あの頃
あの頃、俺はテニススクールでもどんどん成績を伸ばしていってテニスに明確なやりがいを覚え始めた頃だった。ジュニアの大会でも優勝を総なめしていたし、自分がめきめきと実力をつけているのも実感していた。小学校での生活も悪くないと思えてたし、日々充実していて俺はその時の生活が満更でもなかったんだ。
その時急に君が現れたんだよね。そう、、君が。俺達は幼稚園が一緒で、その後同じ南湘南小学校へと上がった。幼稚園の頃は仲良い友達の一人で、一緒に折り紙で遊んだり泥まみれになって砂場でトンネルを作ったり……。フフ、まだ覚えているよ。子どもだったから本当にくだらないことで喧嘩したりして、君も俺も意地っ張りだったから俺に謝らなかったりね。は人前でほとんど泣かない子だったし、今に比べてずっとおませさんで、好きな子に猛烈にアピールなんかしたりしていて。遠足でもったら好きな子のいる班にひょこひょこついて行っちゃうんだから先生たち困っていたよ。あの時に比べて今はどうかな。普段は明るく活発で自由奔放なところがある彼女だったけれど、おもちゃを欲しがる子がいたら必ず何も言わずに自分のを譲っていた。そんな君は誰とでも仲が良かったし、テニスで仲間はずれにされたと悲しい顔をしていた俺にも優しくしてくれた。下の子達の面倒もよく見ていて、よく慕われていた。だから彼女の幼い頃はよく覚えてる。小学一年生に上がってクラスが離れはしたけれど、親同士の付き合いもあり俺たちの友達としての付き合いが途絶えることはなかった。そうだ、ったらクラスの男の子に立ちながら手を離してブランコを漕いでみろよだなんて無理な要求をされて、ブランコからつんのめり勢いよく地面にぶつかり前歯を折りそうになったよね。今より輪をかけて意地っ張りだったが泣きじゃくるのを見た俺は、が泣くことをその時初めて知った。
しかし、せっかく仲良くなったのに小学二年生に上がる年の春にはアメリカへと行ってしまった。それは幼い子がお気に入りのぬいぐるみを取り上げられたようなものだったのかもしれない。せっちゃん、せっちゃんと毎日呼ぶ声がなくなって俺はしばらくの間落ち込んでいたけれど、二度と会えないわけじゃないと両親に言われてから俺は余計にテニスに打ち込んだ。真田のようないい競争相手にも恵まれていたし、他にも友人はいた。だから、俺はだんだんのことを忘れていった。ただ、クリスマスごとに来る飾りの綺麗なカードを密かに楽しみに待っていた。カードの中の君は小さい頃の面影を残しはしても、カメラに向けてる笑顔は知らない人のようだった。そしていつしか、俺にとって君はアメリカへ行ってしまった小さな女の子ぐらいの認識になってしまっていたと思う。が4年後に帰ってくるまでは。俺達が五年生に進級した年、アメリカから転校生が来るって学校じゃもっぱらの噂になっていた。
「シカゴから帰ってきたちゃんです。ちゃんは一年生の時にここの学校にいましたので知っているお友達もたくさんいると思います。みんな仲良くしてあげましょうね」
全校生徒の前で先生は君を紹介したんだったっけ。成長したは長く伸びた髪を二つに結い随分女の子らしくなっていて、利発的に見えた。そして期待を裏切らず、前とおんなじように元気いっぱいだったね。おませな性格こそどこかへいってしまったけれど、明るく物怖じしない彼女はクラスにすぐ溶け込めていた。弱いものいじめをしたり悪口を言う子達にはハッキリ注意し、たまにトラブルを起こして先生に怒られていたけど……それだけじゃ全然めげない君だった。悪いことをしていないと思ったらそうだと言い張れる芯の強さが、その頃から垣間見えていたよ。彼女の帰国後も相変わらず両親同士は頻繁に連絡を取っていたけれど、思春期だった俺達に接点もさほどなく、とはただのクラスメイトの位置づけでしばらく過ごしていた。
