軽やかな音色が春風に乗って廊下を渡っていく。ああ、この曲なんだったけな。結構好きだった気がするんだけど。しょ、から始まった気がするんだけど……きっとこの前の音楽の授業で聞いたはず。うっとりするような音色だったから、途中でうつらうつらとしてしまったんだっけ。

「ショパンだ!」

私は今まで忘れていた偉大な作曲家の名前を思わず叫んでいてしまった。私の手を引いている、背の高くてカッコいい彼氏はこの挙動にも慣れているようで、笑顔で「ショパンがどうしたの?」と尋ねてきた。

「なんだか、この前の音楽の授業ですごく綺麗なピアノ曲を聞いてね、それがショパンだって今思い出したんだけど」
「ああ、ショパンなら俺も幻想即興曲や革命のエチュードあたりは前に弾いたなぁ」
「長太郎、弾けるの?!」
「え、うん。もし興味あるなら、今日家に来て聞いていく?」

エッ!!初・お家デート?!そんな急に、いいんですか?!と一気に湧く期待感と共に、何の約束も無くお家に上がっていいのかな……という常識人な私のモラルとがせめぎ合った。しかしそれを一瞬で長太郎は打ち砕いた。

「今日はまだ家に誰もいないし、うん、聞いていくといいよ」
「本当?嬉しい!」

私はこれ以上変なことは言わないように、あくまで慎ましやかに控えめにそして素直に喜ぶことにした。長太郎も彼女の私を気兼ねなく呼ぶくらいにはお家が綺麗だと見た。まあ、そりゃ長太郎だもん。私みたいに買った物をそこらへんに置いておいて忘れちゃうなんてズボラなこと、しないよね……。己の普段の生活への反省をしつつ、心なしかいつもより握る手の力が強い長太郎に連れられるまま電車に乗り、閑静な住宅地の一角へとたどり着いた。屋根がほんのり薄いグレーで、洋式の白い大きな家だ。黒塗りの鉄製の門は私が知っているものより大きく、流石良いところのお家という安直な感想しか抱けなかった。

「どうぞ。コートかけがあるからそこにかけておくよ」
「お邪魔しまーす」

彼はあっという間に私のコートを背後から脱がせてしまうと、それをなんともスマートに手際よくハンガーにかけてしまった。更にスリッパを揃えて用意をして置いてくれる。玄関には鏡があるし、廊下もなんだかいい風が流れてくるほど広い。それでいて足元にはフローリングの温かさもある。長太郎って、こんなお家で育ったんだ……。

「すご~い!広い!」

私は驚きのあまり、人様のお家だというのに声を上げてしまった。なんて見事な、吹き抜けの部屋!グランドピアノが真ん中に置かれている。こんなに贅沢な部屋の使い方を私は知らない。ひんやりとした空間にマホガニーの本棚があり、たくさん楽譜や音楽に関する本が置かれている。まるで光が窓からこぼれ落ちてくるよう。

「日中は結構日差しが強くて暑いんだけど、今は光がいい感じだから日除けはこのままでいいかな」
「長太郎はいつもここでピアノを弾いてるの?」
「うん。俺の部屋はここの隣。鞄、預かるよ」

長太郎はまたしても紳士的に私から荷物を取り上げて、彼の部屋らしきところに置いてきた。ちょ、長太郎の部屋もどんななのか、気になるなぁ……。ハッ!ううん、でも私、今日は長太郎のピアノの演奏を聞きにきたのだ。いやらしいことは断じて考えてなどいない……こともないけど。少し残念そうにピアノのカバーを開ける長太郎を見つめる。手際よく楽譜も設置されていたが、日本語のタイトルじゃないから何の曲だか分からなかった。

「久しぶりだからうまく弾けるかな?じゃ、いくね」

長太郎の長い指が鍵盤を優しく叩く。彼の息遣いが分かるように体が揺れる。そしてそれと共に繊細なリズムが奏でられ、私はその穏やかなメロディに体の芯からとろけそうな気分になった。音に長太郎の優しさが出ている、そんな気もした。ゆっくりと労るような曲を聞くと同時に私は、彼氏が私だけのためにピアノで演奏している!と思い、得も言われぬ高揚感にも包まれていた。

、どうだった?」

あっという間だった。長太郎は輝かんばかりの笑顔を向けて、私に感想を窺った。

「最高だったよー!長太郎、ピアノもすっごく上手いんだね」

未だに曲名は何なんだか知らないけど、それだけは本当に確かだと思う。長太郎は弾き終えたことに満足して、すっかり私に何の曲を演奏したか説明することを忘れているので、楽譜のタイトルを写メっておいて、今度樺地あたりにでも聞いてみよう。

「あっ!そうだ、飲み物もまだ出してなかったね。つい嬉しくってピアノにばかり気を取られてたな」

長太郎はこういうところが可愛い。完璧なジェントルマンのようでいて、夢中になれることがあると突っ走ってしまう。日が落ち始め、ぐっと気温も下がったので私の手足も少しかじかんでいた。

