筒に弾薬、されとて雨


あたしは真っ先に会場から駆け足で飛び出していった。無我夢中だった。脚が動き出していたのだ。止めどなく溢れる汗と涙は彼らに見せてはいけない。そんな思いを反故にして、全身の血流が漲り、迸り、感情もそれらに追いつこうと必死だった。目の前で何が起きたのか、はたして自分はちゃんと分かっていたのだろうか?分かっているからこんなことになっているのか、それはあたしも分からない。ただ、そうしたかったからなのだーー。

夢の中の揺らいだ幻影のような、そんな望みだった。果たしてせっちゃんがそれをどんな風に捉えていたのかは分からない。あたしには分かりっこないんだ。でもあたしは伝えたい。ただ、伝えたい。でも伝えちゃダメな思いだってある。だからあたしは今、選手達が帰ってくるホテルのロビーで今か今かとお気に入りの金の腕時計を何度も確認する。
これ、もしかして日本時間?時差あるよね、時針と短針直してなかった?合ってる?そんな疑問が沸々と湧いてくるくらいには余裕がなかった。深く呼吸をしようと目を瞑り、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。まだ自分が目にしたものが本当かだなんて分からなかった。そんなのずっと、永遠に分からない。腕いっぱいに抱えた紙袋が慌ただしくガサガサと音がなる。中身が転げ落ちたら大変だ、と思いながらソファーに空席はいくつもあるのに座ることもせず、先ほどの光景が映写機を回して流れるように過ぎてゆくせっちゃんの髪に、背に、ただ呆然と立ち尽くしていた。

ダメだ、涙が止まらない。メッセージだって送った、「ロビーで待ってるよ」と。急に会場から飛び出したあたしにビックリしていたホスト・ファミリーにも連絡を入れておいた。こんな日本でもない、治安の悪いこの会場付近で子どもの単独行動なんてご法度である。なかなか現れる気配のない、あたしの見慣れた柔らかで優しく靡く髪を探す。見当たらない。大荷物でこんなにキョロキョロしている子どもを見かねてホテルのスタッフが声をかけてきた。


"I'm just waiting for my friend, and he's arriving soon. My host family will pick me up later than that, I guess. No problem at all.Thank-
you." あたしはスラスラと口早にそう答えた。
まだそんな悠長なことを言っていられるのか、自分の口から出てくる文言と行動が全く一致せず、ちぐはぐでおかしくなっているのだろうなと思った。周囲の大人も心配そうにあたしを見ている。きっとアジア人の子どもが迷子になっているのかもしれない、そんな視線も向けられている気もした。それでも慌ただしい、頭の中でガンガンと鳴り響く、何時間も吹きすさぶ大嵐に振り回されるような感覚になりふりかまわずいた。


気づけば、ロビーの清潔感溢れるマットをフラットな赤いパンプスで踏み鳴らしていた。傍目からして行儀は良くないだろう。でもこの際はもうどうだっていい。そんなことより問題はせっちゃんなのだ、せっちゃん。ああ、どうして早く来ないの?!メッセージが既読になっていたのはちゃんと確認した。苛立ちなのか焦燥感なのかもう区別することも出来ず、電子端末機器を何度もポケットから出してはしまい、出してはしまい、ぜーーーーーーったい周りにはどうみても挙動不審な女の子に思われていたことであろう。いかにここがオーストラリアという国であろうとも。いや、むしろ英語圏内にいるから自制が効かないのでは?英語を話す時ってどうしてもジェスチャーが増えちゃうし。いや、あたしの場合日本語でも多いかも?とかそんなどうでもいいことを思考の渦の中にいながらも考えていると、遠くから何かが聞こえてきた。それらは耳馴染みが良く、賑やかで懐かしい。入り口の方から待ちわびた人達の足音やら勇んだ声、そして最後に映る緩やかな動線。それらが視界の端に入った瞬間、夏の鮮やかな青空のようにいきなり目の前が開けた。


「せっちゃん!!!!」


待ったなしであたしは叫んでいた。絶叫にも近いようなフルボリューム。拡声器のような声をしているだなんておちょくられるこの声で呼ばれた人物には、それはもうちゃんと届いていた。せっちゃんはすぐさま振り向き、あたしが猛突進するのを気にもしないようないつもの微笑みを湛え駆け寄るあたしを迎え入れようとした。でもあたしはその瞬間、はたと立ち止まり、自分の両手に何が携われているのか思い出す。顔面に力を入れて目をかっぴらかせ、先ほどの涙を見せないよう唇をきつく結ぶ。どうしてあなたはいつもそうなの、どうしていつもと口に出したい気持ちは抑える。せっちゃんの顔を真っ直ぐ見据え、もしかしたらほぼ睨んでいるようだったかもしれない。


