その晩シリウスはシャワーを浴びて、また何も言わずにわたしのベッドへ入り込んできた。ソファーで寝て欲しいとも思うけれど、一緒に寝て欲しいという気持ちがそれとせめぎ合っていた。一線を越えない男女が同じベッドで、だなんて堅いことは思わない。でも、それでもとてももどかしい何かがわたしを急くようにわたしの鼓動を掻き立てた。

「ちょっと丈が短いな」
「文句言わないでよ。それしかないのよ」
「……そうだな」

シリウスはこれ以上文句を並べるとわたしの機嫌を損ねると思ってか、大人しく返事をした。わたしはこの歯がゆさを隠せず、ただ天井を眺めている。

「明日は仕事だから、シリウス留守番してる?それともまた犬になってる?」
「いいや、明日の晩は大人しくしてる。夕飯も作ろうか?」
「シリウスってば、料理出来るの?」
「簡単なものなら、な」

白い、少し染みのある天井に向かって、声を投げかけると自分の声が降ってくる。シリウスの声はそれと違って、わたしへしっかりと向けられていた。

「……
「なあに」
「俺はおじさんに見えるのか?」

唐突な質問にわたしは思わず吹いてしまった。思わずシリウスの方へ視線をやると、シリウスは意外と真剣な顔をしてわたしを見つめていた。薄明かりの中でも透き通る、グレイの瞳。わたしを、捉えて離さない。

「シリウスはおじさんよ」
「……やっぱり、そうか」

少し落胆したような声。確かに、見た目はもうおじさんにさしかかっているかもしれない。でもこの二日間見てきたシリウスはとても若々しくて、わたしと同い年くらいなんじゃいかなって思うくらい子どもっぽかった。でも、そんな姿がとても可愛くて、愛おしくて。

「でも……わたしは好きだな」
「ん?」
「そういうおじさんも、いいなって」
「……どういうおじさんだ」
「だってシリウスって、かなり子ども」

笑い声を漏らしながら、胸の鼓動は早まったまま。シリウスは不服そうに眉を顰めると急にわたしの腕を強い力で引き寄せる。

「あいにく、子どもじゃないんだが」

わたしがいつまでも見つめていたいような、そんなじゃれた瞳が、息が吹きかかる程近い。先程まで暴れていた鼓動も、止まりそうな程に。

「……すまない」

シリウスはすぐにわたしから離れて顔を背ける。わたしは咄嗟の事だったので、しばらく目を見開いたまま息を潜める。室内の、電気機器の稼動音だけが響く。わたしは、その時ようやく彼のことを好きなのだと自分の中で認めたのだ。

「シリウス……」
「……何だ」
「抱きしめてほしい、の」

わたしはシリウスのパジャマの裾を掴んだ。ゆっくりと振り返るシリウスの額に、黒髪が流れ落ちる。今まで見たどのシリウスの瞳よりも、とてつもなく少年らしく、そして寂しそうだった。そんな寂しい犬を、わたしは放って置けない。


「ん」

シリウスに名を呼ばれると、わたしはシリウスの胸に近づいた。恋人のように、熱くは抱きしめてはくれない。けれど、シリウスの片側の腕が、わたしの肩を抱き寄せているのが、いつになく嬉しかった。

「おじさんだけど、男だぞ」
「おじさんだから、大丈夫よ」
「…………」
「わたしは、そういうシリウスが好きよ」
「ああ……」

シリウスの声が、とても近い。体が少しくっついているおかげで、振動も伝わる。さっきまであんなにドキドキしていたのに、なぜだか体温を擦り寄せていると、とても落ち着く。シリウスの骨ばった体でも、わたしには十分だった。いや、それ以上に。言葉に出来ない何かが、抱き合うだけでこんなに分かるなんて。今までにない、温かい感情が身体中に染み渡るのを感じる。その晩、わたしは思いを寄せる人に抱きしめられているというのにとても深く、夢も見ずに眠りへと意識が滑り落ちていった。



♫ ♪ ♫ ♪ ♫



「シリウス、行ってくるね」
「ああ」

ここ数日と同じように朝起きて、シリウスと朝食を取り洗濯物を干し、ピアノを弾き、笑い合った。それが、わたしの大切な時間の一部になりかけている事に、わたしは薄々と気づいていたのだ。けれど、それが長く続く保証はなくて、わたしは不安と幸福の間でふわふわと漂っていた。夕方になり、仕事へ行く時間になる。今日は余裕を持って、つま先までしっかり靴を履くこともできた。

