追憶




江戸を覆う雲はひとつもなく、船が悠々と空には浮かんでいる。平和な日々だと誰しもが疑わなかった。事件は起きるけれど、それも小さなものばかり。出動するほどの大事件も今はない。




「こうヒマだと気も抜けますねぇ」


「平和な証拠じゃない、退くん。今日ミントンの練習でもしないの?」


「さっきしてたら副長に怒られたんで・・・大人しくここで日向ぼっこしてるわけなんですよ」


「そっかー」




さんはゴロリと縁側に寝転がる。無防備に男の前で寝る、というところがどこかまたアレだと思うが、時折見せる表情は20代とはいえ少女のそれを思い出させる何かがあった。しかしこの人はたまに、どこか淋しそうな顔をする時があった。それは何のせいかはわからないが、副長、という言葉を発した時によく見せるのだと、今俺は確信した。




さんはこんなところで僕といていいんですか」


「だって暇だもの」


「そーちゃんはまたどっか遊びにいっちゃったし、いっちゃんは松平のかっちゃんのとこにいるし」


「(かっちゃん・・・?)副長と過ごしてきたらいかがですか?さん、副長とも仲良かったんでしょう?副長も今、暇みたいですし」


「いいよ、道場にでもいるから」




そう言ってさんは話を振り切る。これは絶対何かある、と俺は踏んだ。大体局長と沖田隊長、そしてミツバ殿をあだ名で呼んでいたことからして副長もそのような名前で呼んでいたことは確かだ。それにさんは副長と話すことは多くてもその態度が余所余所しく感じることがある。俺はそれがどうにも引っかかっていた。陽を受け入れるその肌は白く、横顔は綺麗だ。美男子とも美女ともとれるその中性的な顔は江戸ではもはや真選組の看板とまでなっている。これまで男として過ごしていた彼女は一切表情を見せることも、仲間と打ち解けることもせずにいたが女だと大衆に知れたからはその持前の明るさと憎めない無邪気さでたちまち屯所内でも人気を得た。




さんって誰か好きな人いるんですか?」


「急になに、退くん。どうしたの?」


「なんとなくです。いるんですか?」


「・・・いないよ。恋なんてしたことないし」


「副長が好きなんじゃないですか?」


「ト・・・副長を?まっさかあ」




呼びかけたその名前に俺はピンときた。明らかに『トシ』と呼ぼうとしていた。彼女は好きではないという。それは本当のことだ、とすぐわかった。副長を好きになるなんて、と言った彼女の顔があまりにも、面白いことを俺が言ったとでもいうように笑っていたからだ。それに彼女は恋をしたことがないという。




「恋をしたことがないんですか?」


「うん。私、六つの頃からずっと男のような身なりをしてたし、武州でいっちゃんたちに会った時もずっと修行ばっかしてたし。そういう事は私に期待しない方がよくってよ、退くん」


さんがもし本当に男だったんなら、江戸ではモテモテだったんじゃないですか」


「女の子もかわいいからいいかもね」




と悪戯っぽくさんは言うと俺もそれに笑い返した。さんは恋をしたことがないといった。それは彼女にとって自然すぎたのかもしれない。局長に恋をしている、というのははたから見ればそう見えるかもしれないが、彼女は局長を恋とかそんなもので片づけられるもので慕っているわけではない。最早彼女にとって局長は神にも近かった。彼女は少し、危険な目をしていると幾度思ったことか。俺に局長へと転海屋のことを伝えろと命を下した時の瞳は何か魔物が巣食ったような眼をしていたからだ。沖田隊長も恋とは違う。さんは実の弟のように、沖田隊長に身を寄せていた。ミツバ殿とは親友を超えた絆で結ばれ、姉妹のような似た2人の弟と言っても過言ではないと思える。副長はどうだ。今思えばさんと副長の関係は不思議だ。そこには常人が入り込んでいいようなものではなく、局長とも違う、沖田隊長とも違い、そしてミツバ殿ともまた違う、なにかはかり知れぬもので彼らは繋がっている気がした。親友の思い人、神に最も信頼される人、憎まれ口を叩く弟の目の上のたんこぶ。そんな関係性しか俺には見えてこない。友人ではあると思う。けれどやはりその一言でひとくくりにしてしまうのは何か違う気がした。




「オイ、てめぇら何仕事サボってやがる」


「副長!」


「仕事がないからここで休んでるんです。」


「だったら鍛えるだのなんだのすればいいだろ」


「今はこうしていたいんです、私の勝手でしょう」


「それもそうだがな、」




副長は胴着をさんの前だというのに、なんの気兼ねもなく脱いで湿ったタオルで汗だくの体を拭う。そしてさんもそれを気にすることもなく、跳ね起きた。




「昔のお前は強かったじゃねェか」


「今は弱いとでもいうんですか?」


「んなぐうたらしてたら弱くもなったと疑いたくなるな」


「じゃあいいですよ、私着替えてきますから。もうひと汗かいてもらいますよ、副長」


「ああ、いいぞ」




するとさんは口を尖らせ拗ねた様子で自室へとずかずかと向かっていた。副長は何やらそれを見て含み笑った。




「山崎、お前もやるか?」


「い、いえ、僕は見学させてもらいます」


「そうか」




その後戻ってきたさんと副長は道場で手合わせを始めた。俺はこの2人に到底敵うことはないと知っているので大人しく観戦させてもらう。激しく竹刀がぶつかる。力ではさんが劣るものの、身の軽さと打ち込みの速さはさんの方が一枚上手だ。容赦なく叩きこまれる面はもう少し、というところで当たりどころだ。




「カテアアーッ!!」




小手が入った。副長の小手だ。俺は勝負あり!と言えば、これまで息を止めることもなく打ちこんでいたさんの溜息が聞こえる。




「やっぱり弱くなったな」


「3408戦中、1705勝1703敗です、あと2勝はしないと私が弱くなったっていう立証はできませんからね」


、まだ数えてやがったのか」


「当たり前です」




さんは得意げに言うと勝ったというのに副長はバツが悪そうな顔をしていた。おかしな2人だ。もう一試合!と副長は申し込んだがさんはあっさりそれをかわす。本当に不思議だ、この2人は。近いと思えば遠い。遠いと思えば近い。そんなゆらりゆらりとたゆたうような関係。この関係に名前をつける日が来るのだろうか。とりあえず、それよりも副長に、八当たりに俺に勝負を申し込んでいるのをやめて頂きたい。勝負は目に見えているんだから。







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090408