天は選んだ
それは霜がテニスコートを覆うような寒い日のことだった。今日から立海男子テニス部は遠征で、もちろんマネージャーのあたしもついていく。遠征先での試合での結果は、立海大附属中テニス部のことだから全勝無敗。遠征先が遠いところだったらバスを借りて行ったりするんだけど、今回は電車で。あたしにとって通勤電車以外の見慣れない風景が流れていくのが新鮮で、ぼーっと外を眺めていた。
「、どうしたの?元気ないね」
「ん……あ、せっちゃん。ううん、違うの。ちょっとぼーっとしてただけ」
「ふぅん。どーせ向かいにいる真田に見惚れてたんだろう」
「ち、違うもん!あー、なにその目は!本当に違うんだってば!」
あたしが否定してもせっちゃんはニヤニヤと笑うので、あたしは口をへの字に曲げて睨みつけると今度は思いっきり頬をつねられた。こんなにあたしは良い子だっていうのにそーいう扱いはどうなの!しかしそれよりもせっちゃんの発言に気づいてないか真田に視線を向けると、どうやら話し声は聞こえていないようだ。ふぅ。
「いーたーい!せっちゃん離して!」
「うそ、痛い?あんまり力込めてないんだけどなぁ……」
「……痛くないけど離して」
「はは!のほっぺってよく伸びるねぇ」
それからしばらくせっちゃんはほっぺを離してくれなくて、次第に遠慮なくぎゅうぎゅう横に引っ張りだして、「どこまで伸びるかやってみよう」だなんて言い出して、そんなに伸びるほっぺがあろうものか。しかし、それはバッチリ真田に見られていたのだ!
「もー!あたしお嫁にいけない!」
「大丈夫だよ、。もしもの時は俺が貰ってあげる」
「でももしもの時ね」と釘を刺したせっちゃんは、なにやら不適な笑みを浮かべながらちらちら真田を横目で窺っている。だからわざとそれらしい話題を振って、真田のこと気にする素振りを見せなくったっていいってば!それにあたしたち彼氏彼女とかでも全くないし……。それにせっちゃんが旦那さんって、なんか……想像するとちょっと不安な気が……。
「俺が旦那さんで不安とはなんだよ、」
「ぎゃ!どうして考えてること分かったの?!」
「……まるっきり声に出してたよ。俺が旦那さんになったあかつきには、奥さんにすーごく優しくしてあげるのに。心外だなぁ」
いや、そんな捨てられた子犬みたいな目つきで言われても信用ないからね?せっちゃんのジョークを軽く受け流しつつ、あたしは真向かいに座り腕組む真田を見つめた。帽子を深く被っていて表情がよく見えないけど……。あれ、寝ちゃってる?
「真田、寝てる?」
「まさか、あれは考えごとしてるだけだよ。あの場合、考えごとっていうか無心になっているという方があってるな。真田、次の駅だぞ」
「……ん?そうみたいだな」
「電車移動でまで精神統一することはないだろう」
「移動時間を無駄に過ごすくらいなら有効に使った方がよかろう」
なんだ。じゃぁさっき思いっきり見られてたけど真田は無心だったわけだ。話を聞かれていなくてよかった。さっきの会話、真田に聞かれていたら穴から一生出られなくなっちゃうもんね!あたしは部員たちの大きな背中たちに続いて電車を降りる。降りた先にせっちゃんはすぐに意地悪く笑ってこう言った。
「でもあの顔、真田絶対聞いてたよ。あーあー、もうお嫁にいけなくなっちゃったねぇ」
せっちゃんの趣味ってあたしをいじめることだよね、絶対。あたしは眉毛を出来るだけ吊り上げ、せっちゃんに抗議したけど笑ってかわされた。くう、コート外でもあたしはせっちゃんに勝つことができない!大体せっちゃんはあたしに意地悪すぎる。あたしやレギュラー以外の人に対しては後光が差すような微笑みを向けるくせに、あたしにはいつも憎ったらしい笑顔しか見せない。……優しく笑ってくれることも多いけど。もうなんかせっちゃんの手中で踊らされてる感覚……でも、そんなの嫌!
