You're
My Valentine!

バレンタインデーが刻々と近づいていた。毎年せっちゃんや仲良しの部員と友人には手作りのチョコやケーキをプレゼントし、それ以外の部員達には100均で買った可愛いラッピングにバラエティパックのチョコを詰めて配っていた。総勢52名の中、立海男子テニス部唯一のマネージャーだったので、みんなの士気が下がらないようバレンタインのモチベにも行き届かせるようにするので毎年大仕事だ。まあ、お正月辺りから毎日ちょっとずつラッピングすればそんなに手間じゃないからいいんだけどね、と思いつつお尻に火がつかないとやる気を出せないあたしはいつも2月に入っての2週間で大慌てで準備を始めるのだった。


しかし今年のバレンタインはワケが違う。
今のあたしには……ちゃんと両思いの彼氏がいる。未だに公の場で彼氏と呼ぶのには慣れないんだけどね。せっちゃんからはまだ照れがあるのかと呆れられている。けれどどうしても友人からチームメイトを経て恋人同士になったものだから、彼氏は彼氏でも弦一郎はいつまでもたっても弦一郎なのだ。されど、この世で一番好きな人には間違いない。それは……ちゃんと意識している。と改めて実感すると、恥ずかしくなって一人の時でもクローゼットに入り隠れたくなってしまうので、今年のバレンタインイベントをどう遂行するかに思考回路をシフトチェンジした。
今年は何を作ろう?去年は大量に作れるってことでトリュフチョコだったよね。一年生の時に作ったのは人生二度目の手作りチョコだったから、チョコを湯煎して可愛い型に入れたのを固めてスプレーチョコやアラザンで誤魔化した歪なチョコレートだった。それでも優しいみんなは喜んでくれたけど。
まだ三年生も部の練習に参加していることが多いのであたしもちょくちょく様子は見に行ってはいる。とはいえど、あたしの仕事はほぼ後輩に引き継いでもらいファンからの部員へのチョコをボックスごとに仕分けして渡す仕事はしなくて済むので、今年のバレンタインは従来に比べてずっと楽だ。だからこそ、今回が特別になるんだけども。元レギュラーにはいつもありがとうのチョコと、長年お世話になっているせっちゃんにはほんの少し特別なお菓子にするかな。そしたら、彼氏には一体何をあげればいいんだろう?そもそも愛し合ってる者同士のイベントなはずなのに、あたしからすればこれは完全に新しいスタイルだ。弦一郎の好きそうなお菓子をデパートで見繕って買うとか?うーん、でもそれはあたしの流儀ではないかな。やっぱり自らの手で作ったものをあげたい、と思考を巡らして結局はいつもと同じ考えに落ち着いた。


そうと決めたら、レシピ探し!よし、幼い頃にママが作ってくれたお菓子たちのレシピ本を使おう。ママの作るお菓子はどれも好きだったし、せっちゃんも「おばさんの作るレアチーズケーキ美味しいよね」って嬉しそうに頬張ってたのを覚えている。じゃあせっちゃんにはレアチーズケーキにしようかな。うーん、でもワンホール作っちゃうと5ピースは余るよね。じゃあ親友のももとママとお姉ちゃんにあげよう。パパはどうせ仕事で長期家を空けてるしあげなくていいよね。あのレアチーズケーキほんっと美味しいんだよね~と思い出しながら、自分の分もちゃっかり確保するあたし。レシピを読み上げるとなかなか簡単そう。食べるの楽しみだな~!と思ったところで、はて、と一つ問題があることに気づいた。1ピース余る。ブン太にあげてもいいんだけど、ブン太にあげるものとせっちゃんにあげるものを同じにするとせっちゃんちょーっと機嫌悪くしそうだし。
そこであたしには名案が浮かんだ。弦一郎にもあげればいいんだ!そうだそうだ、弦一郎は特別ってことで二種類お菓子をあげるのもありだよね。レアチーズケーキは小学生の時に作ったこともあるし、失敗はしないだろうからそれでいこう。あたしってばほんと天才~!と、完全にバレンタインの浮かれポンチと化していた。しかしそれでも弦一郎にあげるものはどうしようとワクワクする恋する乙女の妄想は止まらない。やっぱり甘すぎないスイーツがいいのかな。和菓子を作ったほうが良いのかも……?あんことか……?でもそれは上手く出来る気がしない。あたしは思いつくがままの悩みをせっちゃんにテキストメッセージとして送り、そしてものの数分後には電話がかかってきていた。


