今まで失っていたものがある。俺には病気だとか、テニスだとか、部活だとか。そういう事全てに自身を捕らわれて、身動きを取れなくなっていたんだ。何が俺の背中を押してくれたのかは分からないけれど、今は雨降る夜が明けた後の、朝露が零れる朝のようなそんな澄んだ日のようだ。象るということが俺自身の呪縛になっていた。曖昧さを美徳というわけではない。けれど、そういった固定観念が様々なものへの視野の障壁となっていたのかもしれない。


雲ひとつない空を望むには、十五しか積み重ねていない年月にはまだ早い。でも、何かを掴んだ。確かな、何かを俺はこの手にしている。そういうような気がし始めたのはいつからだろうか。水たまりがまだ靴に染みない程度に残る、コンクリートを踏みしめる。


「どうしたの?何か嬉しそう」
「ひとつひとつ、確認してるんだ」


立ち止まった俺の少し先を歩くは穏やかに微笑みかける。朝焼けが、彼女の亜麻色の髪に朱を差す。


「綺麗だ」
「陽が?」
「それもだけど」


含み笑いをする俺に、不思議そうに俺を見上げる小さな彼女。まだ冬の匂いが残る風に少し肩が震えている。そのわずかな、俺以外が掬いきれない事実が喜びをもたらしていく。


「流れていく景色に君がいるから」


目に留まらないものがたくさんある中で、君は俺を視覚してくれている。そういう些細なことが、明るい日差しのもとに俺を運んでくれているんだ。


「わたしは、精市と歩いてるから」


俺より小さな歩幅のは柔らかく笑い続ける。冷たいそよ風が、彼女の少しくせのある髪を揺らした。


「何か、君といる時に少しずつ言葉や感情が生まれるんだ」
「どんな?」
「よくわからない。形はないけれど、心地良い。俺を縛る言葉や感情が解放されるような、そんな」


水がスニーカーに跳ねる。パシャリ、という水音に耳を研ぎ澄ます。


「精市は獣になりたいのかしら」


は思いもよらぬ表現で俺に問いかける。


「なぜ?」


俺が問い返すと、は深呼吸をする。この清々しい空気で肺を満たした彼女に、微塵の穢れもない。そんな、神聖な雰囲気さえもたたえる彼女は鈴の鳴るような声で返事をした。


「象った世界から形のない曖昧なものたちに還ろうとしてるから」


わかっているのだ、彼女は。俺の言わんとすることが。小さいけれど、産まれていくたくさんの感情は彼女を愛しいと思う気持ちを増幅させる。


「そうだ、俺は神の子という枠にはめられすぎていた」
「色んな枠にね」
「ああ・・・俺だって所詮、ひとりの人間でしかないのにね」


真田しか起きていないだろう、こんな早朝の散歩に何の文句も言わずに応じてくれるは人一倍感性が研ぎ澄まされていた。微かな俺の感情のビブラートにさえ敏感に感じ取る、だからこうやって言葉ひとつひとつを汲み取って、意思を交わすことができるのだ。


「色んな枠をわたしたちは作ってしまうから、苦しい」
「・・・苦しかったな」
「でも、今は苦しくない?」
「苦しくない。見るもの感じるもの全てが、俺だから」
「抑圧された自我の解放ね」


楽しいという感覚も、失っていたものだ。固定観念は、俺を縛りテニスをすることが苦しかった。完璧な敗北に負した俺は、とらわれていた枠の存在を確認した。


「獣らしいわ」
「そこまで粗野かい?」
「穏やかな、獣ね」


色んな人は、俺を立海の部長だとか、病気から復帰したばかりの身だとか、神の子だとか。俺の描く絵に額をはめようとするけれど、確かに、俺は直情的な獣に還りたかった。


「より、人間らしい獣ね」


嬉しいだとか、悲しいだとか。言葉で表すのもまた必要かもしれない。けれど、その言葉以上に、名前以上に含まれたものを感じ取ってくれる人は、君しかいないよ。赤い日差しは引いていき、日が更に高く昇りだす。静けさで包まれていた、街に人々が動き出す。けれど俺たちは、平行世界で二人だけの世界を歩んでいた。