この勢いは、止められない。


「せっちゃん、……か、勝ちたかったよね?あたしもずっと勝ってほしいと思ってたけど……それでもあの試合に意義はあったよね?!あんなにガッツポーズ決めてるせっちゃん、別人かと思った……でもやっぱりせっちゃんだった、あれは間違いなくせっちゃんだった。いやそりゃそうなんだけどね?そうだ、せっちゃんは自分の中に眠るせっちゃんを呼び起こしたんだ!!今までのせっちゃんはただひたすらにボールを追いかけて、いっぱいトレーニングもリハビリもして……。みんなもそうだけど……。あたしが分かったフリをするのはめちゃくちゃ傲慢だと思うけど、せっちゃんが辛くて、つら、くて……もうなくなった物って実はあったんだ、本当はね?!あたしは……そう、思うんだけどね」
、」
「あ。ごめん!もう黙る。いやでもなんかあたしもよく分からないこと言ってるけど、とにかく完治おめでとう!!コレ、お祝いなの。あたし現地の人に聞いて買ってこれたんだ、せっちゃんの完治祝い!正式なのは日本帰ってからまたせっちゃんちとか部でもすると思うけど、お祝いは何度あったっていいでしょ?あ、あのね花瓶も買ってきちゃった!えへへ……」


黙る、と言ったはずの口が止まらず余計な言葉を付け加えていくのをせっちゃんはさほど気にしていなさそうだった。いつもだったら、「黙るんじゃなかったのかい?」と軽口を叩くだろうに。


……、深呼吸できるかい?」
「深呼吸?」
「……息継ぎ、していないだろう?」


せっちゃんは手提げ袋と花束を掲げるあたしの肩に大きな手のひらを置いて、じわじわと重力を与えるかのようにあたしを宥めた。ほんとだ、ちょっと酸欠でクラクラしている。せっちゃんはただ穏やかに目を細めて緩く孤円を唇で描き、あたしだけを見つめている。だんだん、瞳に涙が溢れたけれど、一雫もこぼさまいと必死に堪えようとした。


「……泣いてもいいよ、


反射的にぎゅっと目を瞑る。絶対泣きたくなんかない、泣きたくなんかないのに……!喉につかえるこれはなんなんだろう。

再び目をぱっちり開くと、他の日本選手達がいるのを忘れていたことに気付いた。赤也にこんな姿見せたくなかったのに赤也もいる。ウソ、先輩失格。え?弦一郎もいる。そりゃそうだ、あれ?あたしの持ってた花束は?花瓶は?自分の胸の上まで掲げていた祝いの品々の片方は蓮二が預かり、花瓶が入った紙袋は柳生の手に収まっていた。視線だけ弦一郎へやると、眉間の皺こそないけれども笑ってもいなかった。困っている?よく分からない。いつものように腕を組んで、何やらどうすればいいか考えているよう。赤也は何か喋りたそうだったけれど、仁王が軽く赤也の肩をいなしていた。視線をせっちゃんに戻す。息を漏らし、めいいっぱい笑っているようだった。あたしは状況を確認することしか出来ず、唖然としてせっちゃんを見つめ返す。


「花瓶まで買ってきたのかい?ロビーに言えば用意してくれただろうに」
「え、だって……」
「花瓶くらいなら頼めただろう?」
「うん、そうなんだけど……」
「柳、花束を返してくれ」
「ああ、すまない」


蓮二はなんともない、と言った顔でせっちゃんに花束を渡した。ジャッコーがほんの少し離れた場所から温かく見てるのに気づく。


「これは……、ユーカリですね」


柳生の通りの良い声がいきなり耳に飛び込んできたもんだからびっくりして肩をビクつかせた。あたしは鈍いお馬鹿さんになっていたのか、せっちゃんの片手がまだあたしの右肩に置かれていたことを知る。蓮二から花束を受け取った瞬間、その手は離れていってしまったけれど、そのまませっちゃんは大事な宝物を手に入れたように包むように花束を抱えた。


「確かにユーカリだ。オーストラリアならではだね」
「もっと華やかなのがいいかなって思ったんだけど……なんかコレかなって」
「綿毛が可愛いな。柳もそう思わないかい?」
「ああ」


空いた手でノートを取り出し、何か一言程度付け加えたような蓮二の顔はどこか満足げだった。データ通り、ということ?というかあたしは何もよく分かっていない。一連の流れをひたすら目で追いかけている、本当にただそれだけなのだ。なのに、忙しなく動く眼球とは裏腹に込み上げてくる想いが音の粒のようにつぶさにあたしの心を打ち鳴らし、かといって鼓動がそれに呼応するわけでもなくバラバラなのだ。ちら、と弦一郎を見やるとやはりだんまり。言いたいことや思うことがあるのは分かっているのだろうけど、自分の 彼氏という存在に話す余裕が心に残っているのか分からなかったのか、あたしは体ごと弦一郎に向ける気がなかった。彼氏彼女の関係、オフの時は別に自由にしたっていいと思う……のだけれど。蓮二は器用にノートに書き込んだかと思えば電子端末機器を取り出し、黙々といじりだした。何を探しているのかはすぐに見当はついてはいたけれど、口に出すのが少し怖くて、体も強張ってしまったのかおしゃべりとせっちゃんに怒られるあたしも黙り込んでしまう。こうなったらもう話し始めるのは誰だ、という話なんだけれども……。三強、三種三様に黙ってしまいただ赤也の賑やかしい声だけがBGMとして流れる。「へー、ユーカリって花あるんスね!」だとか「たんぽぽじゃんコレ」とかいうこの先の立海大を担う者としては割と恥ずかしいことを行っているとは思いながら。数分、赤也以外の者々の静寂が流れた。それを打ち破ったのは、電子端末機器を熱心に操作している我が参謀だった。参謀は電子端末機器をカバンにしまい、視線をやや落としながら言う。


「ユーカリの花言葉は……再生だ」


その一言で思わぬ爆炎に巻き込まれたような気分になり、あたしは硬直した。


……そんなことってあるの?


