憂う皇帝
幸村の緊急手術は無事済んだが、その後やはり入院することとなり部は部長をなくしたまま俺が指揮を執ることになった。回復する見通しはまだ明確には分からず、今や呼吸器をつけたままベッドで眠っている。その後の面会は家族しか許されず、でさえ幸村に会っていないようだ。しかし昨日の今日の話、面会は早くても週末以降にでもならないと許されないだろう。しかし、今日はいつも俺が部にやってくるときにはいつもいるはずのの姿が見えない。俺はジャージ姿に着替えながら、瞼が重たそうにし半分寝ているような顔でおはよう、と毎朝欠かさずに挨拶をするの顔を思い浮かべる。
「おはよう、弦一郎」
「蓮二か、おはよう。がまだ来ていないが何か知っているか?」
「なら高熱を出して部活に出られないと今朝方メールが来た。おおかた、俺に連絡を入れて力尽きお前にまでは連絡出来なかったんだろう。この非常事態に、申し訳ないと」
「そうか……」
俺はジャージのチャックをあげると、用の済んだはずのロッカーをもう一度開け携帯電話を確認した。今回の幸村の病気のことで、家族と本人以外で一番ショックを受けていたのはあいつだ。幸村の妹も、に泣きつくほど……あの二人の距離は近いのだ。同胞二人が苦しんでいる姿を思い浮かべ、拳を強く握りしめた。朝から幸村の持ってきた花に水を与えるの姿が見れぬことになんとも言えぬ違和感を覚える。
「どうした、今日はやけに覇気がないな。いつもならたるんどる、の一言で一蹴するはずだが?」
「確かに、は普段からの自己管理を怠っているからと言いたいところでもあるが……」
「だがもここのところ乾燥しているから、といった理由でマスクをつけていたはずだが?手洗いうがいもしっかりしていたようだしな」
「……」
「やはり、朝からの顔が見れないのは辛いな」
蓮二の挑発に乗り思ってもみないことを口にしてしまい、しかも図星をつかれた瞬間耳がカッと熱くなるのを感じた。俺自身に迷いが生じている。そんなに今の俺は腑抜けていたか……。たるんでいるにも程がある。思い返してもが時折風邪を引くことはあっても、それが理由でが部を休むことはほとんどなかった。マネージャーと部長が欠いた部はこんなにも悄然としてしまうのか。それともそれは、己の話か。
「事細かにからマネージャーの仕事について補足のメッセージが数分前に送られてきた。あいつも大人しく寝ていればいいものの……。今朝の仕事は精市の花に水やり、その後ドリンク作りにコートの整備の最終確認、タオルの洗濯に朝練の様子を部誌に記入、飲み終えたドリンクのコップを洗うまでが朝の仕事だそうだ」
「の心配性もこれに始まったことではない。では洗濯と洗いものはレギュラー以外の部員に割り当てる。コートの整備の最終確認と部誌の記入は俺が直々にやろう。お前には花の水やりを頼みたい。それと赤也にはドリンク作りをさせておけ。あいつは一度の仕事を経験していた方がよかろう」
「赤也はがいることを当たり前に思っているからな、一度やっておいた方がいいだろう」
蓮二は如雨露をひっぱりだすと、水を汲みに水道へと向かうため部室を出て行った。行き違いに丸井とジャッカルが入ってきたが、どうやら蓮二からすでにが休みなのだと聞いたらしくタオルの洗濯を率先してやってくると言い部室を出て行ったので俺は結局一人になった。しかし一人いないだけで未だ全員来ていないといえどレギュラーのほとんどが出払うことなるとは……。がいかに一人で仕事を要領良くこなしていたことがわかる。部室を出て、コートに出ると後輩らがいつも以上に忙しなくしているのが見受けられた。さて、俺もコート整備の最終確認をしなければ。俺はそう思いながら洗濯場を通り過ぎるとこんな声が聞こえたきた。
「ブン太お前それは洗剤入れすぎだろ!」
「あ、ヤベェ。マジ入れすぎた」
その後ゴワゴワになったタオルが返ってきた時ほど、へのありがたみを感じた時はない。
「マジ、センパイがいないの超つまんねーっスよ、男だらけの部活なんてムサいことありゃしねー」
