化粧や衣装はバーの裏方で準備するので、わたしはさっさと荷物をまとめてシリウスを呼んだ。わたしは少し眠くて、先程ソファーで思わずうたた寝してしまい、起きて時間を確認すると出かける時間の10分前だったので慌ただしく準備したのだった。その間なんとなく、彼を見ないなと思ったらドアの向こう側から「わん」と夕べ聞いた鳴き声が聞こえる。

「シリウス、その姿で行くの?」

わん、と尻尾を振りながら答えるシリウス。変身する瞬間は見ていないものの、やはりこれがシリウスなんだろうと再確認する。屈んで犬になったシリウスの頭を撫でる。はて、飼い犬ということならリードをつけた方がいいのだろうか。けれど、シリウスは人間だけあってこんなにお利口だし。そもそもそんな事に悩んでいる時間がない、と気づいて腕時計を見ると、靴をつっかけた状態で急いでフラットを飛び出した。

ここのマスターはとても気さくで寛大なので、シリウスが演奏中もわたしの傍にいることを二つ返事で了承してくれた。けれど「一人暮らしの独身が犬を飼い出したらおしまいだぞ」といらない文句もついてきた。確かに、シリウスは今は犬だ。でもわたしの飼い犬じゃないし、恋人でもない。しばらく家にいる同居人だ。同居人、って言っても、一晩しか過ごしていないし、まずシリウスに家にいつまでいるか確認はしていない。けれど、何となく少しの間は家にいるんじゃないかなって思ったのだ。

少し、マスカラを塗る気持ちが逸る。今日の口紅は、ピンクベージュのあたたかみのある色にしよう。何だか少しわくわくする気持ち。さっきまですっぴんでシリウスと家にいたのに、何だか変な感じ。おかしいの。わたしはシャンパンゴールドの前と後ろで長さが違うお気に入りのドレスを選ぶ。ステージの端には、黒い犬が大人しく座っていた。



♫ ♪ ♫ ♪ ♫



「ん……」

目が覚めて起きてみれば、そこは自宅のベッド。わたしは昨晩のドレスのまま、寝てしまっていたようだ。……それでは、この格好のまま帰ってしまったということ?どうしよう、ピアノを楽しく弾いていたことまでは覚えているけれど、その先の記憶が……。頭に鈍い痛みを感じ、どうやらお客さんから勧められたお酒を思う存分堪能してしまったことを思い出した。その上、寝不足だったことだしお酒が回ってしまったんだろう。重い頭を起こし、隣に温もりがあるのを感じる。シリウスが、気持ちよさそうに健やかに寝ていた。しかも、犬の姿ではない。わたしは、ちゃんと服を着ている。でもシリウスは上半身裸だ。痩せて傷だらけではあるけれど、綺麗な肌をしていた。

……そんなことはありえない。たった今、脳裏をよぎった不埒な予想は絶対に起きていない。シリウスはわたしのことをここまで連れ帰ってくれたんだろう。自分のバカバカしい妄想に呆れつつ、健やかに寝ているシリウスをそのままに、わたしはシャワーを浴びに部屋を出て行った。

シャワーを浴びながら、先程シリウスが隣にいる時にものすごくドキドキしてしまった事を思い浮かべる。そうよ。普通、異性が上裸だったらびっくりするもの。わたしは自分自身の気持ちを認められないでいた。あんなに端正な顔立ちの人の寝顔が傍にあれば、誰だってドキドキするわ。そう思い過ごす事にした。シャワーを出て、バスローブを羽織る。ドライヤーを取り出して、リビングでテレビを見ながら乾かそうと思いソファーへ腰掛けた。熱風に煽られる髪は梳かす指からすり抜ける。ぼうっとしながら、ドライヤーのうるさい音を耳にしながら髪を乾かした。ニュースの声なんて、ドライヤーと、先ほどの出来事のせいですっかり耳に入らない。

「……おはよう、
「おはよう、シリウス」

わたしは少しつっけんどんな声を出して返事をしてしまう。シリウスは不機嫌そうなわたしに気づいたのか、眠たげな瞼を擦り、横に腰掛けた。

「何を怒ってるんだ、?」
「何も」
「怒ってるじゃないか。俺がせっかく酔いつぶれた君をここまで運んだのに」
「その説はお世話になりました」

「大体裸でレディのベッドに忍びこむなんて」とわたしが小さな声でぼやくと、シリウスは苦笑しながら、わたしが怒ってるのに納得したようだ。

「すまない、あの服では寝苦しくてな」
「パジャマが引き出しにあるわよ」
「そうか。次からはそれを借りよう」

次から、という言葉にわたしは自分の胸が踊るのを感じた。次も、いてくれるのね。わたしがこんな風にシリウスがいてくれる事に喜びを感じているのは、寂しかったせいもあると、自分に言い聞かせていた。

