それは何のへんてつのない夜のことだった。真夜中、フラットの近くの小さな公園で一人気ままに歌うことがとても好きだった。ここは片田舎、歌を大声で歌っていても近くの家に聞こえることはない。陽気な鼻歌を口ずさむこともあれば、悲しい恋の歌を空で歌うこともあった。深夜の澄んで冷たい空気に、歌声を浮かべることがとても好きだった。

歌うことが、わたしの仕事だった。ちっぽけなバーの壇上で、ピアノを弾きながら朗らかに酔いを楽しむお客さんに歌声をとどけることだ。お金にはならない仕事だけれど、わたしは歌うことが好きだったし、きっとわたしにはそれしかなかった。学校の成績はてんでひどかったし、事務の仕事をしたこともあるけれど、机に座って書類とディスプレイとにらめっこしてるだけの時間はとても窮屈で、退屈だった。そうだ、わたしはとても飽き性なのだ。けれど、歌だけはちがった。歌詞に込められた言葉をひとつひとつ拾い上げて歌うことがわたしの小さな喜びだった。

だからバーからの帰りの晩、わたしはいつも通り古びた遊具のある公園に立ち寄った。瓶ビールなんか片手にしちゃって、薄手のロングスカートをはためかせて。くるくる回りながら、傍から見ればとち狂った人かのよう。酔っぱらいなんてみんなそんなものだ。わたしのバーにいる人々は、行儀のよい人ばかりでみんな音楽が流れだすと体を横に揺すって、ウイスキーを片手にヘタな鼻歌を伴奏に添える。昔からある古いバーなので、おじさんばかりだけれどこんな雰囲気がいつも好きで、だからわたしはいつも貧乏なのだ。ほそぼそと、けれど快楽的に生きていくわたしに、恋人がいつも結婚してほしいとわたしにせがんだ時に夢が終わる。いつか子どもが欲しいな、と思ってるけれど今がその『いつか』じゃない。そう告げると、恋人は決まってわたしの家から出て行ってしまった。

20代半ばも越え、わたしは自分の夢を諦めることが出来ないままだ。レコードにわたしの声を乗せることができたらなあ、と思う。けれどわたしはしがない歌手。冴えないバーの片隅で、控えめなロングドレスを着て歌うだけ。

瓶ビールを持つ手は重くなり、錆びたブランコへの汚れを払い腰かけた。霜が降りた芝生は、電灯の光を反射させてキラキラ光っていた。夜空に浮かぶ星々に負けないくらい。わたしはブランコを小さくこぎながら、お気に入りの曲のメロディーラインを口にする。ほのかに感じるちいさな幸せが、歌声に込められて。

"...some magic from above made this day for us, just to fall in... ♪"

気分良く歌っていると、茂みからがさがさと音がして、わたしは驚いて歌うのをやめた。誰かいたら恥ずかしいし、もしかしたら暴漢かもしれない。体を強ばらせて瓶を握る手を強める。そうだ、いざとなったらこれで殴ろう。わたしはキィ、と軋むブランコの上で息を潜めた。芝生はまたがさがさと揺れる。けれどそれはとんだ杞憂だった。茂みから出てきたのは犬にしては大きい真っ黒な犬だった。

「なあんだ、ただの犬かー。びっくりした」

その濡れたグレイの瞳がわたしを吸い込むように近づいた。落ち葉がついたり、泥だらけで、痩せたみすぼらしい犬だ。けれど、わたしを惹きつけるなにかをこの犬に感じた。

「人に慣れてるのね。かわいい」

黒い犬の耳を撫でてやると、小さくわん、と吠えた。その晩、わたしはとても寂しかったことを覚えている。恋人と別れてから、まだそんなに日にちが経っていなかった。わたしはこの人懐っこい黒い犬を家に連れて帰ることにした。その時、ふと思い出した。今日はひとり、若い客がいたんだっけな。ステージからは遠くて、顔を見ることはかなわなかったけれど、若いのにとてもぼろの格好をしていたのを覚えている。何だか、不思議とその犬がその客に似ていた気がした。

フラットに連れ帰ると、わたしはこの大きな犬をなんとか抱えて、シャワールームに運んだ。この犬の重いこと重いこと!シャワールームに運び込んだだけでわたしは汗だくだ。もう冬も近いというのに。