仁王が口の端をにぃっと上げたのは分かった。柳生は胸に手を当てている。うるさいな、と思わせ始めていた赤也は何もよく分かっていない様子なので特段下手な心配をさせることはなかった。ジャッコーははにかんでいる。弦一郎の方を見ることは……あたしには出来なかった。でも一番怖かったのは、せっちゃんの様子を窺うことだった。おそるおそる、頭を上げ、何度も目にしているはずの輪郭は穏やかに揺れ、せっちゃんは少し首を傾げる。


「すごいな、は」


思わずごめん、とあたしが口を開こうとした瞬間、せっちゃんが手でやんわりと遮る。


「……苦労をかけすぎた。分かったよ、
「え……?」
「いいんだ、これで。俺はこれでいい……ありがとう」


せっちゃんの言っていることが分かっているようでまるで分からない。確かにそういうことは何度かあるなとは思う時はあるけれど、彼の言わんとすることがまるで分からない。いや、分かるのだ。どちらだ。分からない、分かる、分からない、分かる。このミステリーの高速回転馬車、いわゆるメリーゴーラウンドが光を放ちながら弾けたような感覚。なんだこれ、なにこれ。あたしはせっちゃんの何を知っていた?何も知らなかった。いや、でも知っている……。知っているはずなのに、どういうこと?と戸惑いを隠せないあたしにせっちゃんは真の底から嬉しそうにぎゅっと目を瞑り、腕に力を込め潰さないように花束をわずかに持ち上げた。嬉しいということは分かる。そりゃそうだ、何年幼馴染やっているのだという話だし……。とかとか考えるともう一人いるせっちゃんの幼馴染は多分あたしより何も分かってそうな顔している……感じだし?ずっと見守る姿勢でいるのは分かる。腕を組んでむっつりしてはいるけれど頬の筋肉がピクピクしているから。せっちゃんは「ユーカリって常緑樹なんだよね」とかいうコメントを言い出した。

出来るだけの想いを詰めた贈り物を渡したあたしの反応を見ているはずなのに、まあそれがせっちゃんらしいんだけれど。……まあ?でも喜んでいるみたいだからいいかな?とあたしは無言で両手を上げ頭を抱え始めて思わず出た名前が「ブン太!!」だった。それもひどいダミ声で。

ブン太は、急に呼ばれたことに少し驚いていたようだけれどあたしがブン太に向かって小刻みなステップでつかつか歩いていくと、小さく両手で拳を握っていた。あたしがブン太の前に立ちはだかり、静止したのをブン太は心配そうな声で「……?」と呼びかけるものだから、あたしはひっくり返った声で再び「ブン太~~~~~!!!!!」と半ば叫びながら枯らそうとした涙の一雫だけ流し、思わず飛びついて杜撰なハグをしまった。抱きつかれてしまった当の彼、ブン太は奇想天外だったかもしれないあたしの行動に動じずゆっくりとあたしの背に片手を添える。慰めるように軽く肩を叩き、何度も頷いている。


「お前の気持ちはよく分かるぜ」


ウソ、絶対に分かってない。と、彼に甘えたはずの自分がブン太を振り切ろうとしたけれど瞬時にあたしはそんな態度は酷すぎるな?と思ってやめた。ブン太のバランスよく筋肉がついた身体に対して両腕を伸ばしたつもりだったんだけど、おざなりすぎなハグであたしの体重を預けようとしたわけでもない。むしろ、これはハグなのかという疑念さえ湧いてくるくらいにはただ飛びついて肩を鷲掴みにし、あたしの身体に引き寄せただけだ。ブン太はその遠慮が分かっているのか、肩を叩く手を止めふぅ、と息を吐一歩後ずさり距離を置いた。


「でもな、
「うん」


手短に答える。するとブン太はヒジョーに気まずそうにゆっくりとした声で言った。


「お前の彼氏はあっち、だろぃ?」
「あ」

あんぐりとしてしまっていた。言われた瞬間、あたしは大きく飛びのいて足元がこんがらがるような姿勢でぐらついた。その様子を見ていたせっちゃんは特に助けることもなくケタケタ笑うし、蓮二は面白いショーでも観ていたかのようにくすっと、嫌味ではないけれどあたしを苛立たせるような笑い方をした。ぐるんっと首を捻ってあたしが付き合っている、そして多分はちきれんばかりの恋心を抱いている人の顔を見ると、眉間の皺がこれでもかというほどに深く。コントラストは黒。


「そうだった!」


精一杯お腹の底から出た言葉が、それだった。



(240825)