どの星だろうが見つけてみせよう✵ビロードに包まれたエイレネよ
鈴を振るような声、にはぴったりの表現だ。小さな鈴がりんりんと、遠くからでもよく聞こえるようなメゾフォルテ。それでいて耳障りではない。そんな風に俺を呼ぶの声。
「やっぱりアトリエにいた」
「ごめん、ついつい集中しちゃって」
小雨が窓を叩き、小さな雫がガラスいっぱいについている。あふるる光の恩恵に預かれる日ではない。でも何だかそれが今日という日にお似合いだと感じていた。来訪したは彼女のお祖母さんのお下がりでもらったというレインブーツに泥と水滴をたくさんつけて、何かしめしめと悪戯を企んでいるようなめいいっぱいの笑みを浮かべていた。今日の彼女は大層機嫌が良さそうなこと。
「はい、お花」
「今回はカーネーションか。しかも緑なんだね」
「ラスト一本だったんだ!なんだかこんな感じの淡い黄緑、せっちゃんの描く水彩画みたいな色っぽいなーって思って」
『無垢で深い愛情』、『感動』。そういった花言葉が緑のカーネーションにあることもはきちんと調べてきたのだろう。一般的には緑のカーネーションは地味と言われてしまう。けれども、それを俺の描く絵のようだと言ってくれたことが素直に嬉しかった。の言葉に裏があることが少ないしね。薄緑色の花弁達は、品よく慎ましやかに絵の具を重ねていくのに相応しいことだろう。この品種ならおよそ一ヶ月は持つことだし、次の被写体はこれにしようかな、と花を見てすんなり決めてしまった。
そういえば、がここに来るのはいつぶりだろうか。夏の全国大会を終えても慌ただしい日々が続き、世界大会も終えようやく日常らしい日常に戻ってから……二度目か。母さんは嬉しいに違いない。そして俺を訪れる際、彼女が一輪の花を携えてやってくるのはいつしか恒例となっていた。
「の行きつけの花屋、なかなか良いよね。先々月にくれたサイン・オブ・シンパシーなんてほとんど市場に流通していないのに」
「そんな名前だったっけ?すごく好きな色と形だったのは覚えてるんだけど」
「……あれほど得意げに品種名の説明をしてくれたのは一体誰だったんだろうね」
彼女はとても忘れっぽい。人の名前や顔、性格や考えていること、表情や仕草。そういう些細なことまで目に捉えて機敏に感じ取る彼女は、浴びる言葉や話す言葉と波のように大荒れになったり夕陽を反射できるほど凪になる静かな思考達に揉まれすぐに忘れてしまう。仕事の時はしっかりと日誌をつけ、煩雑とした思考達をしっかりと整理しているようだけど。彼女にとって穏やかでゆったりとした時間は俺のに比べ、そう多くはない気がする。けれどそんなにだって、きちんと覚えていることだってある。
「それはそうと。せっちゃん、お誕生日おめでとう!」
「ああ、ありがとう。今日の夕飯はなんだって?」
「スズキのアクアパッツァ!冬のスズキって脂が乗って美味しいんだって。楽しみだな~」
「確かに、それは楽しみだ」
は慣れた手付きでアトリエの棚にしまってある彼女用のアンティーク・ガラスの花瓶を取り出して水切りをする。どうやら俺が入院してからというものの、花屋に足繁く通い切り花の扱いを熱心に聞き込んでているらしい。何度か失敗はしているようだけど。土いじりは好きじゃないようなので、鉢植えには手は出さないけれど図書館では花の図鑑を広げてるところをたまに見るし、興味を持ったものにはとことん学ぼうとする姿勢は怠らないらしい花への向き合い方だ。
「これ、お誕生日プレゼント」
「やけに小さい包みだね」
「……いいから早く開けてみて」
