん、みんなすごく気合入ってるよ。赤也があの一年と戦ってから、余計ね」
「ふふ、あれは赤也にとってはいい薬だったのかもしれないね」
せっちゃんはあたしが先ほど花瓶に生けた向日葵を見て、目細めて微笑んだ。あたしはいつも、お花屋さんから買った花をどう扱ったらいいか毎回尋ねその通りにするので、せっちゃんはあたしが花を生けるのを見る時なんだか満足そうにしている。向日葵チョイスの理由は、陽があんまり届かない病室での太陽になればいいなと思ったから。そう言ったらせっちゃんは、「向日葵はに似ているね。は太陽みたいだ」と恥ずかしいことを惜しげもなく言った。その後この向日葵はサンリッチ・フレッシュ・オレンジという品種で、『あなたを幸福にする』『憧れ・敬慕』などの花言葉があるということまで教えてくれた。さすがせっちゃん、花のことなら生物の先生よりきっと詳しい。あたしは楽しそうに花について語るせっちゃんの話の腰の骨を折ることにひどく罪悪感を覚えながら、大事な話を切り出した。
「明日は手術だね」
「……ああ」
せっちゃんは目を伏せて答える。蝉の声が鳴りやまない、暑苦しい夏の日差しが降り注ぐ外界とここはまるで切り離されたようだった。再びその双眸はゆっくりと開かれる。
「には、本当のことを言ってしまおうかな」
「本当のこと?」
「うん。まだ、怖いんだ」
せっちゃんはたわやかに笑んだ。しかし、以前のように、恐怖が目に浮かんでいるようでもない。あたしはそれに小さく頷いた。
「そうだね、手術はこわいね……でも」
「でも?」
せっちゃんはあたしの言葉を、葡萄のひとつぶを口にするように丁寧に咀嚼していく。以前のように、言葉巧みにあたしをからかうことは少なくなった。きっと、せっちゃんにはそれだけの余裕が今はないからだ。
「あたしが手術を受けるんじゃないから、こんなこと言えるのかもだけど……。今でも目を閉じればせっちゃんがテニスをしているような気がするの。だって、数パーセントに勝つだけのせっちゃんの強さを、あたしは知ってるから」
「俺はが言うほど強くないよ?」
「せっちゃんは、あたしたち立海大テニス部の部長で、去年は全国制覇も果たして……。そして今全国の中学生のテニス部員は頂点に立つせっちゃんの背中を追いかけてて……」
そう、あの時のあなたを思い出して。それはたったの一年前の話。きらきらとコートで輝くその目は、しかと未来へ向けられていた。
「せっちゃんは、負けない。だってあたし達は負けちゃダメなんでしょ?」
「……そうだね」
おいで、と手招きされた。ベッドの傍にあるパイプ椅子に座るというこの至近距離でどう近くに寄ればいいのかわからなかったので、パイプ椅子をベッドへ寄せてせっちゃんの身体に向き合った。ふわり、とせっちゃんの両腕が肩に回った。
「ありがとう、」
「うん!」
せっちゃんがあたしを抱きしめるのは久方ぶりのことだった。よかった、とほっと溜息と共に一言心の中でつぶやく。せっちゃんの体温が思ったよりも温かく、じゅわじゅわと蝉の鳴る音が耳に心地良い。そんなことを考えていると、がちゃっと背後で扉の開く音がした。……扉の開く音?
「失礼す……と、取り込み中だったか!す、すす、すまない出直してくる……!!」
聞きなれた声に勢いよく振り返ると、ちょうど真田が慌てて病室を出ていったところだった。あたしは振り返って諸悪の根源の方へ振り向くと、せっちゃんはなんとものんきに「追いかけていかないの?」と以前のように悪戯っぽく笑いながら言い放った。言葉を発する隙もなく考えることもままならず、せっちゃんの言われるがままに全力疾走で病室を飛び出た。ナースステーションを通り過ぎ、看護師さんに注意されるのも無視し、スリッパが吹っ飛びそうな程急いだ。そしてようやくその見慣れた背が見えてきた。
「真田!!待って!!」
「?!」
あたしはぜえぜえと息を切らして真田の服の裾を掴めば、さすがの真田もうろたえた。あ、あんな所を見られるなんて……いや、別にせっちゃんとの間になにもやましいことがあるわけじゃないけど、っていうか、とにかく、誤 解 は さ れ た く な い!!!
「お前、幸村と、その……話している途中ではなかったのか?」
「そ、そうだけど……」
「俺は、お前と幸村がそのような関係だとは知らずに、その……」
「違うの!!」
慌てふためく真田にあたしは必死でそれを否定した。違うんだってば。だって、あたしは、
「あたしは真田が好きだから!違うの!」
真田が好きだから。そう、あたしは真田が好き……だから……?あ、あたし、今、なんと?
