ガニメデの少女・後編
それは仮入部期間の二日目に起きた。幸村がをテニス部へと連れてきたのだ。しかし、最初は女子テニス部の部員としての見学だった。気怠げに話を聞く彼女に俺は喝でも入れんといかんな、と思っていた折に素振りを始めた女子テニス部の方へ休憩中の幸村は後ろで手を組みおもむろに足を向けていた。幸村が何をしようとしているのか己も興味があり、ベンチから女子テニス部の練習場を俺は眺めていた。
「、俺とちょっと打とうよ」
「えー?!やだよ、せっちゃん大会優勝するくらい上手いんでしょ?!あたしぺーぺーの初心者だし」
「大丈夫だよ、手加減するからさ。それに市の大会では入賞したんだろう?」
「それは剣道の話なんですけど……」
ほう。本人は謙遜していたが、少しは見どころがありそうだ。幸村は先輩にテニスコート一面を借り、試しににボールを打たせてみた……がサーブ自体は相手コートに辛くも入りはしたが、何とも言い難い打ち方をしている。体幹はしっかりしているのだが、腕力のみでボールを打ち返し剣道での癖故か初心者では難しい手首を返し打つスライスボールを繰り出しイレギュラーバウンドさせていた。腰を入れるようにとアドバイスを貰っても、ホームランサーブを打ち挙げ句の果てには野球のデッドボールかのように幸村の顔めがけて返球していた。勿論のこと、幸村は冷静にコート内に入るボールを全て打ち返していたが呆れ果てた様子で目を回していた。
「……どうやればそんな風に打てるんだ?」
「だから言ったじゃん!球技苦手だって。それにせっちゃんがここに連れてきたんじゃん!」
「とテニスが出来たら楽しいだろうなって思ったんだよ。しかしそれにしても壊滅的なセンスだ……」
「……せっちゃんなんて嫌い」
がぽつりと呟いたその一言が幸村にとっては大打撃だったのか、俺は初めて彼がコート外で眉間の皺を濃く刻み柔和な表情を失った顔を目にした。
「ごめん。……テニス部には入らないよね?」
「こんなことされて入ると思う?」
苛立った様子では柄悪くラケットを担ぎ、居心地悪そうに片足を踏み鳴らしていた。しかし、これから同じ部員となる生徒らの前で幸村の好奇心に振り回され彼女がいらぬ恥をかいてしまったことには、ほのかな同情心を抱かざるを得なかった。
「そうだ。あ、じゃあマネージャーはどうだい?ほら、俺達の」
「……マネージャー?」
「そう、今は欠員が出ててさ。後継者がいないんだよ。それに、には向いてると思うよ。単純作業もあるけど、力仕事だし何よりみたいに面倒見良くないと出来ない役目だしさ。何より全国大会にも行けるし」
幸村、本気で言っているのか?!俺はまだ出会って間もないの行動からその言葉がにわかには信じ難かった。数学の授業中はノートに落書きをしている上に、生返事も多く欠伸もよくしている彼女だ。全国大会優勝を目指す我々をサポートするには足枷になるのではないか。先程の怒りなどすっかり忘れたように「全国大会か~。それはカッコいいかも!」と興味が逸れた彼女のお気楽な言葉を聞きつけた先輩たちがどんどん群がり、お祭り騒ぎが起きたようにあれよあれよとは男子テニス部に連行されていってしまった。そのまま彼女は男子テニス部へ入部することとなったが、正直言って俺には新たなマネージャーとなったに良い印象はなかった。遅刻こそせずにいたが、先輩の指示は腰に手を当て常に半目で聞いている。礼儀は道場で習ったのかしっかりはしていたが敬語は覚束なく、タメ口で先生や先輩と話すこともしばしば。言われたことだけはしっかりやりはするが、何せ部活動の意味自体を捉えていないようだった。
「えっ、『りぼん』買いに行くって用事で部活休んじゃダメなの?!」
「いいかい、。君が週二で通ってた習い事達と違って全国制覇を目指す部活動に休みはないに等しいんだよ。漫画雑誌一つじゃ休めない」
「なにそれ、めんどくさ~。『りぼん』も『ちゃお』も他の漫画も発売日に絶対買いたいのに……」