言いたいことは色々あるのだろう彼女は唇を固く結びそれらをぐっと堪え、早く包みを開けるよう俺に促した。これだからをからかうのはやめられない。このパステルブルーの袋にきっと色んな想いを込めたのだろう。封を可愛く留めてあるバラのシールを開けると、今日の雨粒のように光る雫がついた白銀のキーリングが出てきた。よく見ると、Sと刻まれたシンプルなイニシャルプレートもついている。
「これ……が作ったの?」
「うん、すごいでしょ!その石はアクアマリン、せっちゃんの誕生石!」
「……ありがとう。すごく嬉しいよ」
「アトリエの鍵とかにどうかなーって思ったんだ」
さすがは女の子といったところか。目の付け所が俺とはぜんぜん違うな。しかし安易に俺の誕生石を使ったわけではないのは、石を見れば分かることだった。俺の好きな色、そしてそれを鍵につけるという日常に添える彩り。正直、裁縫で家庭科の先生に散々笑われるような出来のもの作っていたがここまで繊細な仕事が出来るとは思わなかった。
「ね、ね。ビックリした?」
「ああ、意表を突かれたよ。なかなかの出来だ。いつからこんな手仕事をするようになったんだい?」
「暇になってから。後輩に引き継いでもらってから、あたしの仕事ほぼなくなっちゃったしね」
昨年の夏の大会からは数学の成績がピンチなのを機に塾に行き出し、マネージャー業が落ち着けば剣道の稽古にも通い出し、書道さえも再開したらしい彼女はそれでは飽き足らずアクセサリー作りにまで手を出していた。相変わらず、インプットとアウトプットの間を行き交い忙しない日々を送っている様だ。鉱石といえば、は小さい頃から綺麗な石を集めるのが好きだったなぁ。このキーリング……俺にプレゼントとして渡せると彼女が判断するほど、誰に見せることもなく努力を重ねていたんだろう。すごく良い出来と言えるほどではないかもしれないが、手作りの温かみが溢れる作品だ。
「フフ、勉強が疎かにならないといいね」
「まーた、せっちゃんはそういう意地悪言う」
「事実、今学期最後の提出物サボったろう?」
「ママがおばさんに言ったんだね……」
進学できるんだから別にいいじゃんと拗ねて膨れっ面になるを見下ろしながら、左手に乗せられた俺の新しい宝物となった小さな輪っかに繋がれた乳白色の石を見つめる。ひんやり冷たくて心地良い。
「あーあ、早く晴れて芝生で寝転べる季節になんないかな~。寝転べる芝生って日本にはあんまりないけど……」
「そうはいっても、は雨だって冬だって好きだろう」
「あ、知ってた?」
お風呂の中で聞く静かな雨の音が好き、と俺に話したことを当の本人は忘れているようだ。それはそうだ、もしかしてその話はがアメリカに行く前の俺の近所に住んでいた頃の話だったかもしれないから。彼女が真冬生まれでなおかつ冬が一番好きな季節であるという事実は、実は外部の人間からはとても分かりにくい事実だった。俺は幼馴染だからたまたま昔から彼女の誕生日を知る機会があったけれども、真冬に生まれたよと人に伝えると往々にして驚かれるとは俺に笑いながら話してくれたっけ。同時に、マイナス15度の中という極寒の中雪かきに懇々と取り組んでいたり、雪の上を駆けやんちゃに遊んでいた雪国の少女だったということは彼女の天真爛漫さに覆い隠されてしまうのだ。俺のことを待っていてくれた時は、厳しい冬の中でじっと寒さを堪え忍ぶ蕾を支える萼のようだったことは記憶に新しい。寒空の中で見上げるお月さまとお星さまが好きなの。感傷に浸りながらそう言う彼女はカーテンのように窓を覆い降り続ける細かい雨粒と雲の垂れ込めたぼんやりとしている風合いの空を愛おしそうに眺めた。
