盗み聞きの果報
クラスが変わり僅か一ヶ月で、担任の高橋先生は俺たちに席替えを提案した。どうやらそのようなイベントごとが好きな方らしい。その提案に三年A組の生徒たちに落ち着きがなくなった。俺は反射的にの方を見るとは騒ぎの中心にはいず、頬杖ついては窓辺近くの席で日差しを浴び微睡んでいる。仕方のない奴だ。現在近くの席に座っている柳生が白昼夢でも見ているに席替えについて話しかけたようだ。案の定彼女は黒板に書かれている『席替え』の文字に驚いている。やはり話を聞いていなかったらしい。全くもってたるんどる。それにしても、席替えか……。俺自身あまり席替え自体に興味がさほどあるわけではないが、どうしても以前のようにの隣になりたいと密かに願わずにはいられないものだ。一年の時にはまだ俺はに懸想こそしていなかったが、やはりあの時はあの時でと一緒に過ごすことができとても楽しかったと思う。よくよく考えると女子と頻繁に会話をする機会がない俺にとっては一番親しい女子なのだと思い知らされると嬉しさと気恥ずかしさを感じ、その事ばかりに気を取られてしまう自分に鍛錬がまだまだ足りぬと思ってしまうな。
「それじゃー、右の列の人からくじを引いてくださーい」
先日の役員決めで学級委員長になったと親しい村田がいつの間に座席表と番号を黒板に描き、生徒達に番号の書いてあるくじを引いてもらっていた。俺も教卓へくじを引きに行く。失礼千万極まりないことに目の前にいる男子がどの女子と隣になりたくないだのと話し合っているのが聞こえてきた。俺が目を光らせるとすぐにそれに気がついたのか、次はどの辺りの席の位置が好ましいかと話題をはぐらかし、決まり悪そうに俺からすぐに目線を外した。
「真田くん、どうぞ」
「うむ」
村田に差し出されたくじを引いた。四つ折りされた小さな紙切れを開いてみるとそこには大きく『21』と書かれていた。黒板に書かれた席の表を見れば、教卓から見て左から二番目の列の一番後ろだった。異存はない。前の席だと俺の背丈で黒板が見えないという苦情がたまにあるので、そのことで面倒をかけなくて良かったと思うだけだ。俺の隣は一体誰が来るのだろうか。こういうときにどうしても、自分の煩悩は淡い期待を抱いてしまう。くだらん煩悩を打ち消すために素振りの量を増やすかどうかと考えていれば、すでに柳生がくじを引き終えていた。
「私は12番ですね」
柳生は書記にそう伝えると、黒板に柳生の名を数字の横に書き記す。あろうことか、俺はそれまで黒板に書き込まれていた名前に注意を向けておらず、ようやく隣に書き込まれた名前に目が留まった。そこにははっきりと『』の名があった。俺は黒板に書かれている文字を頭の中で何度も読み上げた。より一層神経を集中させて黒板を見つめたが、どうやら夢ではないらしい。俺はの方へ目を向けるとちょうど彼女と視線が合い、すぐにどちらともなく目線をすぐ逸らしてしまった。どういうわけかあいつも俺を見ていたのか、と思うと体中がカアッと熱くなるのを感じた。血の巡りがいつもより良くなったようだ。「では移動ー!」と先生の声で指示が出たので、ガタガタと椅子と机が一斉に動き出した。俺は平静を保とうと意識しながら指定されたとおりの席へと移動すればがすでにそこにいた。
「おー、真田」
「また隣のようだな、よろしく頼む」
「うん、こちらこそ!それにしても席が隣なのもクラスが一緒なのも、一年ぶりだね」
「そうだな。偶然もあるものだ」
「だね~……」
は憂えげに溜息を漏らした。俺は不意にそんな仕草をするにドキッとさせられた。少し伏し目がちな彼女の表情は分からない。……嫌がってはいないと思うが。余った時間は自由時間となり、周りが雑談を始めた。はなぜだがすぐに柳生の下へすっ飛んでいきなにやら話し込み始めたようだ。俺はすぐに席を立たれたという事実に少し物悲しさを感じた。これからまた、一年生の時のように楽しく過ごせるのだろうか。否、難しいことは考えずに普通にしていればいいのだ。だがしかし……、このような迷いが生じている事自体、以前の俺とはもう違うことが明白となった。こうして俺は初めて彼女を想う気持ちに複雑さを覚えるのであった。
それは実験室から教室へ戻る途中の廊下にて、俺がとその友人の村田やその他大勢と談笑しながら教室へ入っていくのを見かけた時だ。の声はよく通るので、意識せずとも彼女の話している話題が耳に入ってきてしまった。不本意だが、彼女達の会話を無視することは難しかった。