「帰るの遅いから、寝てていいわよ」
「……
「なに?」

シリウスは顔を近づけてわたしの唇に短いキスを落とした。前のように、頬ではなくて。一瞬の出来事に瞬きをしていると、キスされたという事実に、顔が熱くなっていくのが分かった。

「おじさん、なんだろう?」
「……やっぱり、ガキ。とんだ悪戯っ子だわ」

わたしが剥れていうと、今度は優しく頭を撫でられた。こういう時ばかり、子ども扱い。

「わたしだって子どもじゃないのよ」
「子どもだ。男に抱かれてすやすや寝るなんて」
「だってそれは……何か、気持よかったんだもん」

シリウスはもう一度、先程より少し長いキスをした。わたしに茶目っ気溢れるようにウインクして。お色気ムンムンのおじさんだこと。

「気をつけて」
「うん、じゃ行ってきます」

シリウスはやっぱりわたしより大人だ。でも、子どもでもある。わたしの足取りは軽く、仕事もとても楽しく過ごせた。シリウスが待っている家だと思うと、お客さんに勧められるお酒も一、二杯のみで断ってしまい、マスターに「飼い犬が心配なのか?こりゃ、当分男は出来ないな」と心配され、景気付けに、とワインを一本持たされた。わたしはそれをシリウスの手土産といいことに、マスターの減らず口だって満面の笑みで「そうなんです」と返した。彼が起きてたら、シリウスとワインを飲んだ後、散歩してもいいな。夜中だったら、犬になる必要ないかな。ウィスキーを一杯勧められただけなのに、わたしの不安を消し去るように、気分はとても良かった。バッグを振りながら、鼻歌を歌って、幸せいっぱいだった。

「シリウスー、ただいまー」

朗らかな声で同居人に声をかける。けれど、シリウスから返事はない。明かりはついておらず、とても静かだ。シリウス、もう寝てしまったのかな。そしたら、このワインは先に空けてやろうかしら。そんな呑気なことを考えていた。リビングの明かりをつけると、テーブルには温かいコンソメスープと、マカロニ・チーズが置いてあった。白ワインだから持って来いだ、なんて自棄に思っていると傍に置いてあるメモに気がつく。メモを持って、わたしは家中あの背の高く痩せた背中を探した。黒い犬の気配も、「わん」という鳴き声も、聞こえない。

わたしは思うところあって、テレビを着けてみた。家中を探しまわった後、気づけばもう、朝にやるニュースがすでに始まっていた。そのディスプレイに映しだされた顔は、わたしが数時間前まで眺めていたもの、それよりももっと痩けて、荒んだ顔つきだった。

自棄になって、マカロニ・チーズをつまみにしながら白ワインをどぼどぼとグラス並々に注いだ。一杯を一気に飲み干す程に。すっかりワインを空けてしまうと、酔いに溺れたわたしは陽気な気分になったのだ。恋人に逃げられても、いつも大丈夫だったのだ。そうだ、歌を歌いながら朝の散歩をしよう。わたしは思い立つとコートを着込んで、靴をつっかけて出かけた。


お気に入りの公園は、二日来ていなかっただけで、わたしにとって何だか別の風景に見えた。キラキラと霜が輝いて、わたしの浮かない気持ちを反射するようだ。シリウスは、魔法を使えると言った。わたしは、魔法を使えるかしら。露が葉から雫として落ちる。朝陽が、地に降り注ぐ素晴らしい景色に、わたしはあの歌がぴったりだと思った。


"...some magic from above made this day for us, just to fall in love... ♪"

そのフレーズを歌った瞬間どこか遠くで「わん」とあの黒い犬の遠吠えが聞こえたような。はっきりと、耳にした。わたしはその時やっと、大粒の涙をこぼし、シリウスは行ってしまったのだと思い知った。あの晩、シリウスと出会った日に、わたしは魔法にかけられたのだ。

「君に犬の姿で初めて会った日の晩、バーの片隅で君が歌うのを見ていた。君の歌は本物の魔法だ。俺は、君を好きになった。長くいられず、すまない。これ以上ここにはいられないが、いつか必ずまた会おう。シリウス」

シリウスは本物の魔法使いだった。メモのシリウスの細長い筆跡と、サインのように紙に残された犬の足跡を撫でながら、わたしは微笑んだ。いつか必ず、また会おう。わたしは泣き腫らした目で、太陽をしっかりと見据えた。そうして、わたしは調子の外れた鼻歌を口ずさみながら、陽気なステップを踏み、家へと帰っていった。




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