きっかけは、なんだったかな。が帰国してから数ヵ月後に同じ班になったんだよね。その時はまだ、のことをって呼んでいた頃だ。俺が班長でが副班長なのに俺は特にと親しくしようともしなくて。多分意地を張っていたんだと思う。あれくらいの年頃によくある気恥ずかしさと格好つけたい気持ちが、きっと俺にもあったんだろうね。今よりずっと未熟だったから、自分から仲良くしたいだなんてカッコ悪くて言えなかった。だから俺達は必要な連絡事項の時に一言二言、会話を交わす程度の余所余所しい仲だった。それが劇的に変わったのは修学旅行での話だ。レクリエーションの山登りにて、他班とゴールまでのタイムを競っていた際に俺とが率いる班が途中で二つに別れてはぐれてしまい迷いに迷った時のことだ。雨が容赦なく降り、身体も冷えてきて班員の体力も限界だったし、そろそろ諦めて先生方に電話で連絡を入れようとした、その時だ。が残りの班員を引き連れ、俺たちと再会できた瞬間今にも泣きそうな声で俺の名前を呼んだんだ。
「せっちゃん……!」
それから、俺はつまらない意地を捨てた。の素直な言葉に、俺のくだらないプライドは溶かされていった。真っ直ぐでいる彼女の気持ちの前で意地を張ってるのは無駄だと思えたんだ。結局その後、先生方が俺たちのようにはぐれてしまった班のために救助の車を出してくれて、それでようやくゴールできたんだけどね。車の中で、とんだ災難だったねと笑いあえたことが俺にとってどんなに大切な思い出になったことか。君は覚えているかな。
それから俺達二人はよく遊ぶようになり、親同士が仲良かったもんだからが俺の家に夕飯を食べに来たり、俺がの家に遊びに行ったりすることも増えた。は帰国してから始めたらしい剣道や書道の習い事の話やアメリカであった興味深い話をたくさんしてくれたし、俺はテニスの話や好きな植物の話をした。君のことをよく見ていれば静かに本を読んだり絵を描いてることもよくあって、知れば知るほど色んな顔を持つ女の子だと思ったものだ。
俺が今でも鮮明に覚えている記憶はもう一つある。俺がテニスで賞をもらったりしていることが気に食わない連中がいたのだ。女の子に告白されることも少なくなかったし、周りはそんな俺に僻みもあったのだろう。俺はなんでもない風を取り繕って、地味な嫌がらせをしてくる男子達を無視していた。言い返したら、また何か嫌なことをされるかもしれないと思ったから。でもきっと、には俺が無理しているように見えたのだろう、よく「せっちゃん、しそジュース飲みすぎた?」なんて言ってきた。に言わせると、少量で飲めば美味しいはずのしそジュースは大量に飲むと気持ち悪くなるらしい。俺は彼女の独特の感性による心配の仕方に、「なんでそんなことを聞くんだい?」と煙に巻いていた。すると、すぐに目を逸して「ううん、なんでもない」と口を尖らせて、すぐに話題を変えてしまっていた。そういうことが数回あって、俺はそのたびに知らんぷりしていた。
に俺がチンケな嫉妬や悪口で傷ついてることを知ってほしくなかった。と再び打ち解ける前みたいに、俺はまだの前で良い格好しいだったんだ。だけど、ある日そういうくだらないことにかまけている奴らが直接嫌味を言いに来た時があった。勿論、先生がいない時間を狙ってだ。グラウンドで皆でドッジボールをしている時に俺にわざと集中的にボールを当てて『幸村はテニスができるし、ドッジボールなんて朝飯前だよな』とか『顔だけでモテる奴はいいよな』だとかそんな程度の戯言を言っていた。きっとその時の俺はすごい顔をしていたんだろうけど、それを聞きつけたがものすごい剣幕ですっ飛んできたのだ。