紫陽花香る頃に
関東大会を無敗で迎える、我が立海大附属。全国からの偵察が来ているので、練習の合間にコート付近から彼らを追い出すのは毎度のお決まり事である。
「毎回毎回懲りずによく来るよね~。これが北から南までいるんだもん」
「仕方ない、我々が強いという証拠だ。それに偵察だけで我がチームに勝てると思うか?」
「ほんっと、全国二連覇しただけはありますこと!」
柳は相変わらず余裕の笑みを含むとそのまままた偵察者達の調査に行ってしまった。あの高い鼻をへし折ってやりたい気分に駆られたが、そういえばそのチームにあたしも含まれているのだった。あたしはそれは悪い気がしないななんて呑気に考えながら相変わらずのマネージャー業に勤しんでおり、今は前年度の関東大会にて柳がとった記録を引っ張りだし整理している。これがまた、試合数が多いから大変なんだな。みんなが練習している間に部室で一人、口笛を吹きながら昨年の出場校の記録と今年度の出場校のリストを照らし合わせていると、がちゃっと扉の開く音が背後から聞こえた。
「」
「あれ、どうしたの真田?」
「月刊プロテニスの井上さんがいらしているんだが、お前にも話を聞きたいそうだ」
「あ、今日来るんだったっけ。うん、わかった。ちょっと待ってて」
あたしは資料の端を揃えてトントンと音を鳴らす。真田がなんだかいつもと少し違うような気がして彼の目を覗き込むように見上げた。
「どうしたの?」
「あ、いや、よ、よく頑張っているものだと感心していたのだ」
「そう?」
真田がなぜか顔を赤らめてどもってそう言うものだからなんだかこちらも照れてしまう。いつもだったら口笛しながら仕事をしていると怒られる時もあるのに、変な真田だなぁ。それでも、好きな人に褒めてもらうのってやっぱり嬉しいな。
「それより早くしろ、井上さんたちが待っている」
「う、うん」
あたしは真田に急かされて柳の資料をファイルにまとめ手早く棚にしまう。先に行っててもいいのに、と思いながらも律儀にあたしのことを待っていてくれるという事実にどうしても頬が緩んでしまう。頬を軽くぱちぱちと叩き、ゆるんだ筋肉を引き締めてから腕を組んで待つ真田に「行こ」と促した。
は確乎不抜の文字の下にある空欄になっているスケジュールボードを見ては、物言いたげに俺を横目で見ている。なにやらそわそわしているようだ。その仕草も愛らしいものだが……。何か俺に訊きたいことがあるのかは見て取れたので、気にすることもなく声をかけた。
「なんだ、?」
「えっ?」
「先ほどから何かを言いたそうにしているが……?」
「あ、うーん……とね。来週の土曜ってオフかなーって思って」
「ああ、おそらくな。何か予定があるのか?」
「う、うーん、まぁ……ね」
込み入ったことを尋ねてしまったか、と思ったが普通の会話の成り行きだと俺は高鳴る鼓動を抑えながら自分に言い聞かせた。しかし、一体予定とはなんだろうか。……きっと休みが少ない部活なのだから、たまの休暇だと家族とどこかに出かけるのだろうか。
「部室棟付近の水道管の整備に業者がくるらしいので、土曜は確実にないだろう」
「ほんと、柳?じゃあ土曜は遊びにいけるね!」
「ご家族で外出か?」
「いや、家族じゃないんだけど……。あの、せっちゃんとちょっと、ね」
「幸村と?!」
俺は驚きのあまり素っ頓狂な声をあげてしまったがその話を聞いていた誰もが驚いていたようだ。当たり前だ。幸村は今静養せねばならん身だというのに!