「え~、だってあの人怖くない?」
「そうかな?そうなの?」
「かーなり怖いと思うけど」
どうやら誰かの噂話をしているようだ。俺は彼女たちの後ろ姿しか見えないので表情は確認できなかったが、と村田の声は至って落ち着いており、二人をとりまいている他の女子はキャッキャッとはしゃいでいる。試合がある際に応援に来るチア部の姿などが窺える。
「本当、あたしたちなんて怖くて真田君としゃべるなんて絶対、無理無理!」
「そう?そんなことないよ、喋れば普通だよ?」
「でも何しても怒られそうだし」
「んー、真田が怒るときは悪いことしたときだよ?……いや、んー。まぁ、結構怒ってるイメージあるかもだけど」
「だよね?!話しかける前から怒ってる感じ?なんかよく色んな人に怒鳴ってるし」
……なんと、俺の話をしていたらしい。怒っているイメージとは心外だ。その上が言葉を濁したのも気になった。そんな風にが俺のことを話題にしているせいか、夢中になってしまいけしからんことにも自分が盗み聞きしていることなんてすっかり忘れ、が発する俺への言葉の一つ一つをしっかりを取りこぼさないようにしていた。
「物好きなファンもいるみたいだけどねぇ」
「物好きって……あんた失礼でしょ。真田は一生懸命テニスやってて実績もあるし、ファンがついて当たり前だよ。真田はよく怒るけど……そこまで言うほど怖くないし」
「アレを怖くないと言えちゃうのはマネージャーの特権じゃないの?」
「マネージャーっていうより、ちゃんだけじゃないの?物怖じしないよね、アンタ」
「そ、そんなことないよ。怒られる時はあたしだって怖いし」
「ふーん。でもあんなおっさんみたいな堅物の真田とかにカノジョとかいたら面白くない?」
「う~ん。そうだね~。確かに恋してる真田なんてあんまり想像つかないかもね」
あいつら黙っておけば好き勝手言ってくれるな。しかもまで……恋人はおらんが、現にお前を好いている俺がここにいるではないか!あの様子だとは俺の想いに全く気づいていないらしい。だがしかし、あそこまで己を評価してくれていたことに全身が骨抜きになってしまった自分がいるのは間違いなかった。
「柳生くんはね、まだ話しかけやすいのにね~」
「ていうか、テニス部レギュラーってかっこいい人達多いよね!、うらやましい~」
「え~、そうかな?ケッコー大変だけど」
「ほら、ちゃん満更でもないんでしょ?でもマネージャーになったら真田君が怖いからな……」
「マネージャーになるなら大歓迎!あたしが一から十まで優しく仕事を教えます。真田は……確かに、鉄拳制裁とかして怖いけど、あれでいてけっこー単純なとこが……」
「単純なとこが?」
その後の言葉はの声が小さくて俺は判断しかねたが、女子が急にどっと笑い出したのできっとなにかよからぬことでも言ったのだろう。そして話に折がついたころ、たちのグループが教室の入り口にさしかかったと思えば急にくるりとが俺の方へ振り向いた。あ、と少し気まずそうにが声をあげたのと同時に周りにいた女子も振り向いて俺を見た。彼女たちはぎょっとして大きく瞳を見開いて固まってしまっていた。俺はこの状況に真顔で彼女たちを見つめ返すことしか出来なかったのだが、そんな俺の様子を理解することもできない女子達は肩をすくめ逃げ腰になっていた。しかし、それに反してはにっこりと俺に笑いかけている。
「真田は怖くないもんね?」
俺は彼女の急な呼びかけに驚き、情けないことに間抜けな声を出してしまった。
「あ、ああ……」
「ほら、怖くないって」
ね?とご機嫌そうには彼女の友人らに笑いかける。しかし皆はそれを気に留めることもなく、バツが悪いようで、逃げるように去っていってしまった。だが、別にそんなことはどうだっていい。が俺に対して単純と言ったことが気がかりだが、それも今の俺にとってはどうでもよくなってしまっていた。弛みそうになる頬を隠すように手のひらで抑えていたが、その直後後ろから柳生に声かけられたことによってそれが無意味だと思い知らされるとはーー
「真田君、今日はいつになく上機嫌ですね。なにか良いことでもあったんですか?」
思いもしなかった。
(200604 修正済み)
(090125)