「俺のことを……好き?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「違うのか?」
「違わないけど……、ほんと、勘弁してよ~……自分……」
思わず掴んでいたブレザーの裾を離してあたしは床を見るように俯いた。こんなこと言うはずじゃなかったのに……!ましてや、明日関東大会決勝が控えてるっていうのに、あたしってばなんてバカなの!?ごめん、真田あなたはあたしをここで今きれいにフッて……。もう今にも涙を流してしまいそう。そんなことを思っているゼロコンマ数秒間の直後、真田にがっちりと肩を掴まれその振動でガクガクと身体が揺れた。あたしはその力強さにびっくりして、思わず顔を上げる。
「ごめんね、真田あたしこんなこと今言うはずじゃなかったんだけど……」
「俺も、お前が好きだ」
「……え?」
「だからお前が好きだと言っているんだ、……何度も言わせるな!」
真田はそう言って顔を逸らすと帽子を深くかぶり直した。照れている時のしぐさだ。って、……今、真田があたしを好きだって言った?本当に?
「……本当に?」
「嘘をついてどうする」
「だって今までそんな素振り見せなかったし……」
「そ、それはお前もだろう!」
「え、そ、そう?」
「現に俺は今まで知らなかったぞ!」
「そうか~……。じゃあ、真田はいつから?!」
「い、いつからと言われてもだな……昨年の夏あたりからか……」
「そ、そっか……」
絶対あたし、今顔赤い。たださえ火照りやすい体質なのに、今顔が燃えるように熱い。心臓が爆発しそうなほどバクバクいっている。まさか、この真田があたしを好きだなんて!それも、去年の夏からとか?!頬を手で挟んで、喜びや驚きなどの感情が入り乱れて涙が出てしまいそうな自分を制御しようとする。しかし、ハッと我に返ればここは病院の廊下。突き当りで誰もいないとはいえ、恥ずかしいったらありゃしない。
「そ、それじゃあたしは病室に戻るね……」
「あ、ああ……」
「明日、9時現地集合だよね?」
「ああ、また明日」
「また、ね……」
冷静になるために胸に手を当て深呼吸をしながら返事をすれば、真田もあたしの肩から手を放した。あたしは一体なんてことを言ってしまったんだろうという気持ちと、真田があたしを好きだなんてというショックで思考回路がショートしてしまった。もう完全に今自分がどこを歩いてるのかもよく分からない。呆然とした頭のまま歩いているとせっちゃんの病室と違う病室に入ってしまいそうになり、慌ててせっちゃんのいる病室へ戻った。お前が好きだ、という真田の言葉が頭の中でエコーのように響いている。
「……せっちゃん」
「真田に告って好きだとでも言われた?」
「な、なんで知って……?!」
「丸聞こえだったけど?」
せっちゃんはそう言って笑うと、あたしはせっちゃんの言うことが信じられなくて口をあんぐり開けてしまった。
「全く、じれったくてみてらんなかったよ。どうせなら真田と一緒に帰ればよかったのに」
「だって、荷物が……」
「まぁ、一緒に帰ったところで書店で柳が待ち伏せていたから二人きりで帰れなかっただろうけどね」
「な、なんで……?!……まさか、せっちゃん?」
あたしは声色を変えて問い詰める。まさか、せっちゃんと柳が……あり得る。大いにあり得る。
「俺は何も知らないよ?ただ、柳に真田がこれから見舞いに来るって、が来る前に電話で聞いただけで。もっとも、柳がひとりで真田に見舞いによこしたみたいだけど?まさかあのタイミングで部屋に入られるとはなぁ」
やられた。仕組まれたのだ。まんまと騙された。この告白は柳とせっちゃんの策略だったのだ。まいったなぁ、とせっちゃんは飄々とした口調で言っているけど、あのタイミングだって絶対謀っていた。いや、謀っていなくとも、こういうヤツなのだ。こういうことをごく自然にさらりと成し遂げるから、怖いのだこの男は。
「はぁ……。明日が決勝だっていうのに、信じらんない。今色恋にうつつを抜かしてていいわけ?」
「むしろ両思いになって、相手の気持ちなんて考える必要ないから決勝へのモチベーションがアップするんじゃないか?真田はきっとそうだよ」
「そ、そういうこともあるかもしれないけどっ……。せっちゃんが元気になれたんなら、もういい」
あたしはふてくされたように呟くとせっちゃんは先ほどのワルっぽい笑いではなく、慈しむような目をしてあたしに手を差し出した。仕方なく、その手を受け取り軽く握る。仲直りの印だ。
「ありがとう、」
そう言われると、せっちゃんを責めることもなんてできなくなる。せっちゃんはずるい。こうやっていつも握手すればあたしから許されると思ってる。
「明日真田と会うのが憂鬱になったじゃん……」
「もっと嬉しくなった、の間違いだろう?は照れ屋だからなぁ」
「うー……、うるさい……」
あたしがよく知るせっちゃんの顔だった。いつもみたいに悪戯に笑う、せっちゃん。大好きなせっちゃん。コートに再び立つこともそう遠くはないだろう。その時のためにも、明日もあたしは全力で部をサポートしよう。明日の約束を、夢だけにはしない。
「せっちゃん」
「なんだい?」
「ありがとう」
せっちゃんは再び微笑んだ。向日葵は、病室にいるあたしたちを太陽のように見守る。今日はさんさんと降り注ぐ陽が病室まで届いていた。心臓はいまだに小鳥のように飛び跳ねている。生きている、ってこういうことなんだな。
(200709 修正済み)
(090327)