「まぁそういわなさんな、赤也。かって好きで寝込んどるわけじゃないんじゃき。たまには休ませんとな」
放課後、赤也は文句を垂れながらドリンクを作っていたが不本意ながら確かに赤也の言うとおりだと感じてしまう自分がどこかにいた。午後のマネージャーの仕事は朝よりもずっと多く、今日は練習を早めに切り上げるしか他はなかった。幸村が帰ってきたときに万全の態勢に整えておくためにも、部員ひとりひとりが自覚を持てるように緊急ミーティングを開いた。そのため今日の分の練習を違う日に持ち越す形になり、少し狂いが生じたが普段全体ミーティングがある来週の月曜に今日の分の練習をすることにした。しかしそれはが来週の月曜には復帰している、との前提での話でだが。
「それはそうと、真田。お前さん今日ん家に行くんじゃろ?」
「マジっスか?!いいなぁ、俺もセンパイん家に遊びに行きたいっス!」
「馬鹿者、断じて遊びに行くのではない!俺の家が近いからという理由で本人からスピーチコンテストの同意書のサインをもらってきてくれないかと担任に頼まれたのだ!」
俺は赤也に拳骨を食らわすと赤也は、いってえ~!と声をあげて頭をさすった。ここでいつも赤也にフォローをいれるのがだが、不運にもはいない。不満そうに赤也は口を尖らせるが、そんな風にしか物事を受け止めんからいつまでだっても精進せんのだ!
「同意書?」
「スピーチコンテストの出場の確認、らしい。さしずめ先生が期限ギリギリまで本人に確認するのを忘れていたのであろう。全くもって、たるんどる」
「ふーん。それにしてもお前さん、いくらが弱っちょるからって、手ェ出したらいかんぜよ?」
「た、たわけ!!そのような破廉恥な真似するか!!」
俺は耳だけなく頬までもが急激に上記するの感じながら、仁王を鋭く睨みつけると、後ろで聞き捨てならない言葉が俺の耳にしかと届いた。
「でも、センパイかわいいとこあるから副部長でもわかんない……ッてヤベ」
「赤也あああああ!!!」
二度目の拳骨が、しつこいくせ毛の頭に鈍く響いた。
の家は俺の家から近い。同じ小学校でこそなかったが、最寄り駅がひとつしか変わらないので15分ほどでの家へと辿り着いた。見知った道だったので地図さえも必要なかったほどだ。はマンションに住んでいるらしい。街に聳え立つ背の高いマンションの金属製の重い扉を開けて入った。ロビーはこじんまりとしており、鏡張りされていて清潔感のあふれる建物であった。先生から事前に部屋番号を教えてもらっていたので、俺はその通りに番号を入力し玄関での呼び出しボタンを押した。それにしても最近のマンションとやらは高性能になったものだ。これは、蓮二が以前言っていたおーとろっく、と言ったか。そういえば来る前にに連絡を入れるのをすっかり忘れていたが仕方あるまい。もうすでに呼び出してしまった。
「……はい」
「突然押しかけてしまい、すみません。真田ですが、……、さんはいらっしゃいますか」
「さ、真田?!」
俺は母親か誰か保護者が出るかと思っていたのだが、案の定自身が出たらしく俺に驚いたは声をひっくり返ししかもごほごほとむせかえった。それにしてもインターホン越しで聞く彼女の声は風邪のせいか、少しばかりしわがれて聞こえる。
「ど、どうしたの急に……?」
「担任の先生が、明日までに確認したい事項があるということで言伝に来た」
「電話でよくない……?」
「お前のサインが明日の朝までに必要らしい」
「えーっ、その電話も来てないよ~。先生もテキトーだなぁ。……じゃ、その書類今言う番号のポストに入れといて、明日は学校に行けるようにするから……」
「ご両親のどちらかは今日いないのか?」
「二人とも仕事で、遅くまで帰ってこないよ……、お姉ちゃんも大学だし。後であたしがポストまで取りに行くから……」
「ここまで?それではお前の体に障るだろう!俺が届けに行く、開けてくれ」
「だ、ダメだよ!ゴホッゴホッ、ほら、この通り咳してるしさ。真田にうつっちゃったら困るし……」
「俺は風邪にかかるほどたるんどらん!ここを開けろ、」