「改まって相談とはどうしたんだい?」
「あ、あのねー、それなんだけど、えーとね……」
「ああ、当ててみせようか。そういう歯切れが悪い時のは大抵真田のことで悩んでる。さしずめ、バレンタインのことだろう?」
「ハハハ、伊達に幼馴染やってないですよね~」
「それで、本命チョコをどうするかで悩んでるってことで合ってる?」
「そ、そうなんだけど……そんな身も蓋もない言い方しなくたっていいじゃなーい!」


面倒くさいな、と呟いたのがはっきり聞こえた。せっちゃんは恥ずかしがるあたしを前にすると、たまにこうやって白けた反応をする。恋する乙女の心は複雑なのよー!!と喚けば、ハイハイと心のこもってない返事が返ってくる。くそう、もうせっちゃんにレアチーズケーキ作るのやめちゃおっかな。


「急ごしらえで作ったことない和菓子は無理かなーと思ってるんだよね」
「おばさんもも普段洋菓子しか作らないもんね。そうだな……。抹茶味の洋菓子なんてどうだろう」
「グッドアイディア!それすっごくいいかも。さっすが、せっちゃん!」


やっぱりレアチーズケーキはちゃんと作ろう。あたしのことも、そして彼のもう一人の幼馴染の嗜好も理解しているせっちゃんがとても頼もしく思えた。


「勿論、俺のもあるんだろう?」
「……そう言われるとあげたくなくなる」
「フフ、それでもくれる人を俺は知っているよ」


やっぱりせっちゃんってずるい。それ、あたしのことでしょ。でもちゃんとヒントを与えてくれたことにはさすが、ともう一度素直に褒めてお礼を言い電話を切った。レシピ本をめくり索引を確認すれば抹茶味のケーキがちょうどよく掲載されていた。更に本をパラパラとめくると、落ち着いた渋みのあるグリーンのケーキが目に飛び込んできた。なになに、『抹茶は色と香りが命』ですって……?!どうしよ、茶道のお免状持ってるおばあちゃんちにわざわざ行って良いお抹茶を大さじ一杯分もらってこようかな……。ぼんやりとそんなことを思考の隅に置きながら、あたしは手順の書かれたページを何度も読み直す。上手く出来るかは分からないけど、直感でコレだ!と思ってしまったのだからもう抹茶ケーキに挑戦するしかない。自分にそう言い聞かせ、あたしはお小遣いの入ったお気に入りの緑の革の財布を握りしめスーパーに出かけていった。思い立ったが吉日人間、それがあたしなのだ。











* * *










よし、レアチーズケーキは材料をちゃんと揃えたしあとは混ぜて焼くだけ。問題なのは、抹茶のケーキ。あたしは今オーブンとにらめっこをしていた。どうしても何度も何度もオーブンの中身を確認してしまう。いくらあたしが見つめたところで熱で赤く照らされているケーキ生地がどうにかなるってわけでもないのに。あたしは無意識にキッチンで腕を組み仁王立ちになっていた。特筆すべきことがあるとすれば、時折お姉ちゃんに「邪魔なんだけど」と言われてしまうくらい。10分程経ったあとになんだか肩に力が入りすぎてるかもとダイニングの椅子に座り込んで後ろにのけぞり、天井向かってめいいっぱい腕を伸ばした。こんなことしてるくらいなら、ラッピングのことを考えよう。以前手紙のやり取りをした時みたいに、縦書きの便箋にメッセージを書こうかな?いや、でもバレンタインは元々西洋圏の文化だし。一年の時に、弦一郎に『郷に入れば郷に従え』って散々言われたっけ。
じゃあ今回は友達の誕プレなんかにもよく使うメッセージカードにしよう。金の箔押しがされた、シンプルだけど飾り模様が繊細であたしのお気に入りののシリーズ。いつもそれを大切な人へのメッセージカードとして使ってきた。新しく買ったものがたまたまあるし、まだ弦一郎に使ってないしね。作るケーキは弦一郎に合わせたわけだし、あたしらしさのエッセンスを加えるとしたらそれがバランス良いかもだし。鼻歌まじりに自室に戻りケーキが焼き上がるまで書きたいメッセージを考え、一生懸命綺麗な飾り文字になるように練習した。はぁ、あたしってなんて健気な彼女なんだろうなんて、バレンタインの甘さに酔いしれる少女漫画の主人公気取りの自分に照れ臭くなってバッカじゃないのと辛辣なコメントを頭に浮かべた。


