19   紫陽花香る頃に

090219


梅雨も本格的に始まったころ、せっちゃんは3ヶ月以上ものの入院生活を経てやっとのことで退院の日が決まり、だけれど体は衰弱していってるから激しい運動はおろか、学校生活もまともにできないという事態の矢先に、突然あたしの手元に一通の封筒が手渡されたのだ。


「たいぶとどけ・・・?」


それも、あたしの唯一のマネージャーの後輩、高遠さんから。あたしは信じられぬ気持ちで目をぱちくりと瞬きさせる。まさか、この、大事な時期に、一体どうして?


「高遠さん、あなた・・・!」
「すみません、先輩!私のお父さんが再来週から転勤することになっちゃって・・・私も着いていかなきゃいけないんです」
「・・・・・・そう、転勤なの。だったら仕方ないね・・・」


開口一番に高遠さんを叱り飛ばしそうになったけれど、彼女は泣きそうな顔で自分の身に置かれた状況を説明してくれた。転勤。あたしだって一度味わったことのある経験。あの時は小さくて外国に行くこと事態どんなに大変なことか分かっていなくて、今でも親の底知れぬ苦労を実感することでさえある。それでもやっぱり、その時の生活との別れを告げるのは幼いながらに辛かったのは、覚えている。高遠さんは、もはや泣きそうな顔ではなく、悲しそうな顔をした。涙はこぼさない。


「本当に、ごめんなさい先輩・・・」
「ううん、高遠さんは悪くないでしょ?でも残念だな・・・高遠さんはあの過酷な部活でも頑張ってたから・・・」
「そんな・・・そんな風に思っててくれたんですか?」
「うん。頑張ってくれてたよ。ほら、ここのテニス部ってあの通り厳しいじゃない?生半可な気持ちでマネージャー志望する子が多くて、誰もついていけなかったから・・・高遠さんはあたしにとって新鮮だったの。先輩はもう2つ上にしかいなかったし、ここ1年半はずうっと一人で仕事してたし・・・」
「だから・・・」
「ん?」
「だから先輩はレギュラーの先輩達に信頼されてるんですね、あの部活を一人でここまで・・・」
「そ、そうかな。信頼ってゆーかあいつらの場合あたしのこと小馬鹿にしてる雰囲気が漂ってるんだけど・・・」
「小馬鹿になんかしてませんよ。先輩のこと、みんな頼ってます。私・・・私本当は」


思わぬ言葉が高遠さんの口から飛び出た。部活へ向かう途中の、騒がしいはずの廊下が、やけに静かに聞こえる。


「お父さんの転勤がなくてもやめようと思っていたんです。私にあなたの代わりは、無理です」
「なに言ってるの・・・それにあたしの代わりなんていいんだよ?高遠さんはあたしと一緒に仕事をしてくれて・・・」
「違うんです・・・先輩は、私をそうやって褒めてくれるけど・・・本当は私も、その他大勢の子みたいに、ただの憧れでマネージャーになったんです」
「動機がなんであれ、この部活を支えようとする気持ちがあればそれでいいんだよ?」
「だから・・・先輩は、私が適いもしない人なんです・・・」
「高遠さん、さっきから何言ってるの?よくわかんないんだけど、ほら、あたしバカだから・・・」


あたしは高遠さんの話している事についていけず、とりあえず深呼吸をする。落ち着け。あたしに適わない?そんな、マネージャー業に適うも適わないもあったもんか。やがて、運動部に属している連中はほとんど持ち場へと去って行ったのか、西の階段は誰も通らなくなり、雨の匂いだけが残る。ここからは教室は見えるけども、ここの階段前のあたりは誰も通らないから、ひっそりと会話しているあたしたちの声でさえも反響して耳に届く。


「私好きだったんです、真田副部長が。」
「・・・・・・」


別に、そういう子がいたっておかしくないじゃない。真田はかっこいいもん。でも、そんな理由で、一体、どうして       


「だからなんだっていうの、あたしは真田と付き合ってるわけでもあるまいし・・・関係ないじゃない。」
「真田副部長は好きだった・・・んですけど、他の先輩にも憧れてました       でも」
「でも?」
「そんな憧れの人達が、先輩あなただけをマネージャーとしてじゃなく、一人の女の子として見てました・・・私は、結局ただの後輩で、マネージャーで・・・」
「だからなんだっていうの!あたしが嫌いならそう言えばいいじゃない!」