「せっちゃんがね、どうしてもっていうから……あ、でも、多分遠出はしないし。退院できたし、せっちゃん体が鈍っちゃうのが嫌だから気晴らしにどこか行きたいんだって」
「それで外出したいというわけなんですね?」
「うん、でもあたしもせっちゃんに無理はさせたくないし……」
「それはそうだが……」
「少し心配だが、が付いているなら平気だろう。そうだろう、弦一郎?」
「蓮二、だがな……」
「ふくぶちょー、心配しすぎッスよ!幸村部長だってたまには息抜きしたいでしょ」
「そうだぜ、真田。幸村も入院生活でまいっちまってんだろぃ」
しかし、やはり幸村が遠出するというのは大きなリスクが伴うのではないか……それに、なぜだか納得がいかない。だからこそ安心して幸村を預けられるというのも頷けるんだが、なぜだか心のどこかに引っかかりがあることに俺は気づいていた。
「ならば俺が一緒に……」
「お前さんがおったら、余計に幸村に気を遣わせるだけじゃろ」
「む」
「さんなら幸村君が気を遣うことはないでしょうし、長年の仲ということでご両親の信頼も得ているでしょうから大丈夫でしょう。何をそんなに臆することがあるのですか、真田君?」
柳生の思わぬ鋭い指摘に、俺は一瞬たじろいだが、確かに柳生の言うとおりだった。この状況では俺はしぶしぶ頷かざるを得なかった。
「よかろう。だがしかし、無理は絶対するな」
「うん、わかってる。真田、ありがとう」
「幸村だけじゃない、……お前もだ」
「うん!」
それまで事の成り行きを心配そうにしていたは心底喜ばしそうに俺に向けてにっこりと微笑み、部室を早々と去って行ったが俺はその後の笑顔に心を惑わされつつ自分の言葉への歯がゆさを感じるとともに部員に一気に責められた。
「真田もヤキモチ妬くならもっと分かりやすく妬けよなー」
「なっ!お、俺はそのようなこと……!」
「真田さすがに見苦しいぞ、なんたって相手は幸村なんじゃ」
「そうだ、弦一郎。お前の気持ちを応援している精市がに手を出すわけがないだろう。からかうことはあるかもしれないがな」
「からかいでに手を出す方が不届き千万極まりないわ!!……む」
「やはり図星か」
「ふくぶちょー、男は少しぐらい余裕がないとダメッスよー……あだっ!」
「ええい、貴様ら人の情事に首を突っ込んどる暇があるならとっとと練習に身を打ちこまんかーっっ!!」
俺は個人の事情にずかずかと入り込んでる部員に耐え切れなくなり、赤也に拳骨を喰らわせ、叱り飛ばすと蓮二以外の部員が皆急ぎの用事を思い出したかのように部室から散っていった。全くあいつらは俺をなんだと思っているのだ!絶対あいつらはの事で俺が困るのに面白がっている。
「まぁそうカッカするな、弦一郎。確かに赤也の言うとおりもう少し余裕を持ち寛容さを見せないと、の興味を引くのは難しくなるかもしれないぞ」
「そ、そうか」
「そうだ。あの二人は俺達より付き合いが長いのだしな、分かりきったことだ。受け入れて進むしかないだろう」
「そ、そうだが……」
「だがに余裕ばかり見せていても、事は何も進展しない。好意を誠実に伝えることとの均衡が大事だと俺は思うがな」
「均衡……か」
あっという間に俺は蓮二に言いくるめられてしまうと、その『余裕』という言葉に深く考え込んでしまった。あの二人に俺達が入り込めない絆があることは重々承知の上だ。時折それが俺を苛立たせるというのも。こればかりは仕方のないこととも思えど、もどかしい思いは消えない。俺は『余裕』という二文字に捉われながら、部室を後にするのだった。
真田にようやく了承を得て、許可を得られた土曜の外出。この日はあたし達を祝福するように快晴で雨雲ひとつない空だった。しかし、あんなに真田が今回の外出に難色を示すとは思わなかった。あたし、信頼されてないのかな。まあ、信頼してなくはないと思うんだけど、やっぱりあそこまで心配されるとこちらの責任もぐぐっと重くなる。多分、せっちゃんが元気だったら真田もあんなに頑迷にならないんだろうな。……ヤキモチかな?なんて少し勘違いしちゃったし。それにしても、約束の土曜の今日だっていうのに、あたしたちはまだ行先を決めてないだなんて!せっちゃんにメッセージを送っても、「歩き回れる格好で、明日のお楽しみに」としかメッセージの内容がないし。などなど色々と考えていたら、インターホンの鳴る音が聞こえた。せっちゃんとは家同士がとっても近いので迎えに来てくれると言っていたのだ。
「せっちゃん?今降りるね」
「うん、急いで転んだりするんじゃないよ?」
「いくらなんでもそこまでそそっかしくないよ~!」
あたしは朝早々から嫌味な冗談を言うせっちゃんに頭を抱えながらもお母さんに行ってきますの挨拶を言う。今日のコーディネートは白が基調の透け感のある花柄のシャツにデニムのショートスカート、歩き回れるように真っ白なスニーカーに真っ赤なショルダーバッグを差し色にしてお出かけのウキウキ感を演出だ。髪の毛もフィッシュボーンのおさげにしたし。温暖な今日の神奈川県は17度もあるので丁度いい格好だ。
「おはよう、せっちゃん!」
「おはよう、。その格好、かわいいけどそんなに薄手だと風邪引かない?」
「大丈夫、今日はあったかいから。さすがに朝は冷えるけど、あたし暑がりだし」
「そっか。でも寒かったら言うんだよ?」
「うん」