「トイレ借りていい?」
「うん、トイレは廊下を出て右手にあるよ。お茶を淹れとくから、俺の部屋まで来て」

その言葉だけで胸が高鳴る。トイレまでに続く道に、品よく絵画も飾ってあるし、なんだか異空間にいるようだ。ボーッと夢の中にいるように、熱に浮かされてしまう。しっかり手洗いうがいを済ませ、鏡で前髪を直し、もと来た道へ戻り、念願の彼氏の部屋のお披露目タイムとなった。

「長太郎?失礼しまーす……」

長太郎はポットを抱えて、私を迎えてくれた。部屋に少し甘い香りの茶葉の蒸気が広がる。わざわざお茶っ葉から淹れてくれたのかな。座らせてくれた椅子も、なんだかふわふわして心地良い。机も本棚もよく整理整頓されてて、ラケットがテニスバッグから覗いていた。

「お茶、ありがとう」
「味大丈夫?俺のお気に入りのを淹れてきたんだけど」
「うん、バニラの香り?いい香り~」

長太郎はにこにこしながら、大きな陶器のティーポットで私に二杯目の紅茶を注いでくれた。

「長太郎、部屋綺麗にしてるねー」
「あんまり物が多いほうじゃないから、部屋掃除の頻度が高いわけじゃないんだけどね」

確かに、物が少ない。私の部屋に比べると、部屋の広さと物の多さが比例していない。私の部屋は広さの割に物が多いからなぁ……。

「今度の家にも行っていいかな?」
「え?あ、う、うーん。うん、今度ね」

思いっきり挙動不審な返事をしてしまった。なぜなら自室の汚さを思い浮かべてしまっていたから。それならば、長太郎が来る日をちゃんと決めてもらってから、その前に大掃除を済まさないと。私はそんな冷や汗をかいてることをさとられず、出来るだけ優雅に紅茶を楽しんでいるフリをした。


「今日は、親が帰ってくるのが遅いんだ」


長太郎はにこやかにそれが何でも無いという風に語る。微塵もいやらしさはない。

「そ、そうなんだ~」

私はめいいっぱい空気を吸ってから明らかに緊張した口調でぎこちない返事をしてしまった。バ、バカ!長太郎にそんな気はないっていうの、分かってるでしょ?!と私は自分の頬を殴りたい衝動に駆られた。案の定、私の目の泳ぎ方に長太郎はすごい発言をしてしまったのだと悟ったようで、がちゃんと気が急いだようにソーサーにティーカップを置いた。

「いや、俺はそんなつもりじゃなかったんだけど……」
「勿論!今日演奏聞かせてもらえただけですごく嬉しかったし、紅茶も美味しいし、私、そろそろ帰ろう、あっ」

私がうわずった声で、早口にまくし立てあげながら立ち上がると長太郎に力強く腕を掴まれた。そのまま引っ張られるままベッドに尻もちをつき、彼は私に体重をかけ唇に優しい口づけを落とした。すぐに口を離すと、彼の唇が私のを追いかけてきて、すぐにまたそれに塞がれた。今度はもっと深く甘いキス、そして段々と私の中の酸素を貪るような、荒々しいものに変わっていった。長太郎の舌が私のを絡め取っていく。息もままならず、呼吸が上がる。長太郎の片腕は私の腰を掴んで話さない。上顎を舌先でなぞられ背中がゾクゾクする。

「ちょうたろ……ッ、ん……あ」
……」

甘く痺れるような彼の口づけに溺れてしまいたい気持ちに流されそうになる。でも私が彼の肩に手を置いて、呼吸をさせてもらうために顔を逸した。多分この勢いのままだと、私達は情欲のいいままにされてしまうだろうから。

……ハァ」

長太郎の妖しげな瞳の揺らぎも、一息ついたところで落ち着いたようだ。腕を腰に回したままでいるけれど、私の制止を振りほどこうなんてことはしない。

「好きだ……」
「うん、私も……」

グッと私の腰を引き寄せて、長太郎はいつもと変わらない小さなキスを額に落とした。それがとても心地良い。先程の激しい長太郎をもっと見てみたくあるけど、私達にはまだ、早いよね。私が長太郎の広い胸に顔を擦り寄せるとゆったりと抱きしめてくれた。こんな長太郎だから、私は好きなのだ。穏やかで、小川のせせらぎのように雅やかで、驚くほど純朴なところがある。それでいて、必ず相手の立場になって、人を思いやれる優しさが。

「……ごめんね」
「何で謝るの?」
を傷つけたくないから……」

今度は私の目を真っ直ぐ見据える。私は長太郎の耳たぶから顎にかけて軽く撫でると、「長太郎はそんなこと、私にしないよ」と言いのけると長太郎は先程とは打って変わって潰れんばかりの力で私を抱きしめた。た、たまにこうやって加減を忘れるのには困りものだけど……!

「ちょっと痛いから……!」
「ああ、本当だ。ごめんごめん。制服が皺になっちゃう」
「もう~」

私はこの優しくて甘ったるい空間にいつまでも浸っていたいと思いつつ、名残惜しさを感じながらもその場から立ち上がり、もう一度長太郎の部屋を見回した。また何度も来ることになるんだろうな。長太郎は玄関まで私をまた導いていった。


そうして、彼の机の上にある写真立ての中に自分を見つけるのはまた後日の話だったりする。