涙の数だけ
元来、風邪を一度引いてしまうと長引かせるこのあたしがあの高熱を一日と少しで乗り切らせたのはもう愛と気力としかいいようがない。なんちゃって。真田が帰った後しばらくしてお母さんが早めに帰ってきたので、あたしは食欲がなかったけれど野菜をぐずぐずに煮たのにご飯をつっこんだ雑炊を作ってもらい無理におなかいっぱい食べた。すぐに薬を飲んで、ニュース番組からバラエティ番組に切り替わる7時すぎにはお風呂に入って、寝床についたのだ。そうして次の日あたしは遅刻はしつつも学校に来れたわけだけど。
廊下ですれ違った真田の様子を見るに、多分昨日あたしが泣いていたことがバレてたんじゃないかと思う。あの時とっさにちゃんと目元の赤みを隠すようにお母さんのファンデーションを薄く塗ったんだけどなぁ。あ、目が赤かったのかも。いや、瞼が腫れているからかもしれない。そんなことより問題なのは、真田があたしに気を遣ってるのがもうみえみえだってこと。普通に挨拶したはいいものの、容態と気分について訊かれただけで他には怖いくらい何も触れられなかった。普段だったらその日にあったことについて何か軽く話したりする。今日だったら、……そう例えばせっちゃんのこととか。たださえあたしの方は真田に対しての気持ちがパンクしちゃいそうなのに、真田があんな調子だからもう気まずさ極まりない。平静を装おうと試みるも真田があんな調子だからあたしの努力も無駄みたいだ。
「どうした、。浮かん顔しとるの」
「んー」
あたしは部誌に顔を埋めて、できるだけ誰にも話しかけられないようにしていたつもりだったけれど仁王には意味がなかった。真田の流麗な字で書き込まれている昨日の部の様子を眺め、あたしは物思いに耽っていたからだ。
「昨日の分は真田が書いとったぜよ」
「知ってるー」
「なんじゃ、真田の文字に見惚れとったんか」
「ち、ちがう、ばか!」
ひょい、と上から部誌を取り上げられるとあたしは反射的にそれを取り戻そうとして体を起こし仁王の方へ振り返ったら、そこにはなんと真田がいた。ばっちり目が合った後には不自然にもそれを逸らされてしまう。うう、辛いよう……。好きな人に避けられるってすっごく辛い。別に、もうせっちゃんのことは平気なのに……。……全然平気じゃないけど。でも少なくとも話題に出したって平気。そこまで弱虫でいられないもん。少し泣きそうな顔をしていたのか、仁王はすぐにあたしに部誌を返してくれて背中を優しく叩いてくれた。
「来週の頭には面会、オーケーだと」
「うん……聞いたよ」
「花買ってってやるんじゃろ?」
「そりゃ、もっちろん!」
あたしが真田に避けられて泣きそうだって理解してる仁王は無理して力強い返事をするあたしに驚きさえしなかったけれど、真田だけは横目でちらちらとこちらを窺っている。あたしがまた泣きそうなんじゃないかって思ってるのかな。それともそんな風に捉えるのって自意識過剰かな。
「お、コートに忘れもんしとった。とってくる」
「はいはい」
うちの学校はテスト3日前から必ず部活が休みになる。その中でも強豪の部はテストのギリギリ前日まで任意で練習することが許されていて、真田も欠かさず部活に来ていた。赤也は成績がかなり危ないので早いうちに真田に強制送還されたし、柳生、ジャッコー、ブン太は練習に来て軽くウォームアップをし基礎練の後にすぐ引き揚げていた。なんの風の吹き回しなのかは分からないけど、仁王が最後まで残っていたので真田、柳、仁王っていう珍しい組み合わせで部活をやっていた。柳がまだコートにいる今、部室にはあたしと真田しかいないみたい……っててもしかして、この耐えられない空気で二人きりってこと?!……と、とりあえずこのしんどい雰囲気からどうにか一転せねば、とあたしはいい内容を思いつかぬまま口を開いてしまった。
「勉強どう?」
「……普段通りだ」
「……そっか」
ど、どうでもいいことを聞いてしまった。いつもみたいに会話が続かない。いやーな沈黙の中、あたしは部誌を書き込んでいるので身動きもできない。真田はタオルで火照った体を拭いているらしく、軽く布が擦れる音だけが部屋から聞こえてきた。
「大丈夫だ」
「え?テストが?」
「……テストではない。その……お前は色々と人のことを心配し過ぎだ」
「あ……うん」
「だから……そんな顔をするな」
あたしは両手を頬にやって自分のがどんな顔をしているのか確認してみようとしたけれど、どうもよくわからない。けれど真田の瞳の中には哀しげな自分の顔が映っていた。今にも泣き出してしまいそうだ。真田は帽子の鍔を引き下げすれ違い様にあたしの肩をとん、と小さく叩きそそくさと部室を出て行ってしまった。つんと鼻の奥が痛くなった。……泣きたく、ないのになぁ。真田が一生懸命あたしのために言葉を振り絞って出してくれたんだと思ったら涙が止まらなくなっちゃった。……今日泣いたら、もう皆の前で絶対泣かない。せっちゃんのためにも、真田のためにも、部のためにも、あたしのためにも。涙はみんなに見せるもんか。