ーーバレンタイン当日の放課後。マネージャーはほぼ引退したっていうのに「幸村くんに渡してくれる?」だのブン太や仁王等に渡してとチョコを人伝いで渡してくれという要望は今年も多かった。そんな女子達には穏やかにファン用の仕分けボックスを管理している新しいマネージャーがいると促し、断りきれなかったものだけは予備の紙袋に入れまとめた。色めきだった厄介な教室から早々に離れ、独り家庭科室にてまだ終わらすことのできなかったラッピングの作業をギリギリに終え数を確認した。よし、大丈夫っぽい。一番大事なチョコと幼馴染のもの、そして元レギュラーのものが混ざらないよう別の袋に分けた。放課後の部室に顔を出すと、分かりやすく赤也が顔を輝かせている。それに対して玉川が困ったような顔をしていた。この状況を見るに、新体操部の彼女から本命チョコを貰えた玉川を赤也がやっかんでいたな。悪魔化される前にあたしは赤也にメッセージカード入りのチョコの詰め合わせを差し出すと、赤也は明らかにガッカリしていた。


センパイなら去年みたいに手作りチョコくれると思ってたんスけど……」
「もう、あたしは引退した身なんだから甘えない!シャキっとしなさい、シャキっと!」
「……真田副部長に本命チョコ作ってたから俺の分がおざなりになったとかじゃありませんよね?」


図星である。しかし赤也のためを思うとハッキリと肯定するわけにもいかず、あたしは赤也の背中を力強く叩きながら「副部長はアンタでしょ!」と喝を入れてやった。玉川にも同じように義理チョコを渡すと礼儀正しく「ありがとうございます」と穏やかに笑い、受け取ってくれた。これだから余裕があるヤツと余裕がないヤツは違うってのよ。あたしは鼻息荒くいじけた態度の赤也をあしらい、そのまま部室を後にした。
中庭に来いと元々ブン太に呼び出されていたので、噴水の傍に佇むベンチへと向かうとそこには元レギュラーの三強以外の三年達があたしを待ち受けていた。みんな紙袋を携えていることからも分かるように他の人からもたくさんのチョコを貰っていた。それでも律儀にあたしのことを待ってくれてたのはこちらとしても手間が省けてとてもありがたい。


「毎年欠かさずありがとうございます、さん」
「俺にも俺にも!」
「はいはい、ブン太落ち着いて」


普段は兄貴分って感じで頼りになる時も多いブン太もこういうイベントの時ばかりは違う。柳生は「校内での飲食物の受け渡しはあまり褒められた行為ではありませんが、やはり今日だけは仕方ありませんね」などと余計な文言を付け加え、一応は礼儀正しく軽く会釈をしながらチョコを受け取った。他に義理チョコをあげる人達のものよりも倍に膨れたラッピングを見てブン太はとびきりの笑顔を見せてくれた。でも次の瞬間、「手作りじゃねーのか」と落胆したように小さく呟いたけれど。柳生が大袈裟に咳払いした後、ブン太はわざとらしくチョコの包み紙の種類の豊富さに感心している風に装っていた。前年と前々年同様手作りを期待していたのはバレバレだけど、それでも彼らの喜ぶ心は本心なのだろうと少しばかり笑みがこぼれた。