「う~……。じゃあ、すぐ帰んなきゃダメだよ……?」
ガチャっと音が鳴ると扉が開いた。俺はロビーを突き進み、壁にある地図を見て部屋の場所を確認した。すかさず階段を選んで向かう。エレベーターもあるが、下手したら俺の足の方が早いのでこれでいい。こういう小さいところでの足腰の鍛錬でさえ馬鹿にならないものだ。と緊張のために自分に言い聞かせながら、俺は遂に、との表札がかけられた部屋までたどり着いてしまった。無意識に深呼吸をし、そしてインターホンのベルを鳴らす。しばらくすると家の中からぱたぱたと足音が聞こえてきて扉が申し分ない程度に開いた。どうやら顔を見せる気はないらしい。俺に風邪をうつしたくないのか手だけ扉から出ていて、少し滑稽だった。
「プリント、こっからちょうだい」
「なぜ顔を見せんのだ」
「だって風邪うつるし……パジャマだし……」
「そ、そうか」
俺はパジャマ、というの言葉に不謹慎にも胸の鼓動が力強く脈打つのを感じた。そうか、今はパジャマでいるのか……いや、今はそんなところではないだろう、弦一郎!
「それにしてもこんな時期に風邪になるとはどういうことだ。お前には鍛錬が足りん」
「う~……ごめんなさい……でも少しは優しくしてくれたっていいじゃない……。ゴホッ、あ、ちょっと待ってて……」
は言うだけ言ってドアを閉め、すぐに戻ってきて再びドアを少し開いた。扉の隙間から差し出されたものは小さな紙袋だった。
「これ、プリント届けてくれたお礼」
「気遣いなどいらんぞ」
「いいから、持ってって。和菓子だし……ご家族と食べて。それじゃ、明日はちゃんと治して行くから……」
と言ってはドアを引いたので閉めるかと思いきやすぐにまた開いた。俺はしぶしぶ受け取った紙袋を握りしめ、早鐘を打つ心臓を抑えようと必死になりながら、か細いの声を聞いた。
「真田……。や、やっぱり顔、みていい……?」
「俺は構わんが……」
顔を見たいとなどと珍しいことを言うな、と俺は思った。寂しかったのだろうか。ゆっくり扉は開かれ、黒地にリボン柄のパジャマ姿のが現れた。頬は赤らんでいて、目は熱のせいか潤んでいて……俺は初めて見る彼女の弱った姿に我を一瞬忘れかけたが、すぐに持ち直した。髪も少し乱れていて色っぽい。だ、だがなんといったらいいか……。今まで見たことのない姿をしたの表情にはどこか哀しげに見える。は、風邪のせいなのか、今にも泣きそうだったのだ。
「……」
「約束、絶対果たそうね。今日はありがと……それじゃ」
あまりにも辛そうな笑みだったので、思わず玄関へとあがりこみ少し気怠げな目を見つめて尋ねた。
「お前は、大丈夫なのか?」
「え……」
心配する俺の声に、は少し呆気にとられていたがすぐに咳をし始めた。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ。今日はわざわざありがと。真田、風邪移っちゃうから帰って。ね?」
はやんわりと言ったが、その顔はとても悲しそうだった。再びとてつもなく抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、そうできる資格は俺にはない。近づいての顔をよく見てみれば、うっすらと、目が赤かった。……泣いていたのか。
「ほらほら。明日ちゃんと行くから」
「ああ……」
俺はに伸ばしかけた手を引きもどし、踵を返す。背後からまた「ありがとう」と聞こえた声に返事をし、玄関を出た。泣いていたのだな……幸村のことで。何も出来ない自分がとても情けなく、小さく感じた。なんだかんだいって心優しいのことだ、自分のことだと思うようには泣いたのだろう。予想ができたはずの事態に、俺はきつく拳を握り締める。部にがいない、幸村がいない、と自分が漠然と思っていたそれ以上に本人たちは苦しんでいるのだ。どうにもできない焦燥感と歯痒い思いを背負って帰路についた。その時俺は立海大附属中男子テニス部を、部長代理として幸村から預かる決心をより一層深めた。
(200528 修正済み)
(081221)