「残念ながら、そうなんだ」
言うまでもない。こうなると予測は出来ていた。しかし俺の考えとは裏腹に同じクラスの蓮二からは意外な評価を受けていた。
「懸念点は幾つかあるが……彼女ならどうにかできるだろう」
データテニスをプレイスタイルに取り入れる彼は、進んでの教育係を名乗り出た。部のマネージャーに入るよう勧めた幸村も彼女をどう指導すればいいのか、考えあぐねていたようなのだ。俺は腑抜けたの根性を見れば叱りはしていたのだが蓮二には「出来ることが増えれば激励という形で伝えろ」と指示された。監督も同じようなことを言うので俺は半信半疑でそれを試してみたが、は意外にも素直な奴だったので「見て見てー!」と出来たことはすぐに俺達の下へ報告に来るようになった。怒られてばかりにも関わらず懲りずに人懐っこい笑顔で俺に話しかけ、隙あらば俺を笑わそうと面白い話をしたり戯言を言い続ける事に関しては根性なしとは言えなくもないが、それでも相変わらずおっちょこちょいでいい加減な奴なのには間違いない。
「いいか、。先輩や先生には敬語を使わなければいけない」
「なんで?」
「一つ上の者でも年長者を敬うのが日本の慣習だ。そしてここは日本だ」
「そうだ、。蓮二の言うように『郷に入れば郷に従え』だぞ」
「"When in Rome, do as the Roman do"、ってこと?ってここ、ローマじゃないけど」
「……そうだ」
は俺に叱られれば、必ず蓮二の下へ逃げるようになった。しかしそれこそが蓮二の真の狙いであったようだ。俺が生活態度の指導をすればするほどの反発心を煽ることとなったが、蓮二が理路整然と日本の慣習は軍隊に起因することや、丁寧語や敬語での距離感の測り方を英語に準えて教えれば何も知らなかった赤子のようにみるみるそれらを吸収していった。彼女が大好きな漫画雑誌は発刊日の朝に蓮二が調達しており、パブロフの犬のように放課後の部活が終われば与えられるという報酬制度では以前に比べれば少しは真面目に仕事に取り組むようになっていった。
だがそれでも懲りずに歯医者の定期検診を理由に部活を休みその後に友人とのおしゃべりにファミレスに行くなど、隙あらば俺達を出し抜けるほど変に頭の回る点も彼女の悪い質であった。そんないたちごっこにも近い彼女への教育は6月頃に転換期を迎えようとしていた。雨に濡れ緑は深まり、晴れた日には陽射しが一層強まる県大会の季節となったのだ。
「精市から聞いていたように小六の頃彼女は骨折したクラスメイトの送迎を毎日するほどの面倒見の良さはありマネージャーの適正はあった。女子ならではの細やかな気配りも出来る。チーム内ではリーダーを務めることも多いがどちらかといえば、サポート側に回る方が彼女の性に合っている。あとはより我が部への興味を持たせられれば……」
最初は興味無げに、それもやらされているかのようにマネージャーの仕事をしていたをここまで育て上げた蓮二の手腕に幸村は驚きと賞賛を覚えたのか、二人はあっという間に打ち解けたようでありそれは俺も同じだった。実際に面倒見の良いは部員の世話をするのにも長けており、蓮二の手の回らない雑用の手伝いなどをしていた。だがそれでも意欲的に行っているとは未だ言えず、幸村や蓮二と先輩達の言うことは渋々聞いておけば怒られないであろうと見透かせる程には余力がある仕事ぶりであった。それでも部の役には立っていたので、彼女が俺に何か言われれば叱るほどでもないと先輩達は唯一の女子マネージャーをちやほやと甘やかし始めていた頃だった。
それによりも新しい部に慣れたのか、部の皆ともすっかり親しくなり特に海外から来たジャッカルには語学面でのサポートをするなど献身的な態度も少しばかり見せていた。
ーーそして、俺達にとっては目標に至るまでの通過点である県大会決勝の日が来たのだった。
「これが県大会決勝なんだね……」