仁王なんて、興味関心ありませんよといった顔をしつつあたしの手からサッとチョコを掠め取っていく。しかもちゃんと自分のものかどうかを瞬時に判別して。ジャッコーは謙虚な態度で照れくさそうに「いつもありがとな」と心の底からの感謝を表してくれた。もう慣れてはいるけれど、仁王の横柄な態度に嫌味な視線を送れば「おまんは本当にマメなヤツじゃの」と手書きのメッセージカードを見てあたしをおだてる。流石詐欺師と呼ばれるだけある、向こうもあたしの思考なんて読めているのだ。そんなことを言われたらこっちが嬉しくならないわけないじゃない。単純なヤツと思われたくなくて口角が上に上がっていくのを堪えると「笑いんしゃい」と仁王に怒られた。理不尽だ。柳生はそんな仁王を窘め、ブン太は待ちきれずにラッピングを解いてチョコを食べていた。あーあ、もうカオス。あたしは統率が取れない個性派集団に嘆いていると、救世主のように蓮二がそこに現れた。


がチョコを配っているだろうと思ってな」
「あ~、よかった!蓮二来てくれて」
「皆がバレンタインで浮かれているとは分かっていたからな」


ふ、と蓮二は口元を緩める。蓮二はやけに機嫌良さそうに花柄のラッピングに包まれたそれをあたしから受け取った。去年とは違う包装の仕方に興味を持ったのかまじまじと見つめ「ふむ、そう来たか」と聞こえるか聞こえない程度の声の大きさで呟いた。データ収集中なんですね、どうも。


「手作りではない確率は80%だったからな、なかなかに良い確率だろう?」
「手作りじゃなくてすみませんねー、もう!」
「決して嫌味を言ったわけではないぞ。それに手作りのチョコは昨年と一昨年に貰ったからな」


嫌味に聞こるんですけどーと、あたしは不服そうな顔をしていたに違いない。今の自分を鏡で見たら右眉が吊り上がっているであろう。すぐにその気配を察知した参謀は「感謝している」と後に引いた。みんな好き放題言ってくれちゃって。もう二度とあげないことにしようかな?!と意地悪くも思っちゃうけど、嬉しそうにはしゃぐみんなを見ると許してやらんでもないかとなるあたし。バレンタインはみんな浮足立ってるし、今年はあたしもその一人。立海男子元テニス部レギュラー達もファンが大勢いることだし、他人からの好意を目に見える形で受け取るのは嬉しいことなのだろう。あたしだってホワイトデーにお返し貰うの嬉しいしね。


「精市と弦一郎には渡したのか?」
「ううん、それがまだ。せっちゃんには帰りに渡すねーって言ってあるんだけど……」
「弦一郎には伝えてないと」
「うっ」


実は今日ずーっと彼の方を眺めておりいつ渡そうかと考えあぐねていたのだ。でもいつも通りおはよう、と挨拶し授業を受け特に授業間の休み時間に話すわけでもなく親友のももに渡すタイミングが分からないとぶちぶち言いせっちゃんには早く渡しなよとせっつかれ、今に至るのだ。そう、放課後。必然的に荷物が多くなるメンツなので、三年生は練習もそこそこいいとこにみんな早々と切り上げていたのだ。部として引退した形にはなっているけれど、彼らはまだ二年生に負けじと練習をしているので今日は強制的に早上がりにさせられてるみたいなもんだけども。それはそうと、と蓮二が話を続ける。


「精市にの足止めしておいてくれと頼まれているのでな」
「足止め?」
「直に分かる」


蓮二はそう言いながら、あたしの背後の何かに向かって小さく手を挙げた。それに倣って後ろを振り向くと、思ったよりも荷物の少ないせっちゃんが少しくたびれた様子でこちらに向かってきていた。