まさか高遠さんがこんな子だとは思わなかった。すすり泣く後輩を見ても今のあたしにはなんとも思えない。部活開始時刻は優に過ぎている。こんなところで茶番をしている暇などない。あたしは踵を返して階段を降りようとしたところ、思いきり腕を掴まれた。


「先輩がうらやましかった!!でも嫌いなんかじゃ、ありません・・・本当なんです!先輩は面白いし、優しいし、誰よりも部活のこと大事にしてて・・・私じゃ到底適わない・・・辛かったんです・・・」
「・・・・・・」
「辛かった・・・真田副部長と先輩が話すところを見てるのが・・・私のことなんか眼中になくって、他の先輩達も先輩を大事にしてて・・・やっと近づけたと思ったのに・・・」
「・・・・・・高遠さん」


気分が優れない。高遠さんがそんなことを思ってたなんて思ってもみなかった。それでも、やっぱり高遠さんは甘いのかもしれない。あたしだって恋愛を部内に持ち込むつもりはなかったし、でも好きになっちゃったもんはしょうがない。あたしは彼らが目的で部に入ったわけではないから余計に腹立つのかもしれない。一発頬をぶってやりたい気持ちも湧くけど、しない。高遠さんが苦しかった気持ちだって、わかるから。


「高遠さん、お父さん、どこへ転勤するの?」
「・・・アメリカ、です」
「アメリカ・・・のどこ?」
「確か・・・シカゴ、というところです」
「シカゴ・・・」


あたしがいた街。今のあたしがいるのはあの街のおかげ。そう、高遠さんはシカゴへ・・・。


「シカゴは・・・食べ物はマズイけど、うん、そうね、いい街だよ。」
「知ってるんですか・・・?」
「4年だけだけど、住んでたのよ。いいところだよ。ひとつ言っておくけど」


涙で赤くした目であたしの話を聞く高遠さんは、いい後輩だと思う。ここまであんな本音を言えるのも大したものだとあたしは関心してるから。


「真田達はフツーの中学生じゃない。テニスだけじゃなくて、全部が。視野が広いっていうの?なんだろ、あいつらといるとあたしまで大海原に立たされたみたい」
「・・・・・・」
「それを知るにはシカゴは絶好の場所だと思う。あたしだって、そういう経験がなかったらきっと、せっちゃんたちと対等に過ごせなかった・・・住む世界が違ったかも。だから、」


信頼       こんなあたしに、してくれてるのかな。こんなあたしにしてくれるんだったら、きっと。


「勉強してきな。あたしなんかみたいのになりたかったら、あっちで頑張って、帰ってきたらまたマネージャーやればいい。それだけ。」
「・・・先輩?」
「退部届はあたしは出しておくよ。そんな顔じゃ、真田の前に出らんないでしょ?もう荷造りはじめてるんでしょ、早く家に帰って親を手伝ってきなよ。でも、ちゃんと挨拶は今度来なさい、それが礼儀ってもんでしょ」
「・・・・・・はい。ありがとう、ございました・・・」


小さな足音が廊下の向こう側へと消えていった。      また、一人になる。たださえこんなぐらぐらした状態で、あたしは部を支えなきゃいけないというのに・・・・・・人手がたださえ足りてないというのに・・・・・・あたしは際に置いておいた指定の鞄を肩にかけると急ぎ足で部室へと向かう。高遠さんの退部届は、しかとこの手に。










* * *










「そうか、高遠さんが・・・」


部活を終え、あたしとレギュラー陣はせっちゃん家にお見舞いに来ていた。せっちゃんは高遠さんとは一度しか顔を合わせていない。その時、何があったのかは、レギュラーには一言も伝えていないし、おそらくせっちゃんにも伝える必要はないだろう。


「または一人になってしまうね・・・」
「だーいじょうぶよ!今までだって一人で仕事してきたんだから、それよりもせっちゃんは自分のことの心配をして」
「そうだ幸村、部活の方は俺達に任せろ。」
「・・・そうだな。」


お見舞いの間、なんとなく真田とは顔が合わせづらかった。真田を見ると、あの時の高遠さんの顔がよみがえるから・・・。しばしの間談笑をしていたけれどせっちゃんがそろそろ夕飯時だから、と言うとレギュラー陣はあたしを残して帰って行った。あたしが残ったわけはなんとせっちゃん家の夕食に招待されたから!せっちゃんのお母さんともあたしは仲が良いし、是非にとのことだ。