瞳に涙をいっぱいため、ドッジボールのルールなんてお構いなしにこちらの陣地に来て、俺の悪口を言った男子にグラウンドを整地するための大きなブラシを持って突撃しながら怒鳴り込みにきたのだ。そんなに面食らった連中は、その声の大きさと気迫に尻尾を巻いて逃げてしまった。俺も呆気にとられて肩で息をしている彼女になんて言えばいいか分からなかったけれど、悔しそうに涙を拭っているに彼女の思いやりを感じた。俺のことをずっと気にかけてくれてたんだね。姑息にもその連中は先生にのことを言いつけたので、普段穏やかでいる俺もは誰も怪我をさせていなかったし悪くないと証言をし、先生に喧嘩両成敗とのことでこの件は幕を閉じた。その間もは眉を下げて「せっちゃん、大丈夫?」と俺のことを心配していた。俺より君が傷ついただろうに、何もなかったようにする君の笑顔が痛くて苦しくなった。そんな風に俺の為に笑わないで欲しいと、心の底から願った。そして彼女のことがとても大事だとその時に自覚したんだ。
は俺から一つも取り零そうとしないから俺は強がるのをやめたし、君の些細な変化さえも気づきたいと思った。だって、優しい君はいつも誰かのために心を痛めているから。この気持ちを恋と称する人間も多くいるのだろうが、俺は違う。そういった仲になりたいとは望んだことはない、ただ自分とは切っても切り離せない存在。はそういった人だ。いつまでも彼女のそばにいて、その煌めく笑顔を眺めていたいと思う。ただ、自分が大人に近づくにつれてそれがいかに難しいかを思い知った。真田を好きだという君に、幾度も途方も無い気持ちになったのを俺は必死に隠そうとした。ずっとこのままで、という望みを叶えるのは難しいとは分かっていたけれど……。でも俺だけではの無垢さを大切にしたまま笑わせることは出来ない。それにもう、俺のことで彼女に哀しい顔にさせてしまうのは、心臓が潰されそうになって耐えられないんだ。これから俺がしようとしていることは俺の独りよがりなことなのは分かっている。もし幸せにできないと俺が思いさえすれば、いくら真田といえど二人の仲を引き裂くこともあるだろう。それでもあの陽だまりのような笑顔を奪う奴は、何人たりとも俺は許したくない。にはの道を歩んで欲しい。でもいつまでも君の隣は誰にも譲りたくない。いつまでも、君の一番の幼馴染みでありたい。相反したこんな複雑な感情を分かってもらえるなんて思わない。だってこんなのは俺のワガママだ。……ワガママだと分かっているけれど、誰に何を言われようが諦めきれないんだ。
母親が持ってきてくれた小学校のアルバムを閉じ、膝の上に置いた。言葉にはしなくても、テニスが出来なくてもいいと……は許してくれたね。真田が以前より勝ちにこだわるようになり、無敗の約束を堅く守っていることが己を奮い立たせてくれているのも間違いない。そして、前を向くためにの気持ちがどれだけ俺を支えてくれていたかも計り知れない。だけどどう足掻いても、居心地のいい二人だけでいれば良かったあの頃にはもう戻れない。……俺もも広い世界を知ってしまったから。こうして今までの俺たちの関係性を振り返ってしまうのは、俺が今人生の岐路に立たされているからだろう。客観的に見ても感傷的になっていることはよく分かる。だが……真田と約束もした。だから、後悔しない道を進んで選びたい。病室を出て、通話が可能なエリアで携帯電話を取り出した。携帯のディスプレイに浮かぶ名前をしばらく眺めて、通話ボタンを押すのに深呼吸をした。
「もしもし、柳。話があるんだけど」
何も失わないために、俺はそう思って口を開いた。あの日の真田との約束を叶えるために、自分の大切なものを守るために。
(200703 修正済み)
(090327)