「まだ帰ってなくてよかったよ」
「まだ帰らないって分かってるくせに」
「いや、そこで女子に捕まっちゃってね。丁重に断るのに時間を要したんだ」


何とは言わずにはいたけれど、きっと本命チョコを渡すために待ち受けていた女子のことだ。せっちゃんもモテるからなぁ。普段は勇気を出せずに告白しない子達でも今日のようなイベントにて一発奮起!と勢いに乗って告白する子も多いのだろう。あたしを盾に使うこともあってせっちゃんはなるべく本命チョコを貰うことはするするっと避け、手渡される場合のみチョコだけを頂き女子の気持ちは柔和かつ明確にその気がないという巧みな言葉で断るという姿勢でいた。今年は何故かあたしという隠れ蓑は使わずにいたみたいだけど。だから毎年他の元レギュラー陣よりもずっと荷物が少ない。


「本当は朝一で貰いたかったんだけどね」


そうして、あたしが何もしてないうちに手を差し出してきた。絶対用意しているという確信があるのだろう。そりゃそうだけども。小六のバレンタインからずっと欠かさず、チョコやお菓子を渡してきたもの。明らかに他のみんなとは違うしっかりとした箱に入ってる物を手提げ袋に入れてせっちゃんに渡すと、先程の疲れた様子はどこやらと思うほどせっちゃんは朗らかに笑った。


「今年は何を作ったの?」
「それ、今聞く?レアチーズケーキだよ」
「フフ、俺の大好物だね」


箱を開けて中を少し覗き、心底嬉しそうに目を細めてたおやかに微笑む。そんなこと言われて、そんな笑顔見せられたら厚かましいせっちゃんの態度だって許しちゃうじゃん。もう、みんなあたしのこと甘く見てない?ブン太は「俺もレアチーズケーキ食いたいな」と言いながらケーキの箱を羨ましそうに眺めていたけれど「これはあげない」と笑顔でせっちゃんは大事そうに手提げの紙紐を握っていた。結局あたしはこういうことで満足しちゃうんだ。でも、嬉しそうにバレンタインを迎えてるせっちゃんを見ると本当に良かったなって感じるのは嘘じゃないから。
ブン太は「、今度俺にも作り方教えろぃ」と言ってきた。はいはい、と適当に返事をするとわちゃわちゃと話し込んでいたと思っていた連中は既に校門の方へと向かっていってしまっていた。ブン太もガサガサ大荷物を抱え駆け足でジャッコーの下へ向かっていってしまった。なんだか、まずい雰囲気になってきたとあたしは感じて始めていた。


「まだ真田に渡してないんだろう?校門で待っててとが言ってたって伝えといたよ」
「な、なんでそんな勝手なことを……!」
がぐずぐずしてるからだろ。渡せなかった時の愚痴なんて聞きたくないし」


言い方はつっけんどんだけど、悲しい思いをしてるあたしを見たくないってことだ。せっちゃんなりの思いやり。絶対渡そうと決めてたしちゃんと渡す覚悟は出来ていたけど、どうせみんなにチョコを配るのに夢中で連絡するのを忘れてしまっているだろうあたしの状況も見越してのことだと思う。ありがと、とぽそっと呟くと早く行きなよと急かされた。あたしはなるべく急ぎ足で、けれどケーキが崩れないように慎重に足を運んだ。ケーキを運んでいる時はみんな天使だ、って聞いたことがあるけど今のあたしの背中には羽根が生えてるのかしら?心なしか体が軽い。ローファーでアスファルトを蹴り校門まで向かうと、所在無げに立ち尽くしている広くて大きい馴染みのある背中が見えてきた。あたしの大好きな、いつだって飛びつきたくなる逞しい背中だ。


「ご、ごめん、待った?」
「待っていなかったといえば嘘になるだろうが……。仕方あるまい。今年も部員に差し入れをしていたと聞いている」


校門ですれ違ったのであろう、蓮二達のファインプレーにより待たされた弦一郎はあまり怒っていないようだった。はあ~、バレンタインにまで怒られなくて良かった。休み時間に避け気味だったのとか気にしてないのかな?あたしは息を整えながら、今更ながらに緊張しているのを全身で感じ取っていた。速歩きしていた時よりも鼓動がどんどん速くなっている気がする。弦一郎の仏頂面と、きつく結ばれた唇を見ると胸がきゅっと締め付けられたように苦しくなる。彼はいつも通りの格好で、予想取り手提げ袋など一つも持ち合わせてはいなかった。弦一郎のことをこれほどまでに理解していると実感したのは、それが初めてのことだった。そういえば……去年の弦一郎もそうだっかもしれない。それに気づき、嬉しくて嬉しくてあたしは言葉に詰まってしまった。