出場校側で県大会の決勝に出たのはにとって初めてのことのようだった。これしきの観戦人数で辺りをきょろきょろと落ち着かない様子でいる彼女に「堂々としていろ」と声をかければ力強い頷きが返ってきた。猫のように大きな瞳をこれでもかと開き息を飲んだ彼女は柄にもなく、少々緊張した面持ちだ。
「なに、すぐ終わるさ。それとも俺達が勝てないとでも思ってるの?」
幸村が腕を交差させ軽くストレッチをしながらに余裕綽々に冗談を言いながら笑いかける。彼女は頼もしい幼馴染の言葉にすっかり胸を撫で下ろし、蓮二が作った対戦校とのデータファイルを大事に抱え深呼吸した。
「うん」
おそらく彼女は英文法であたるところのYES、と言ったのだろう。爛々と輝く瞳に、武者震いとも取れる挑戦的な笑み。俺達が勝てると見込んでいるのだろう。
最初は彼女の"はい"と"いいえ"の使い方に俺も混乱していたが、二月も同じ部、同じクラス、同じ班、隣の席でにつきっきりだった俺でもとうに分かり始めていた。だから彼女の口にした"うん"という言葉はとても力強い肯定だ。
「練習試合たくさん見てきたから。せっちゃんたちなら一網打尽!だよね?」
「何、新しい言葉を覚えたのか」
「ふふーん。敬語もほぼマスターいたしましたわよ、
おどけながらも今や歓声から伝わる興奮と熱狂の下できらめくの瞳の光に蓮二は何かを感じたように満足気に微笑んでいた。いつになく身を引き締めている彼女は髪を縛り口を固く結ぶ。念入りに日焼け止めを塗った後、抜かりなくビデオの設定をいじりタイマーを手際よく準備していた。県大会如きで肩の力を入れすぎだとも思ったが、口を開きかけた時蓮二に腕を掴まれ制された。これでいい、とのことだ。
そして試合は難なく優勝。一つの取りこぼしもなく、試合内容も満足の行くものとなった。その中でも一番大きな収穫は俺達の勝利ではなく、コートにまで大きく響くの熱い声援だった。
「せっちゃん、せっちゃんすごいね!決勝までもストレート勝ちだね!!」
「喜ぶのはまだ早いよ、。これから関東と全国大会があるんだから」
「でもでも!マジですっごかった!真田も柳も先輩達も!あたし、ここに来れてちょう嬉しい!」
「昔から表現が大袈裟だよね、は」
感動したから褒めてるのに、と膨れる彼女が豹変したのかと疑うほど真価を発揮したのはそれから次の日だった。朝練は必ず俺達よりも早く来るようになり、いつだってトロフィーの表面は常に磨かれており俺達の顔を綺麗に映しあれから曇ることはない。知らぬ間にお手製のテニス雑誌のスクラップブックが棚には丁寧に並べられ、校内外問わず蓮二を手伝ったデータ集めに出かけることもしばしば。暇さえあれば額に汗を光らせ、うなじが真っ赤に日焼けしているのさえも気にせず球拾いをしている彼女の小さな姿はコートのいずこでも見られた。ドリンクを切らすことなどもなく、備品は常に整理されている。部員の誰かが彼女を呼べばダッシュで駆けつけてくる。彼女の口癖「面倒くさい」の言葉も聞くことが珍しくなってきた。休憩時間には応急手当の本やテニス入門書を読み耽り、関東大会の為に自宅で応援用の横断幕を拵えていた。しかしそんな彼女は仕事に音を上げることもなく、むしろよく歌っているほど楽しげだ。
なるほど。幸村がを推薦したわけが漸く俺は理解することが出来た。この瞬間を幸村は待っていた、そしてこうなることを見抜いていた。そしてあの日あの時俺が目にした彼女の瞳はまさにの魂に炎が宿った瞬間だったのだ。
「市民大会入賞の経験がある彼女にとって、我が部がどのような立ち位置にいるのかを示すのには県大会決勝まで機が熟すのを待つのみ、と俺は踏んでいた」
蓮二がのデータを集めたページを指しながら、彼は淡々と指導の費用対効果の説明をしていた。それを他所に、目についた箇所は『興味を持つ対象を追求し、分析の後に行動に移す性質』だった。なるほどな。
英語、漫画本、
ーー……そして大事な仲間達。
、中学一年。名実共に立海大附属中男子テニス部マネージャーである。
(210413)