「今日せっちゃんちの夕飯なにー?」
「多分の好きな鰈の煮付けかな。母さんのはとびきり美味いんだ」
「やったー!カレイ!おいしー!」
「ふふ、まだ食べてないのに」


せっちゃんも病院から出られたのが嬉しいのか、にっこりとほほ笑んでいる。こんな和やかに過ごせるのは久しぶりのことだから、あたしもせっちゃんも嬉しいんだ。あたしはそう思って部誌を鞄から取り出そうとしたけど、先ほどのにこやかな笑みからは想像もしないほど鋭い声でせっちゃんはあたしに問いかけた。


「なにかあっただろ」
「え?」
「絶対、なにかあった。話してごらん」
「な、なにそれ。なんもないよ!」
は嘘が下手だからなぁ、俺にはすぐにわかるよ」
「だからなーんもないってば!」
「ふーん・・・」


するとせっちゃんはあたしを冷たく見放すような目つきで見るもんだから、あたしは存分に震え上がった。なにがなんでも話せ、ってことだ。せっちゃんはそういう人だ。一人で悩みを抱えることすら、あたしには叶わない。


「高遠さんが、退部するんだって」
「うん、でもそれはお父さんの転勤のせいなんだろ?」
「・・・うん、でも、高遠さんは転勤がなくてもやめてたって。テニス部レギュラーに憧れて、真田が好きで入ったけどあたしが皆のそばにいるのを見るのが辛いんだって」
「・・・ふーん。そんな身勝手なマネージャーだったらやめて正解だったかもね。」
「せっちゃん!!」
「だってそうだろ?我が立海大付属テニス部にそういう不純な動機でいられても困るしね。」
「でも、せっちゃん・・・」
が悩む必要なんかないじゃないか、それこそ馬鹿馬鹿しい話だよ。」
「でも高遠さん、シカゴに行くんだよ?」
「ああ、シカゴ?」
「うん、それで、あたしは日本に戻ってきたらまたウチのテニス部に入れてもいいみたいなことを言いました。」
「戻ってきたら?ははっ、そりゃいいや、傑作だ!」


せっちゃんはけらけら笑ってベッドをばんばんと叩く。別になにも面白くもありゃーしないのに・・・。まぁせっちゃんなりに、あたしを励ましてくれてるってわかってるんだけど。


「戻ってきても、尚そんな根性なら俺は入れないけどね」
「またせっちゃんっはー」
「俺はそういう奴嫌いだからね。」


せっちゃんは、たまにこういう子供っぽいところがある。口角を持ち上げて、あたしを見上げる顔はいたずらっぽい。自分が元気ないのに、あたしのことまで気にしてるなんて、ね。あたしは含み笑いをしていると、せっちゃんは急に神妙な顔つきをしてあたしを見据える。


「手術を受ける」

唐突にあたしはその宣告を受けた。あたしは、その時の言葉をゆっくりと反芻してみたけど、思考回路が追い付かない。


「しゅじゅつ・・・?」
「そう、手術を受けるんだ。来月の27日。」
「手術・・・病気が治るの?!」
「成功率は低い。確実とは言えない」
「え・・・・・・」
「入院日は17日だ」
「そんな、成功率が低いなんて・・・!失敗でもしたら・・・・!!」


先ほどの光景を思い出すのは難しいほどせっちゃんは追い詰めらていた。拳を握る手が、いつもより数段も弱弱しく見える。そういえば、最近テニスの話題はめっきりしなくなった。今日みたいに、みんながテニスの話をしようとするとあたし以外の人を追い返してあたしと2人で話す時間が多くなった。せっちゃんは・・・迷っているんだろうか。


「そうだ、失敗でもしたら・・・」
「・・・・・・怖い?」
「・・・こわい・・・、かな」
ちゃん、精市!ご飯できたわよー!」


その時せっちゃんのお母さんの声が話の腰を折った。せっちゃんはなにもなかったかのように二つ返事をして、のろのろとした足取りでベッドから立ち上がろうとした。車イスがなければ動けないというのに。あたしはせっちゃんのお母さんに手伝ってもらって車椅子にせっちゃんを乗せ、食卓へと足を運んだ。リビングルームはおいしそうな香りで包まれていて、それは優しくてあったかい香りだった。先ほどのことが嘘かのようにせっちゃんは笑っている。そして、あたしも。思考回路だけがぐるぐる廻って、笑い声だけがやけに頭に響く。どうして、気付かなかったの・・・どうして気付けなかったの      


せっちゃんが、あんなにも弱っていたことを。







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