俺は……どうかな。冬も嫌いじゃない。暖房の風もそんなに得意じゃないけれど、幾分か冷房よりはマシだ。それに冬のガーデニングではやることが山積みである。春を迎え、綺麗な花を咲かせるためには良い土壌を作ってやらなければならない。丁度今の時期くらいから、花達の盛りの季節が始まる。これから見られる生い茂る葉の瑞々しさ、生命の強さに触れ、それらに恋い焦がれると共に自らの手で彼らを作り上げているのだと実感すると、不思議と力仕事や地道な作業が苦じゃなくなる。そう、これから。そしてテニスの練習だって……そうだと思える。
は一見いつも皆の輪の中心にいるように見えるが、たまに一人の世界でじっと佇んでその空間や時間を堪能している時がある。たまに皆との会話が成立してない時、あるしね。今日はおめかししたんだよとレトロな金ボタンがきらりと光る紺地にベルベット製のワンピースのプリーツの裾をつまんで見せて、話を続ける。しとしとと降る雨の中冷えるアトリエで、はどんな風にアクセサリーを作っていたかなどのお喋りを頬を紅潮させ無我夢中で続けている。あちらこちらに跳ねていく興味深い彼女の話題たちに俺は相槌を打ち久方ぶりの二人の時間を楽しんだ。腕を背の後ろで組んだ彼女の姿を見て、その時ににお茶を出すこともなく立たせっぱなしにしてしまっていたことに気づいた。しかしそう思ったところで、がしまったと手で口を塞いだ。
「お祝いするためにせっちゃんを呼んできてって、おばさんに言われてたんだった」
「なんだ、母さんからの使いだったのか。じゃあ早く行こう」
うん!と元気良く返事をするの瞳は無数の雨の雫の柔らかい光を取り込んで一層輝きを増していた。雨は上がり、今やガラスの窓が夕焼けの中銀色に光っている。湿っぽかった灰色の雲間から光が差込み、俺たちを天へと誘うようだ。
家族と賑やかに晩餐を楽しんだは俺の好きなブラームスの交響曲四番に身を委ね、紅茶と母さんのお手製のケーキをとても幸せそうに味わっている。去年は、こんな風にまた家族と過ごせるだなんて思いもしなかった。病気を経てからの日々を家族のように支えてくれたに改めて功労賞を送ってやりたいとさえ思った。
「、すみれの砂糖漬けがあるけどいるかい?」
「……食べ……る」
「冗談だよ。なにも俺の誕生日だからって無理することない」
勿論、彼女が食用菊や菜の花以外の花を口にするのが苦手なことは分かっている。硬直した顔から一転してじゃあなんで聞くの、と眉を顰め口をすぼめる彼女だってじゃれ合うように怒ったフリをするだけ。またもや彼女をからかいながら、俺は以前からあった純粋な疑問がふって湧いたの、思うがままに口にしてみた。
「真田の家には行かないの?」
にそう尋ねればは茜色の夕焼けよりも赤く頬を染め上げ首を振り、大慌てでしーっとポーズを取った。その傍らで食器を片付ける母さんが「あら、弦一郎くんとそんなに仲が良いの?」と興味津々に尋ねてきたので「付き合ってるんだよ、もうそろそろ半年以上経つんじゃないか」と俺は何食わぬ顔で事実を述べた。母さんは「私の娘になって欲しかったのに」と本気なのか冗談なのか分からない戯言を言い、肩を落としてほんの少ししょげた。大体、は俺の妹にも懐かれているし、その上祖母にも可愛がられている。もう既に、似たようなものだろう?と呆れてしまった。
そして先程まであんなに恥ずかしがっていたのに、宙を見上げ「あたし、せっちゃんとは結婚できないかなぁ……」とぼんやりとした口調で呟きながらも生真面目に明確な意志を伝えるに俺はおかしくなってしまいクツクツと喉を鳴らし笑った。花壇の花の全てが枯れてしまっても、また頑張って丁寧に拵えればこうやって笑いあえる時が来る。ああ、こんな日々が心の底から大切でどうしたって愛おしい。
だから、いつまでも諦めない。
より一層味わい深くなったこんな日々を、俺は諦めないんだ。
(エイレネ<Eirēnē>…ホーラ<Höra>三姉妹の一人で冬と平和の女神)
(210305)