さすがに玄関のロビーでいつまでもおしゃべりしてられないので(管理人さんの視線が恥ずかしいし)あたしたちはとりあえず外に出た。行き先は決まっていないのに、とりあえず駅に向かっている道のり。いったい、せっちゃんはどこへ向かってるんだろう。
「せっちゃん今日どこ行くの?」
「ん、が行きたいところ」
「えーっ!もうせっちゃん行き先決めてると思ってた!」
「まさか、にお礼するのに俺が決めるんだい?が行きたいところに行くよ」
「そ、そんなこと急に言われても……思いつかないよ」
「ほら、部活ばっかりでいけなかったところとかあるだろう?」
「うーん、だって……」
あたしは行きたいところを思い浮かべるけど、あたしが行きたいところって例えばカラオケとかディズニーランドとかで、今のせっちゃんに行かせるところじゃないし……あ、ひとついいとこあるかも。
「俺のことは気にしないでいいよ」
「じゃあ、バラ園行きたい、かな?」
「バラ園?」
「見頃は少し過ぎちゃったけど……せっちゃんも楽しめるでしょ?」
「そうだけど、がそれでいいのならいいよ」
「あたしがバラ好きだってこと、せっちゃんが一番知ってるでしょ?」
「そりゃあね」
その日のせっちゃんは機嫌上々らしくて、バラ園までの道でいろんな話をしてくれた。最近フランス文学詩集にハマっているだとか、あと学校の授業に少しついていけてないことだとか、あとこの前テレビで見た世界の旅番組でのオーストリアは綺麗だったとか、それからいろいろ。いつもはあたしばっかり話をしているのに今日のせっちゃんはおしゃべりだ。でも肝心のテニスのことはぽつり、ぽつりと口にするだけであたしもそれ以上話題を広げようとしないせいか、今日のせっちゃんは立海大附属のテニス部の部長の幸村精市の顔は見せず、中学に入学する前によく見ていたせっちゃんだった。
「アンティークタッチが八分咲きだね、ほら」
「わぁ、色がきれいだね。グラデーションになってるこの色、好きだなぁ」
「俺も庭で育ててみたいよ、楽しいだろうなぁ。あまり咲いてないかと思ったけど、意外と花数はあるね。やっぱり旬の時期には見劣るけど」
「でも、キレイだよ」
「うん」
なんだか恋人同士っぽくて、少し気恥ずかしくなった。でも、せっちゃんとこんな穏やかな時間を共有したのは初めての事だった。今まで遊んだことはあったとしても、小学校の時の学校のグラウンドだったり、せっちゃんちでゲームしたり、今のレギュラーたちとご飯食べに行ったり、花火大会だったり。とにかく二人きりでゆったりとした時はあまりなかった。青春の時期って、めまぐるしいものだというけれどあたしはこんな風に普段とは違った時を過ごせる時間があってもいいんじゃないかとも思えた。
「ひどく穏やかだ」
「そうだね」
「なんだか、現実を忘れちゃうね」
「……うん」
園内にあるカフェで紅茶を飲んでいると、ふと、せっちゃんはつぶやく。その目はガラス越しに見えるバラ園ではなくどこか遠くを、見つめているようだった。かちゃかちゃ、と陶器の音がトロイメライが流れる静かな店内に響く。
「こうしていると、悩んでいるのが嘘みたいだ」
「うん」
「……ずっと、このままでいれたらいいのにな」
「え?」
「……いや、なんでもないよ。それにしてもは相変わらず甘党だね。角砂糖、4つも紅茶に入れるのかい?」
何もなかったように繕うせっちゃんに合わせて談笑をつづけたけれど、その時のせっちゃんがひどく哀しそうにしていたのが脳裏に焼き付いて離れない。淡い光がガラスを通して、せっちゃんの艶やかな髪を照らす。木漏れ日が揺れるたびにせっちゃんの睫毛も揺れた。透明感あふれるこの景色に、なにかどことなく寂しいものを感じるのはなぜだろう。力強く自分を表現するせっちゃんが以前よりも、儚く見えるのはなぜだろう。
「皆、俺達が二人で出かけてること知ってるんだろう?」
「あ、うん、成り行きで言っちゃった」
「まぁ、秘密とは言ってないからね。でもこりゃあ、帰ったら柳あたりがうるさそうだなぁ」
「あ!みんなにお土産買ってこうよ。そしたらブン太と赤也あたりは黙るでしょ」
あたしが皆の顔を思い浮かべながら、小さく笑うとせっちゃんは微笑みながらあたしを真っ直ぐ見据えた。そしてゆっくりと深呼吸をした。
「俺、来月手術を受けるよ」
「……うん」
その淡々とした言いように、さして驚きはしなかった。以前からせっちゃんのお母さんから手術の日程について聞いていたからだった。7月になるかもしれない、とは聞いていたけれど。せっちゃんの口から出た言葉にはまだ迷いがあった。そして、それをあたしも知っていた。
「関東大会決勝の日だから、必ず成功するように頑張るよ」
「せっちゃん……」
「ほら、お土産を買いに行こう」
あたしが返事をする間もなく、せっちゃんは強引に話題を切り上げてしまった。それに、簡単に蒸し返せる話でもない。空気を読むのが苦手な帰国子女のあたしでも、それは分かる。多分きっと、その後変な顔をしてせっちゃんとお土産を選んでいたと思う。せっちゃんは、それ以上手術の話題には触れなかった。結局、あたしたちはバラが練りこまれたクッキーとメレンゲのお菓子を選んで(せっちゃんが真田に似合わないって相当笑ってた)レギュラー全員に買っていった。後日、珍しいことにあたし達がバラ園にデートに行ったことを話をひやかす部員はおらず、あたしはすこし違和感を感じながらもいつものようにマネージャー業を務めたのだった。
(200628 修正済み)
(090219)