「あ、あの……その、弦一郎……」
「何だ」
「えーとね。これ……。弦一郎に作ったの。あの、抹茶ケーキとレアチーズケーキなんだけど……」
「……チョコではないのか」


これは予想外な返答が来た。確かに、チョコではない。チョコが良かったのかな?!弦一郎は真っ直ぐにあたしの目を見つめる。選択肢を誤ったかなと一気に不安になりあたしの目は泳ぎだしてしまったけど。


「あの、チョコじゃなくってごめんね……。でも、弦一郎は抹茶が好きかなーって……、甘さも控えめだし。もしよかったらお母さんとでも召し上がって」
「いや、……これらは俺が頂こう。ありがとう」


そう言いながら弦一郎は視線を手提げに移し、中に封筒が入ってることに気づいたようだった。


「ふふ、英語でメッセージ書いたの。開けてみて」
「しかし……」


ここは校門の前だ、と言いたいのだろう。普段だったら弦一郎はこういう物は一人で密かに味わうものだと思うとあたしも分かっている。でも彼から視線を逸らさずじっと見上げるあたしに何か意味があるのだと、観念したように小さなカードの封筒を慎重に開けた。案の定、眉根を寄せ困ったように小さく首を傾げた。ふふ、弦一郎の困った顔結構好きなんだよね。すると背後から、馴染み深い声が割り込んできた。


「恥ずかしいこと書くなあ」
「幸村!人の手紙を盗み見るとは、無粋な!」
「人聞き悪いな。二人共校門の前にずっといるから、いなくなるまで待っていたんだ。感謝してほしいくらいだけどね」


飄々と悪びれなく空を見上げるせっちゃんは「と真田は二人でいると余計に目立つんだよ、俺だってカップルの邪魔なんかしないで避けて帰りたかったさ」とぼやき被害者ヅラをした。あたしはそれに耐えきれなくて、「先に駅に行ってるから!」と全速力で駆け出してしまった。もう恥ずかしいのなんの。せっちゃんに見られたのは、百歩譲ってしょうがないとして。だって、日本語じゃ言いづらいんだもの。履き慣れた柔らかい革靴で再びアスファルトを駆ける。人通りが多い駅の真ん前まで辿り着いたあたしは急ブレーキを踏んだように止まり、朝よりも格段に軽くなったカバンを肩から外しうなだれた。冬の冷たい空気が肺に入り込みひゅーと呼吸をする。何も考えず走り出してしまったけれど、頬が熱いのは走って体温が上がったからなのかそれとも恥ずかしさ故なのかは分からない。しかしあれだけ精一杯走ってきたのに、来た道を何気なく振り返ると既にあたしの意中の人が手提げ強く握りしめほんの数歩だけ後ろにいた。目の前の人は息一つ切らしてさえいない。



「な、何?」


先程よりもっと熱っぽく、弦一郎はあたしを見つめていた。これは走ってきたせいで鼓動が高なっているのではないと確信した。それはあたしを映す弦一郎の瞳に、微かな炎の揺らめきのようなものを見たような気がしたからだ。


「お前もだ」


一気にお腹の底からむずがゆさが駆け抜けていき、頭のてっぺんまで体が痺れた気がした。あたしは押し黙って、込み上げてくる嬉し涙を堪えると弦一郎は顔をしかめ、しかしそれとは裏腹な嬉しそうな声色で


「……帰るぞ」


と突っ立っているあたしの手を取りしっかりと握りしめた。きっとせっちゃんが書かれた言葉の意味を解説したのだろう。
あたしも、か。ぐいぐいとあたしにお構いなしに引っ張っていく弦一郎に、たまにはこうやってリードされるのも悪くないなとあたしはクスクスと喜びの笑い声を上げたのだった。