「朝ごはん、何がいい?」
「何でもいいが……。強いて言うならチキンがいいな」
「……やっぱり好きなのね。多分、チキンはないからベーコンで我慢して」
「二日続けて好物というわけにも、いかないか」

シリウスが子どもっぽく、少し落ち込んだ風に肩を落とすのに、とても愛しさが湧いてきた。シリウスって、何だかとても憎めない。わたしよりも一回り大人なようでいて、とても単純。

「夕飯、チキンにしてあげる。今日はお休みなの」
「そうか、それは嬉しいな……。朝食の支度、俺も手伝おう」
「居候さんだもんね。買い物にも、付き合ってもらわなくっちゃ」

わたしがクスクスと小さく笑い声をこぼすと、シリウスもそれに答えるかのように微笑み返してくれた。まだ、知り合って間もないのにとても不思議。シリウスとわたしの間にはとても、穏やかな時間が流れていた。ここ二日間、シリウスが来てから少し早く起きるようになったのでシリウスのリクエストを聞いたり、シリウスの知っている歌に合わせて曲を弾いたりして日中を過ごした。シリウスの歌う歌は、歌詞は面白おかしいものばっかりだったけれど、とても愉快痛快で笑い声を上げながら楽しい時間を過ごした。

その夕方、わたしはまた犬の姿で出かけようとするシリウスを説き伏せて、人間の姿のまま街へと引き連れた。街といっても、片田舎の街だからあまり栄えてはいないし情報が回ってくるのはとても遅い。写らないテレビ番組だっていくつかある。流行遅れの服を売るブティックがあるような街だ。わたしが洋服や家具が欲しい時は、ロンドンまで足を運ぶくらい。シリウスは寒いから、と言って、わたしの大きめサイズのグレーのコートを纏い、襟を立てシャーロック・ホームズのような鹿撃ち帽をかぶる。けれどその姿はホームズさながら、とても格好よく、街へ向かいながらわたしは癪だなあと呟いた。けれど、それにシリウスは気づかなかったようだ。

いつもお世話になっている肉屋で鶏のもも肉を買い込むと、シリウスは鼻歌を歌いながら、肉の包みを抱えた。その鼻歌も、わたしと初めて会った晩の曲。気に入ったんだろうな、とわたしは微笑ましくその姿を眺める。今、シリウスが犬の姿なら激しく尻尾を振っていたことだろう。わたしは野菜やフルーツをたくさん買い込み、急な思いつきでレコードショップへと進路を変える。街外れにある寂れたレコードショップ。昔はよく、ここで買い物をしたものだ。シリウスは物珍しそうにレコードを見比べながら相変わらず上機嫌そうに店内に流れるメロディに片足でステップを踏んでいた。

「あったあった」
「こんなにあるのか。この薄い円盤、レコードだろ?」
「魔法界にもレコード、あるの?」
「ある。昔友人が聞いてたよ。何を買うんだ?」
「サラ・ヴォーンの、ラバーズ・コンチェルトよ。バッハのメヌエットが原曲の。シリウスに、初めて歌った曲」

シリウスは、「バッハのメヌエットか」と言いながら興味深げにレコードを見つめる。すると、わたしに耳元で「ありがとう」と小さくお礼を呟いた。わたしは思わず体が跳ねてしまって、驚いて顔を真っ赤にしたのに、シリウスは声を上げて笑う。もう、きっとわたしはシリウスのおもちゃにされている。

「また不機嫌だな」
「シリウスがあんなことするからよ」
「君は面白いな」
「わたしで遊ばないでよ」

わたしはシリウスの方を横目で見ながら唇を尖らせる。わたし達、こんな街中をこうやって歩いてるだなんて他の人には恋人に見えるのかしら。そうやって話ながらレコードショップを出る。重い荷物は、全てシリウスが持ってくれている。シリウスとわたしがこんな風に痴話喧嘩のマネをしていると、道行く人が何人か振り向いて、何やら遠くの貼り紙を指差しながら、こそこそと内緒話をしていた。

、寒いから早く帰ろう」

シリウスはすかさず、わたしに手を差し出した。その手に深い意味があるわけじゃない、とわたしは思ったけれど、少し間を空けて頷き彼の手を取った。温かい、シリウスの手。その温もりと同時に、わたしの心もぽかぽかしてきた気がした。シリウスは格好いいからたまに道中でも振り向く人もいるんだなあ。顔立ちが整っているだけじゃない。すごく、魅力的な人だ。魔法が使えるから?でも、彼が犬になる魔法しか、見たことがない。それに、実際に変身するところを目の当たりにしたわけでもないのだ。魔法なんて、本当のものなのか分からない。犬の姿で出かげたがらないのを、わたしだって勘付かないわけではない。シリウスのこと、怪しまない方がおかしいのかもしれない。

でも、こんなに純粋でおちゃめな彼が、空想上のお話をしているだなんてとても思えなかったのだ。






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