病室の窓のカーテンから漏れる薄暗い明かりからは、薬品の匂いがした。レースのカーテンを少し開けて、せめてものこの匂いがせっちゃんに届かないようにした。
「やぁ、久しぶりだね。ちょっと狭いけど、そこら辺でくつろいでよ」
テストが明けて次の週、レギュラーとあたしで金井総合病院を訪れた。病室のベッドに佇んでいるせっちゃんはいつもの、せっちゃんだった。
「せっちゃん、これお花」
「ガーベラだね、この淡い緑……が選んだんだろう?」
「うん、だってみんなが花のことわかると思う?」
「先輩、それはひどいッス」
「フフ、相変わらずも手厳しいなぁ。かすみ草もかわいいね、ありがとう。」
あたしはベッドの傍にある元気のない花たちを花瓶から引き抜いて、持ってきたガーベラの花束を新たに生けた。その間にレギュラー陣はせっちゃんに、部活の近況や他愛のない話を思い思い話していて、和んでいる。せっちゃんの顔を見た瞬間、あたしは心の中でほっと安堵の溜息をついた。呼吸器はすでに外されていて、せっちゃんの顔色は最後に見た時よりもずっと良かったからだ。花を生け終えた後、みんなの様子をぼうっと傍らで眺め、しばらくするとみんながせっちゃんに別れを告げる言葉が聞こえてきた。
「みんな、もう帰るの?」
「ああ。はあまり精市と話してないだろう。二人でゆっくりするといい」
「そっか……。じゃあ、みんなまた明日」
柳がそう促すと、みんなそれぞれ別れを告げて病室を出て行った。あたしは軽く手を振り受けこたえると、最後に真田と目が合った。……あれからまだあんまり、会話を交えてないんだよね。
「真田……ありがと」
「……礼を言われる覚えはないが」
「いいの、ありがとう。それじゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
真田はそれだけ言うと、病室を去っていく。あたしはなんだか、ようやく肩の荷が下りたっていうか、なんというか。わだかまりに開放されて少し素直になれた気がする。先週よりは心が穏やかだ。
「なにがあったんだい?」
「べーつに。内緒」
「ひどいなぁ、。俺には全部教えてくれるんじゃなかったけ?ほら、今回のテストの点数とか」
「あー……、ね」
「よくなかったんだろ」
「なんで知ってるの?」
「柳から聞いた。英語、珍しく9割いかなかったんだって?しかも数学も赤点ギリギリで」
「あーあー!はい、そうです、散々でしたよ!くっそ骨の髄までデータマンめ……!」
せっちゃんはいつもの調子で笑うので、あたしも自然と口が綻んだ。テストなんて存在、せっちゃんを心配しすぎて忘れてたんだもん。それにしても、柳のやつ、あたしが皆とせっちゃんの会話を全く聞いてなかったこと知ってるな。
「赤也はまた英語、ダメだったみたいだね。見てあげてたの?」
「今回は、全然。自分のことでせいいっぱいだったし、範囲多くて難しかったし」
「ふーん、どこら辺から出たんだい?」
「えーと、ちょっと待って」
あたしは鞄から教科書を取り出し、範囲をちょこちょこ説明していこうとしたのにもうすでにどこがテストから出たのか忘れてしまった。なんか、せっちゃんの顔を見たら先週勉強したところが頭から抜け落ちちゃったみたい。
「えー、そんな説明じゃ全然わかんないよ」
「あはは、終わったら忘れちゃった」
「全く、今度柳か柳生に聞くからいいよ」
「あたしじゃダメってことですか」
「現にそうだろ?」
「うー……、じゃあ最初から頼まないでよね」
あたしは口をとがらすと、せっちゃんは冗談、冗談、とお決まりのセリフであたしをなだめる。いつものせっちゃんの意地悪な面が健在なことに、あたしは少し嬉しくなった。
「退院は冬休み明けになる予定だ」
「……うん」
「それまで……俺がいない間、真田と柳、それにに部を任せるよ」
「うん」
「また入院しなくちゃいけないんだ。それに退院してもまだテニスはできない。……そう、伝えられたよ」
「うん」
せっちゃんは微笑んでいた。泣こうとしない。儚いその微笑みが、痛々しいのは目に見てとれた。
「あたしは、あたしのできることをする」
せっちゃんは頷く。
「だからせっちゃんは、……せっちゃんのできることをして」
「分かった」
あたしはせっちゃんを真っ直ぐ見据えた。あたしは、幸村精市と男子テニス部を微力ながらも支えていかなくちゃならない。それが、あたしの今すべきことだからーー。
「また来るね」
「うん」
「……いっぱい来てもいい?」
「勿論、いいよ」
「部活の後だから、遅くなっちゃうけど」
「当たり前だろ?」
「うん……」
あたしは傍に置いておいた学校指定のコートとマフラーを身につけ、病室を後にしようとするとせっちゃんに呼びとめられた。
「次は真田と二人で来たら?」
あたしはその言葉でみるみるうちに自分の顔が火を吹くように赤くなり体温が上がってることに気づき、病院だということを忘れて声を張り上げていた。
「意地でも来ません!」
ぴしゃり!と病室の扉を閉めると傍に通りかかった看護師さんに「院内ではお静かにお願いします」と注意されてしまった。全くもう、あれでせっちゃんは病人なんだから!
(200528 修正済み)
(081230)