シリウスの名前を初めて知った日、シリウスに街に出て案内しようか、と申し出たものの、大丈夫だと断られた。どうして犬になって徘徊していたのかな、と思ったけれどもあえて聞かないことにした。けれど、先程言われたマグルという言葉の意味を尋ねてみたのだった。

「俺たち魔法使いは非魔法族をマグルと呼んでいる」
「シリウスの他に魔法使いがいるの?」
「そうだ。君たちの知らないところにね」
「隠れているの?」
「隠れてないと、君のように魔法を使えないマグルは俺たちから魔法を奪ってしまうだろう?」

ふうん、とわたしはシリウスの話に相槌を打つ。わたしは魔法の使えるマグル、か。何かその言い方が、わたしだけがちょっぴり特別みたいで嬉しかった。

「シリウスは、他に魔法が使えるの?」
「まあな」
「魔法が使えたら、どれだけ楽しいんだろう?」
「君たちより少し便利なだけだ」
「魔法って何でも出来るの?死んだ人でも、蘇らせられるの?」

わたしの質問に、シリウスは少し淋しげに笑ってみせた。

「それは出来ない。魔法は魔法でも、出来る事と出来ない事があるんだ」
「……そうよね。何でも出来てたらシリウスが、あんなにぼろぼろの格好をしてお腹を空かせているのはおかしいもの」
「君は飲み込みが早いな。……それに思ったよりも口が達者だ」

今シリウスは前の同居人のクリーム色のワイシャツにコバルトブルーのセーター、ベージュのテーパードパンツを着ている。ちょっと、丈が足りてなくてくるぶしが見えているので臙脂色の靴下も履かせた。先ほどの格好とは見違えるくらい、ちゃんとしている。あと、髭を剃っていれば。

「魔法使いは仕事をしないの?」
「俺はあいにく仕事をしなくても、叔父の遺産があるんでね」
「まあ、羨ましい台詞」

わたしの皮肉たっぷりな言葉を面白いおもちゃでも見つけたかのように笑い声をあげる彼。何となく、昔好きだった悪戯っぽい彼を思い出した。でも叔父の遺産があっても何か理由があってああいった格好をしていたのは、すぐに分かった。話していれば、時が過ぎるのは早くあっという間に昼食時になる。わたしは簡単なスモークチキンとレタス、マスタードのサンドイッチとトマトスープを作り、久々に家でふたりきりのランチをした。

「わたし夜から仕事なの。留守番、してる?」
「歌を歌って?」
「そう。バーでピアノを弾きながら」
「それは是非とも君の招待に預りたいな」

少年のような瞳をわたしに向けながらシリウスは言う。ドキッと心臓が脈打つ。げっそりとやつれているのに、どうしてこんなに色気があるんだろう。わたしなんてシリウスからしたらおこちゃまにしか見えないんだろうな。でもシリウスは食事を目の前にすると、あからさまに嬉しそうにするので少し子どもっぽいのだけれど。チキンが好きなのかな?食べ終えて、皿をシンクに浸しながらわたしは日課を思い出す。

「そうだ。ピアノの練習をしなくちゃ」
「今から?」
「ええ、少し、ね。毎晩弾いているけれど、やっぱり練習しないと。シリウスは、髭剃ってくれば?」

いつもは夕方からだけれど、今日はせっかく早起きしたのだし。わたしは楽譜の束を引き出しから取り出し準備し始めた。

「君のピアノを聞いてからにするよ」
「そんな大したものじゃないけど。何か、リクエストでも?」
「マグルの曲はそんなに知らないんだがね……。それなら昨晩君が歌っていた曲がいいな」
「昨晩?どっちの?」
「最初に歌っていた方。聞いた事あるメロディーだった」
「あれはバッハのメヌエットに歌詞をつけたものよ」

シリウスは眉根を寄せて、メヌエットってへんてこな曲名だなとぼやく。シリウスは、何となくどこかしらからか気品のあるお坊ちゃんのような雰囲気も持っていた。特に、足を組んでわたしの言い草を軽くあしらう感じが。魔法使いのお坊ちゃんは、バッハもメヌエットも知らないのか。

「簡単な曲だから、アレンジバージョンで弾くわね」

ピアノの蓋を開けると、シリウスをそれが合図かのようにピアノにもたれかかる。それがものすごく様になっていて、わたしは少し悔しくなってしまった。わたしには彼のように、財力もルックスも、ないけれど。メロディーという素敵な魔法は持っている。わたしはピアノを弾きながら昨晩のアカペラを曲に乗せる。シリウスは大人しく耳を傾け、とても満足そうに指でリズムを取っていた。わたしはそれに楽しくなって、軽く弾むような声で昨日よりも明るく歌い上げる。ピアノをこんなに楽しく弾いたのは久しぶりのことだった。

「ブラボー!昨晩より、もっと良いな」
「そう?シリウスがいるからかな」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

突然、彼が近づいてくるものだからわたしはびっくりして動けなくなった。頬に彼の唇が触れた。シリウスは、軽くわたしの頬にキスをしたのだ。

「素敵な演奏のお礼だ」
「……シリウスって、プレイボーイだったんじゃない?」
「そんなことないさ。俺に振り向くような相手はもう、十何年も……いないな」

意外だなあとわたしがつぶやくと、シリウスは自虐的に小さく息をこぼした。その姿があんまりにも切なくて、手が、思わず新たな曲を奏で始めていた。ああ、とシリウスは小さく言って、シリウスは苦しそうな顔でわたしの隣に立ち尽くした。笑いたい時は、笑えばいい。でも、辛い時は、泣いたっていい。会った時からずっと、色んな笑い方を見せてくれたシリウス。けれど、今のように悲愴な顔をしていたわけではなかった。苦しさを掻き消すような、そんな笑い方。そんな笑い方、しなくていいんだよ。

わたしは無我夢中でピアノを弾き続けた。時に歌を挟んだりして、鼻をすする音が聞こえて。シリウスはわたしが弾き終える頃には、会った時よりもいい顔をしていた。もう、日はとっくにとっぷりと、暮れていた。



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