「ちょっと待ってね」

わたしはコートを脱いで、荷物をリビングのソファーへと置く。シャワールームに戻り、シャンプーを手にして犬に温かいお湯をかけた。

「君はどこから来たの?」

丁寧に黒い毛を手櫛で解きほぐしながら、犬に尋ねる。この黒い犬ときたら、とてもお利口さんだ。わん、とわたしの問いかけに答えながら気持ちよさそうに洗われるがままだ。

「捨てられたのかな、野良かな。こんなに痩せっぽっちで、どうするの?」

わん、と答える犬にわたしはくすくすと笑う。わたし、何してるんだろうなあ。自分がひとりで食べていくのもやっとなのに。けれどわたしの中で何となく決心していた。この犬を家に置くと。

「君、うちの子にならない?」

犬は、今度はわんと快く返事はしてくれなかった。いやなのかな。それとも、ただの迷子犬なのかもしれない。

「迷子、なの?」

犬はわたしをじっと見つめる。わたしは泡だらけの胴体を優しく撫でながらシャワーをかける。何かを、わたしに訴えかけるような目だ。この犬、わたしが言っていることを理解してるのかもしれない。

「……お腹、空いてるだろうから何か用意するわね。あ、ドッグフードがいいのかな・・・。でももうこの時間はスーパーもやってないし、今日の朝ごはんの残りでいいかな?」

わん!と先ほどより嬉しそうに鳴き声を高くした。そうか、お腹が空いていたのか。こんなに痩せてるもんな。わたしはこの黒い犬を洗うのが楽しくなり、リズム良く歌を歌う。アメリカ映画で、ドリス・デイが歌った有名な曲。

"When I was just a little girl, I asked my mother what will I be, Will I be pretty, will I be rich ? Here's what she said to me, Que sera, sera Whatever will be, will be...♪"

なるようになるさ。可愛らしい歌にすっかり上機嫌のわたしは夢見る少女のような思いを瞳に浮かべながらドライヤーを犬にかけた。犬もわたしに合いの手を入れるように、わんと鳴く。幼いころ、たしかにお金持ちのお嬢さんだったり、綺麗なお洋服を着た素敵なお姉さんになるんだと信じて疑わなかったなあ。でも、わたしは歌うことにしたんだっけ。なるようになるものだ。ぼうっと、ソファーの上で膝の上でくつろぐシリウスをあやすように顎を触る。それにしても、黒真珠のように、毛並みが艶やかな犬だ。

「君、ちゃんとしてれば見た目もすごく素敵な犬なのね」

犬はわん!と得意気に返事する。分かってるよ、とても言いたいのだろうか。レコードを小さな音でかけて、冷蔵庫の中に保存しておいた、チキンのトマト煮をあたためる。玉ねぎは入ってないから、だいじょうぶだよね。黒い犬はよほどお腹空いているのか、キッチンまでわたしを覗きに来てぐるぐると円を描いて喜びをみせた。

「はいはい、もうすぐだからね」

そう言い聞かせると、犬はぐるぐる回るのをやめてリビングに戻り、ちょこんと姿勢を正した。もう、本当に人間みたい。わたしはおかしくなり、また笑うと心なしか黒い犬も嬉しそうに尻尾を振る。皿を床に置いてやると、待ってましたと言わんばかりにトマト煮に食らいつく。ちょっと多めに作ってしまったと思ったけれどよかった。……そう、それも二人分だと思って作ってしまったから。悲しい気持ちには蓋して、今日はこの黒い大きな犬になぐさめてもらったな。子守唄のように流れるバラードの曲に、ソファーに身を預ける。ふう、と溜息をつきながら犬の食べっぷりにわたしもお腹いっぱいの気分になっていた。気持ちがいっぱいで、うつらうつらと夢の世界に誘われて。

「君は不思議な犬ね……。人間みたい」

わたしが小さく呟くのを、この犬は耳をぴくっと立たせてしっかりと聞き取っていたようだ。そしてわたしはすっかり眠りに落ちていた。そう、普通の犬じゃない。そんな気がした。だから、きっとわたしは次の朝見る光景にあまり驚かなかったのだと、思う。




はじめ    つぎ






Lyrics from:"Lover's Concert" by Sarah Vaughn
                    "Que sera sera" written by Jay Livingston and Ray Evans, sang by Doris Day