「もういい、お嫁にいけなくてもいいもん」
「悪かったって、。冗談だよ」
けどうこうやってちゃんと嫌だって伝えれば謝ってくれるし、その後頭をポンポンと撫でてくれる。……だから絶対、せっちゃんのことは嫌いになれないんだ。あたしはせっちゃんが花も羨むようないつもの笑顔でいると思い振り向いた。しかし、あたしよりずっと背丈のある見慣れたネクタイの首元は見当たらなかった。ホームでどよめく声が聞こえ、電車の中からホームまでついさっきまであたしといつものように話していたせっちゃんが、コンクリートの地面に倒れていた。
「せっちゃん……!!」
あたしは脇目も振らず一目散に駆けつけた。あのキレイな青い髪を地面に垂らして呻いている倒れた人は紛れもなく、せっちゃんだった。あたしはどうすればいいのかも分からず、救急車を呼ぶチームメイトの傍でせっちゃんの名前を何度も、呼んだ。
部員が駆けつける声々、脳裏をかすめる救急車の無機質なサイレンの音、気が付けばそこは最早駅のホームではなく病院だった。誰が救急車を呼んだのかもあんまりちゃんと覚えていない。せっちゃんのことを待つと決めた数少ない部員があたしを含めてその場に残っていた。あたしもよく知ってるせっちゃんの家族も来ている。ばたばたと白い廊下に響く忙しない足音がやけに遠巻きに聞こえるような気がした。
「……せっちゃんは?」
「緊急オペを受けている。大丈夫か?」
柳がそう答えると、あたしは小さく頷いた。嘘、本当は大丈夫じゃない。でもこの不測の事態、あたしを気遣ってくれている柳の落ち着いた顔にも陰りが見える。だから、あたしも大丈夫と言うしかない。深呼吸をしても、生きた心地がしない。ただただ先ほど起きた惨劇……、せっちゃんが倒れたあの瞬間の映像が脳内で反芻されているだけだった。
「手足や呼吸器官の感覚が麻痺しているようだ。今のところ命の別状はないが……」
あたしは再び頷いた。ふと気が付くと肩が、手が、全身が震えている。よくわからないけどせっちゃんは倒れて、そしてとても危険な状態で今オペ室にいるのだ。あたしの生きた心地がしないどころではない。それくらいは考えられるけれど、やはりなにが起きたのか分からない。考えようとする片っ端から言葉に詰まる。ただ、自分でも訳の分からない罪悪感ばかりが生まれてきた。さっきまで、あんなに元気だったのに。さっきは、あんな冗談を言い合っていたのに。さっき、いつもみたいにあたしに笑いかけていたのにーー!
「……」
頬に、生暖かいものが伝った。涙だった。せっちゃんはどうなるの?そう、口にしたかったけど声が掠れたしそんな言葉は口にしちゃいけない気がした。柳が遠慮がちにあたしに手を伸ばすと、自然と柳に引き寄せられた。そのまま柳の胸にしがみついて顔を押し付けた。見たくない、白い壁なんか。見たくない、赤く光るオペ室の表示灯なんか。そんなとこに、せっちゃんがいるなんて。
「、幸村は……大丈夫だ、そう信じろ」
あたしは肩を震わせながら、頷いた。信じたいよ、信じたいけど。怖い。どうしてせっちゃんなの?どうして?せっちゃんになにかあったらどうしよう、せっちゃんが傷つくことがあったらどうしよう。そんな不安ばかりが襲って、ただ怖くて。命だけあればいいだなんて思えなくて。呼吸もままならなさそうに喘いでいて苦しんでいたせっちゃんの顔を思い出すと、恐ろしさだけが募ってーー。
「、俺たちがしっかりしてないでどうするというのだ?!今、一番辛いのは幸村だろう」
真田だ。あたしは柳の胸から離れたけど真田の顔は直視できなかった。涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られたくなかったから、持っているタオルで顔を拭いた。でも涙が止まらない。けれど少しでも涙を拭きクリアになった視界で恐る恐る真田を見上げると、それはいつものしかめた顔ではなく、不安そうな険しい、真田らしからぬ顔だった。
「幸村は、きっと大丈夫だ。……そう信じるしかない。だから……泣くな」
弱々しく頷くことしかできなかった。真田の声が、少し震えていた。でもこんな中あたしのことを慰めようとしている。その場にいる部員たちのことも、その言葉で励まそうとしている。あたしよりずっと辛い思いをされてるだろうに、せっちゃんのお母さんはあたしと同様に泣きじゃくるせっちゃんの妹とあたしの肩を抱いてくれた。それでも震えは止まらなかったけれど、あたしは信じようとした。せっちゃんは、きっと大丈夫。お願い、大丈夫であって。大丈夫じゃないわけがない、そう自分を信じ込ませた。それが至難の業だろうと、頭の中でその言葉だけ響かせた。誰に祈るわけでもないけど、手を組んで祈る。でも、もし本当に神様がいるならせっちゃんに最初からこんなことをしないから、神様は信じたくない。あたしは神様じゃなくて、せっちゃん自身を信じる。
誰もが黙り話すこともなくしばらくして、ようやくオペ室の赤い表示灯が消えたーー。
(200527 修正済み)
(081216)