明日を夢見て


関東大会も中盤にさしかかった頃。皆の試合のタイムも調子良く、ここまで順調に来ている。けれど、昨年度全国優勝した学校の部長の大患はあちこちに知れ渡っており、一部の生徒にすれ違いざまに嫌味を言われたり歓声の中に陰口が混じっているのが聞こえ何度か堪忍袋の緒がブチ切れそうになった(チームのために揉め事を起こさないという強烈な自制心がなかったらきっと大喧嘩になっていただろう)。理不尽な扱いを受けようとも、それでも真田は立派に部長の後を引き継いで部を率いている。心から、すごいの一言に尽きると思った。それがせっちゃんなしでもチームはやっていけている、ということにも見えたの大会の規模が大きくなれば大きくなるほどせっちゃんの顔もより一層険しくなっていった。幸いにもあたしはそれに気づいていたから、最近のせっちゃんのお見舞いはひとりでこっそり訪れるようにしていた。しかし、今日は違った。


「じゃ、あたしは用事済ませてから病院行くから、みんなは先行ってて」
「ああ、それではまた病院でな」


柳を筆頭とするレギュラー陣に手を振ってあたしは本屋へと立ち寄った。テニス部の皆が揃ってせっちゃんにお見舞いに行くということであたしは思わず咄嗟に嘘をつき、用事を先に済ませてから追って行くと言ってしまったのだ。でも、たまにはレギュラー陣だけとお話するのもいい機会なんだし、だなんてそんな軽い気持ちでいた。それはきっと、今のせっちゃんと前を見て向き合わなかったあたしの心のせいだった。そして思い出す、せっちゃんのお母さんがあたしに言っていたことーーーー。




ーー手術を受けても、テニスを続けられるかは分からないそうなの…………。




せっちゃんのお母さんは、その時まさに耐え難い苦痛を味わっているような濡れた虚ろな眼差しで、声も絶え絶えに、あたしにそう告げたのだ。お母さんは声を押し殺して泣いていて、せっちゃんの柔らかな面影をがあるお母さんが泣いてるのは、まるでせっちゃんが泣いているようだった。お母さんがこんなに泣くほど辛いのに、当の本人にとってはどれだけ辛いことだろう。あたしは毎日せっちゃんのことを思い返すたびに、漠然とそう思っていた。


本屋に寄ったのはいいものの、いつものように大好きな本たちを手にとる元気はなく、積み重なった本を眺める。しばらくぼーっとして、一冊手に取ればそれはせっちゃんがいつしか欲しがっていたローランサンの絵本だということに気がついた。最近感じていたせっちゃんの様子のおかしさに対する考えもまとまらず、本屋内をウロウロした後、はっと我に返って時計を見れば本屋を出る予定より十分は経っていた。病院は本屋を出て角を曲がったらすぐの場所なので、今から行けばちょうどみんなが話の潮時だろうか、と思いあたしはレジへ出向き、お小遣いでその絵本を購入した。急いで病院へ向かい、受付を済ませて無機質な廊下をたどると、いつもの病室からとてつもなく大きな声が聞こえた。


「テニスの話はしないでくれと言っているんだ!!」
「幸村……」
「帰ってくれないか!!」


それは廊下にも響くほど悲痛な声だった。重々しく開いた扉に目が釘付けになっていると、そこには今までに見たことないほど苦々しく顔を歪めた真田の姿があった。他のレギュラー陣はみんな壁へもたれ掛かっていて、とても同胞への見舞いに来たような顔には見えない。その瞬間、せっちゃんのけたたましい慟哭が院内を響き渡った。あたしは息を飲み込み、目を見開いたまま真田と目が合った。真田が何か思わしげに首を振るのを見て、病室へ入るのは余計に躊躇われた。


、お前でも……」


ブン太が背中を丸め、しゃがんだところからあたしを見上げてそう口にすると、ほんの囁く程度の声がわずかに病室の奥から聞いてとれた。


……」


せっちゃんの声だ。あたしは止めようとした真田を見ようともせず、扉を大きく開いた。電気は着いてるはずなのに、皆が押し黙っているせいかやけに暗く感じた。せっちゃんはあたしへの出迎えの言葉を発することなく、腕を放り出し力なくベッドの上に項垂れているだけだった。


「せっちゃん……?あたし、来たよ」
……」


せっちゃんは呟くようにあたしの名を再び呼んだ。眼は、こちらを見ようとしない。唇が震えている。あたしはそろそろとせっちゃんへ近づくと、傍にある見舞いに来た人用のパイプ椅子へと腰かけた。膝の上に置かれた手をそっととったとき、ようやくせっちゃんはあたしの顔を見た。それは以前のような、静かな情熱の炎を燻らせているような、それでいて柔らかな日差しを浴びる優しい眼差しではなかった。死にゆく人のような、そんな冷たい雰囲気さえ感じられる。気づけばみんなの姿はとっくのとうに消えていた。



「なに?」
「大丈夫って……」
「え?」
「いつものように、……大丈夫だって……言ってくれ」


声が途切れる。全国で頂点を勝ち取った時のせっちゃんとは、あまりにも別人だった。病は、これほどまでにも人の心を蝕むのかとあたしは絶望に近い感情を抱いた。しばらく言葉を失っていると、せっちゃんはその僅かな力で、あたしの手を握る。ここで涙を見せてしまえば、せっちゃんの心は折れてしまうかもしれない。硬直した頬の筋肉をめいいっぱい使い、ひまわりになったつもりでせっちゃんへと笑いかけ、冷たい手を少し強めに握り返した。


「だいじょうぶだよ、せっちゃん……」


それから、あたしは饒舌に雨の日なのにプールへ行って貸切状態だったこと、夏休みの宿題の数学が分からなくて全然終わらないこと、登下校中に毎日見ていた外壁にくっついていた蝉がようやく脱皮したこと……。そんな他愛のない話をいつものようにせっちゃんに聞かせた。せっちゃんは、かすかに唇の端を上げて笑ってみせた。心は、きっと笑えてない。相槌しか打たないせっちゃんに、遂におしゃべりのあたしの話も尽きてしまい「また来るね」と声をかけて病室を出た。帰り道にて、右手に握りしめた紙袋の存在を思い出し中にある絵本をせっちゃんに手渡していないことに気づいた。


あたしはあたし自身に、「ふぬけるな」と何度も負けないように呪文を唱えないと心がもたなかった。嗚咽が込み上げそうだ。でも、滲むこの涙を今は誰にも見せてはいけない。だって、せっちゃんの心がこんなにも泣いているから。


(200530 修正済み)
(090106)